クルーの面々が再会を喜ぶ中、いつもなら一番に出迎えてくれる顔が見当たらず、あいつは、と小さく問うように呟いた。すると、シャチが、何やってんだよ、と少し離れたところで声を上げた。
「ほら!キャプテンがやっと帰って来たんだぞ!」
シャチに背中を押されて俺の前に立ったのは、ずっと会いたかった相手だった。自然と口角が上がる。少し痩せたように見えるが、相変わらず柔らかそうな頬に愛おしさが込み上げる。ユカリと目が合って、緩く口角を持ち上げた。無意識のうちに触れたくなって、手を伸ばそうとした瞬間。
「おかえりなさい、キャプテン」
「ッ・・・・・・!」
久しく呼ばれていなかった呼び方に息を呑んだ。明らかな拒絶。笑みを浮かべた表情は明らかに作られたもので、その眼は足元の巨象の背へ伏せられた。複数の困惑した視線が俺たちの間を彷徨う。伸ばしかけた手を握り、行き場を失くしたそれをポケットへと入れた。
「ああ」
愛する人からの拒絶がこれ程までに堪えることを俺は初めて知った。
Slipping Away
from the Fingers
いつもなら宴の時には隣にいるユカリがいない。ユカリは離れたところに座り、さまざまなミンク属に囲まれ、その周りを甲斐甲斐しくベポが動き回っていた。あれ取ってあげようか、これも食べなよ、とベポは一生懸命話しかけている。ユカリは、そんなに食べられない、と苦笑いを浮かべていた。
「あれはなんだ」
ベポに視線を向けたまま問えば、その視線を辿ったペンギンが、ああ、と漏らした。そして、言葉を選ぶように口籠った。
「・・・さっき話した通り、百獣海賊団の幹部ジャックにモコモ公国が襲われたんですけど」
どうやらゾウについたクルー達は、四皇カイドウの手下、ジャックの襲撃に合ったらしい。仲間の故郷の危機に加勢するのは当然のことだと、昼夜交代しながら戦い続けた。ペンギンはゆっくりと俯きながらも説明を続けた。
「あいつ、ベポを庇って怪我したんですよ」
怪我をするのは海賊をやっていれば別に珍しい話じゃない。特にユカリはその戦闘能力の高さ故に戦闘要員としてハートの海賊団へと誘ったのだ。戦闘になれば先陣を切って戦うだろう。そして、その際多少の怪我はいつものことだ。いつものベポなら直後に申し訳なさそうにしても、すぐに明るい姿に戻るはずだ。それが何故あんな過保護な反応になるのか。
「そんなの珍しくねぇだろ」
ユカリが立ち上がり、麦わら屋に二、三言葉を掛けた。頬を食い物で膨らませた麦わら屋は口の中の物を飲み込むと、ユカリに返事をした。離れてしまい、会話の内容までは聞こえない。だが、ユカリは柔らかい微笑みを浮かべていた。苛立ちが込み上げる。
舌打ちすると、ビクリとペンギンが肩を揺らした。あ、まあ、と歯切れの悪いペンギンへ視線を向けると、少し俯いているせいで表情が見えなかった。
「なんだ?」
先を促すと、ペンギンが、その、と口籠もりながら続けようとした。
俺の視線は、麦わらに小さく手を振り、今度は酒を飲むゾロ屋に声を掛けたユカリへ向いた。ゾロ屋は意外なことにユカリに座るよう促し酒を勧めた。ユカリは素直に座った。剣を扱う者同士、気が合うのだろうか。心なしか、ユカリの表情が豊かだ。ふんわりと微笑んで見せたかと思えば、ゾロ屋の言葉に口を開けて笑って見せたりした。苛立ちが増す。
「キャプテン?」
ペンギンが首を傾げた。聞いていたのか確認するような視線に、ちゃんと聞いていないのに、そうか、と返した。
「えっ、それだけ?」
驚いたように声が高くなったペンギンを見れば、ペンギンはヒッと声を漏らした。そして、何でもないです、と首をぶんぶん振り、酒を持ってくると立ち上がった。
