「何のつもりだんねー!ユカリ!鼻水出たわ!」

 声を荒げた直後にトレーボルは震えた。ローに馬鹿にされ怒り、ドフラミンゴを悪のカリスマに育てたあげたのは自分達だと叫んだトレーボルの前に立ったユカリが覇気を放ったのだ。殺気立っている。そんな馬鹿な。ユカリにそんな戦闘能力があるはずがない。その辺の海賊に襲われたときに自身に降りかかる火の粉くらいは払えるような護身術程度の訓練しかしていないはずだった。ドフラミンゴがユカリを戦闘に出すことにいい顔をしなかったからだ。王としてそれでもいいのか考えたが、トレーボルはドフラミンゴのユカリへの執着を理解し、それを受け入れることにした。女王の資質があっても、ユカリには悪の素養はない。邪魔になったら知られずに殺せばいいと考えていた。それがどうだ。トレーボルの目の前で覇気を放ったユカリは、そんな弱い存在ではない。

「あなたにローは殺させない」
「なっ、お前ドフィを裏切るつもりだんねー?!」

 トレーボルはこめかみに力が入るのがわかった。しかし、ドフラミンゴがこの場にいる今、ベトベトをユカリに向けるわけにはいかない。

「驕るなよ、トレーボル」

 珍しく荒れた口調にトレーボルは震えた。

「ドフィはお前がいなくとも王だ」

 きらりと光るユカリの瞳にトレーボルは唇を噛んだ。

「私は昔からお前が嫌いだった。ドフィの痛みを利用するお前達が、大嫌いだ」

 ユカリの手には短刀が握られている。

「お前!ユカリ!血の掟を忘れたのか?!」

 ファミリーに刃を向けてドフラミンゴが黙っていると思うのか、と叫ぶトレーボルにユカリは、ふ、と鼻で笑った。

「お前と私を天秤にかけて、お前を選ぶと思うのか?」

 馬鹿にするような表情に、トレーボルの頭に血が上るのがわかった。同時に、ドフラミンゴのユカリへの執着を思えば、ユカリが自分を殺しても許すだろうと思った。握った拳に更に力が入る。

「私はドフィとローが居ればいい」

 トレーボルをユカリの鋭く睨む目は今まで見たことがないくらいに冷たかった。ぞわりとした瞬間、首元が熱く感じる。激痛が走る。視界がぐらりと傾く。頬にぶつかった地面の感触に目を瞑った。すぐに開くと、見下ろすユカリの輝く瞳と目が合った。世界が暗転する。

「どうした、トレーボル!」

 ドフラミンゴの声でハッと息を呑んだトレーボルの前にはベタベタで拘束したローの前にユカリが立っている。自身の荒い呼吸に困惑した。何が起きた。一体、何が。

「今のは未来の可能性の一つ」

 静かに言ったユカリにトレーボルは、まさか、とその目を見た。幻覚を見せる能力。いつの間にそんな能力を身につけていたのだろうか。トレーボルは思考を巡らせたが、見当もつかなかった。ずっとユカリはドフラミンゴの庇護の下、力無く守られているだけの存在だと思っていたのだ。

「ねえ、トレーボル。その可能性の一つを現実のものにしたい?」

 ぶちっと血管の切れる音がしたような気がした。

「ユカリ!俺達はファミリーだんねー!俺達最高幹部に格差はない!そんなことして許されると思うんだねー?!」

 ふん、とローが嘲笑うように鼻を鳴らした。操り人形に見えると馬鹿にするローに、トレーボルの沸点を超えた。道連れだと叫び、火を粘液へと振り下ろした。



地獄の底まで





 巨躯が空から落ち、地を割って落ちた。地面の割れ目からふわりと降りる。初めて見るボロボロになったドフラミンゴの姿にユカリは静かに息を呑んだ。

「ドフィ」

 微動だにしない体へ一歩ずつ近づいた。割れてしまったサングラスが足元に見え、ユカリはそっと目を閉じたままの素顔へ視線を向けた。瓦礫に膝をついて、その頭を自分の膝の上へと乗せた。