ユカリに駆け寄ったベポは、また新しいツマミを持ってきたらしく、ゾロ屋はベポの背中を叩いて褒めているようだった。ユカリは右手に持っていた酒を置き、ペポから器を右手で受け取った。膝に置いた器に左手を添え、にこりと笑ったユカリは右手で持ったフォークを口へ運んだ。美味しいのだろう。満足そうな笑顔にベポも嬉しそうに笑っている。
俺の隣でベポと笑っているユカリが今隣にいないのは、俺がパンクハザードへ単身で向かう決断をしたからだ。
「私も連れて行って」
クルーにゾウへ向かうよう指示を出した夜、俺の部屋へ入ってきたユカリの第一声だった。
「一人で行くのは得策じゃない」
これは俺の戦いだ。勝算の低い戦いにクルーを連れて行くつもりは毛頭なかった。
「俺が居ない間、誰がこの船を守る?」
ユカリは戦闘力で言えば俺の次と言っても過言ではない。
「それなら誰か他のクルーを連れて行って」
「これは俺の個人的な事情だ。クルーを付き合わせるつもりはない」
なら私は、と震える声でユカリが呟いた。恋人の自分はどうなのかと言いたいのだろう。
「お前は船を守れ。船長命令だ」
きっぱりと言うと、ユカリは唇を震わせた。そして、その口をつぐんだ。
「なら」
少し間を置いて、ユカリがようやく口を開いた。
「別れましょう」
重々しく告げられた言葉に息を呑んだ。
「今日から私たちはキャプテンとただのクルー」
そうすれば船長命令も大人しく聞けると言うユカリに、俺は言葉を失った。予想外の言葉だった。
「さようなら、ロー」
部屋を出て行こうとするユカリを引き止めようと反射的に口を開こうとしたが、俺の口からは何の音も発せられなかった。引き止めようとしなかった手は読んでいた本に添えられたままだった。扉の閉まる音が響き、無音に包まれた。
朝食もミンク族が用意してくれている、とペンギンに引っ張り出された。もう少し眠っていたかったが、久しぶりにクルーと共にする朝食だ。戻れると思っていなかった場所に戻ってきた今日くらいは起きることにした。
「おはようございます、キャプテン!」
クルーたちに、おはよう、と返せば、嬉しそうな笑顔が返ってくる。改めて生きて帰ってきたのだと実感する。
部屋を見回せば、ユカリは既にテーブルについていた。やはりベポが皿を運んで世話をしている。いつもなら両手で持ってかぶりついているサンドイッチをベポがナイフで片手で持てるくらいの大きさに切ってやっていた。
「どう?ユカリ」
「美味しいよ。ありがとう、ベポ」
「よかった!」
あの時引き止めていたら、あの微笑みを隣で見られたのだろうか。あの時ユカリも連れて行っていたら。
「ユカリ、このジュースも美味いぞ!」
シャチがユカリにコップを差し出した。サンドイッチを右手で持ったまま、ユカリはそれを受け取るために左手を伸ばした。しかし、そのコップは手渡されることなく、床へと落ちてしまった。バシャッと床に零れる音がして、シンとなった。
「わっ、ワリィ、ユカリ!」
「大丈夫。むしろゴメン」
謝るシャチにユカリは申し訳なさそうな顔をして立ち上がった。ベポもふきんを取りに行こうと慌てて立ち上がった。
「おい」
俺の声に全員が息を呑み、視線が俺へ集まる。
「どういうことだ」
説明しろ、と言うようにユカリの左手を掴んだ。ユカリは顔を顰め、抵抗するように腕を引こうとした。だが、俺の力に敵うはずもない。
「きゃ、キャプテン!ユカリ、左腕怪我してるんだ!」
だから強く掴まないで、とベポが目をうるうるとさせながら俺に頼んだ。
シャチが差し出したコップをユカリが落としたのは、ユカリの左手が動いていないからだ。思い返してみれば、再会してからユカリはずっと右手しか使っていなかった。昨夜皿を支えていたように見えたが、指が使えないのだろう。何故もっと早く気が付かなかった。
「何で早く言わねぇ」
苛立ちながら、治療するから来い、と腕を引こうとすると抵抗された。
「必要ありません」
「何だと」
睨みつけるように見れば、ユカリはムッと口元に力を入れた。
「麦わらの船医のチョッパーくんに診てもらいました」
トニー屋が優秀な医師なのは認めるが、お前を診るのは俺だろう。眉間に力が入った。
「傷が治ってからリハビリすれば指も動くかもしれない。とにかく今は傷を癒すことが大事だと言われました」
ユカリは淡々と説明した。そんなにひどい傷だったのか。
「なら尚のこと診る必要がある」
「必要ありません」
「それを決めるのはお前じゃねぇ」
反抗的なユカリに苛立ち、右腕を掴んで立たせた。
「本来ならこのままだったんです。だから必要ありません」
「あ゛?」
顔を顰めるユカリに、喉の奥から低く唸ると、ビクリとユカリが体を揺らした。怯えさせたいわけではない。思わずしそうになった舌打ちを飲み込んだ。
「お前、何を言ってる?」
怪訝な顔を向けると、真っ直ぐとユカリは俺を睨んだ。
「キャプテンがいなければ、このままだったんです。そのままで問題ありません」
第一、とユカリは続けた。
「私は船長命令を守ったまでです。怒られる謂れはありません」
「誰が怪我をしていいと言った!」
カッと頭に血が昇るのがわかった。誰が大怪我してまで船を守れと言った。お前が無事でなくては意味がないだろう。しかし、俺が口を開く前にユカリは俺にキッと鋭い視線を向けた。
「死ぬつもりだった人に言われたくない!」
「ッ!」
「ユカリ!言い過ぎだ!」
投げつけられた言葉に俺は息を呑み、ペンギンは咎めるように声を上げた。俺は片手を上げて、ペンギンを止めた。
「・・・俺はお前に死んで欲しくなかった」
ユカリの目が潤み出した。
「ローは!自分が一番したくない思いを私に押しつけたんだ!」
ヒュッと俺の喉が鳴った。
「人の、仲間の死を、受け入れたくないと一番思っているくせに!自分が一番嫌だと思うことを!私に、私たちに、押し付けたんだよ・・・!」
ポロッとユカリの目から涙が溢れた。
「私だって!ローが死んだら嫌だよ!死に行くような状況を許せるわけないじゃない!」
ポロポロと溢れるユカリの涙に思わず掴んでいた腕を引き、その体を抱きしめた。小さくなったと思った。離して、と抵抗するようにユカリが俺の体を押そうとするが、俺はそれを許さなかった。
「・・・悪かった」
ユカリを、クルーたちを、いかに危険から遠ざけるかしか考えていなかった。私情に巻き込むわけにいかない。俺の個人的な事情のせいでこいつらを死なせるわけにはいかない。そんな考えしかなかった。
そして、考えもしなかった。ユカリがどれだけ悲しむかを。こいつらが俺の死を受け入れたくないと思うことを。頭を掠りもしなかった。
俺は、俺のことしか考えていなかった。
ズズッと何人かが鼻をすすった。ベポはボロボロと泣いていて、ゴシゴシと腕で目を擦っている。
「キャプテンも居なくて、クルーまでも失ったら、ハートの剣士の名折れじゃない・・・」
微かな声で呟いたユカリの体は震えていた。この小さな肩に俺は重たいものを課してしまっていたのだ。
「悪かった」
その頬に手を添えて上を向かせ、涙を親指で拭ってやると、その瞳に俺が映っていた。
「今度何かある時は、お前も連れて行く」
だからもう泣くな、と言えばユカリは、絶対に、と念押しするように呟いた。ああ、と頷いてやると、ユカリはホッとしたように息を吐いた。
「だから俺の側に居ろ」
ユカリはこくんと頷くのを確認した俺はその体に回した腕に力を込めた。今度こそ二度と離さないために。
2023/06/27
「指先からすり抜ける」
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