「どこまで見ていた?」

 短い髪から埃を落とすように撫でたユカリの手が止まった。

「今日のことは事前に何も見てなかったよ」

 それは本当のことだった。ドフラミンゴが望まない限り、ユカリはドフラミンゴの未来を見ることをしなかったし、ドフラミンゴも必要最低限しかユカリに未来を見るように言わなかった。

「それに」

 騒動が始まって見た未来は、モンキー・D・ルフィとトラファルガー・D・ワーテル・ローによって現実にはならなかった。

「私がドフィと一緒にいることには変わらないよ」

 フ、とドフラミンゴの口角が僅かに上がった。


 ハートの席に繋いだローの手当てをしたのだと報告を受けた時、ドフラミンゴは想定内だと思った。ユカリは昔からローを気に入っていた。それはドフラミンゴがローに昔の自分を見ていることが理由なのか。それとも他の理由があったのか、ドフラミンゴにはわからない。しかし、繋がれたローの前で膝をつくユカリを見た時、その手が愛おしそうにローの手を両手で包んでいるのを見た時、どろりとした感情が腹の底から溢れてくるのがわかった。ドフラミンゴは、すぐに床に膝をつく体を抱き上げた。藤虎に会わせるつもりもなかったので、軽い用事を頼めば、ユカリは素直に頷いた。しかし、部屋から出る前にその視線がローに向いたことにドフラミンゴは込み上げる不快感に眉間に皺を寄せた。小さな呟きは誰かに聞かれることなく廊下に消えていった。

「昔は気にならなかったんだがな」

 鳥籠がドレスローザを覆い、王宮の最上部でドフラミンゴはユカリを自身の座る椅子の肘掛けへ座らせた。ルフィとローが現れても、ユカリは動じていなかったが、ローがドフラミンゴと入れ替わった時には驚いていた。しかし、その目蓋は閉じられたままだった。
 その目蓋が開いたのは、ドフラミンゴがローの腕を切り落とした時だった。もがき苦しむ叫び声の中、その名を呼ぶ小さな呟きにドフラミンゴは気付いた。サングラスの裏でちらりとユカリに視線を向けた。ガラス玉のような目は大きく見開かれていた。口元を片手で抑え、血の気の引いた顔色に、ドフラミンゴは再びどろりと腹の底から黒い何かが溢れ出すのがわかった。気にいらねぇな、と地面を転がるローを見つめるユカリに顔を顰める。
 これはあの時と同じだ。ドフラミンゴは思った。コラソンの裏切りの日に、ドフラミンゴはユカリが自分を置いていくような錯覚を覚えたのだ。そんなことはあり得ないというのに。ユカリは自分にうっとりとした視線を投げ、略奪するこの手を尊いもののように頬を寄せ、自身を必要としている。そうドフラミンゴは断言できる。
 コラソンの死からその目を閉じるようになったが、二人きりのときにはその美しい瞳を見ることが出来た。当然ファミリーの仕事で必要なときも、ドフラミンゴが望めば、過去も未来もその瞳は覗いた。
 それなのに何故だ。ドフラミンゴは自問した。俺は何故ユカリが俺以外を選ぶ可能性を考えている。


「もうすぐ海軍が来る」

 ドフラミンゴが呟くと、ユカリはドフラミンゴの頭をそっと撫でた。

「ここに居たらお前も捕まる」

 ゆるりと頭を撫でた手を頬へ当てた。

「言ったでしょう」

 少し笑いを含んだ声に、ドフラミンゴはゆっくりと目を開いた。

「私がドフィといることには変わりないわ」

 きらきらと輝く瞳に魅入られるように見つめていると、その焦点が合わなくなっていく。唇に触れる柔らかい感触にドフラミンゴは再び目を閉じた。愚問だったな、と笑った。

「愛してる」




2023/03/01





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