昔のことはよく覚えていない。断片的な、まるで写真のような記憶の欠片しか、俺にはない。それでも、少しだけはっきりと思い出したことがある。
近所に住んでいた少女の家の壁に壊れている所からこっそりと入ると、彼女はいつもなぜか気付いてくれた。見えていないというその目はいつも硝子のように綺麗で、俺を映すことはないのに、俺を映してくれているように見えた。いつでも俺を見つけては笑ってくれた彼女のそばにいると不思議と痒みは感じなかった。
『テンちゃん』
ただの気まぐれだ。
ずっと忘れていた記憶の中にあった家は、そのままだった。薔薇の咲く庭も、白い丸型のガーデンテーブルもセットのイスも、まるで時が止まったかのように、そのままだった。
何度か入ったことのあるガラス戸についたドアノブに指をかけると、カチャと開いた。鍵が空いていることに驚いた。ゆっくり開くと明かりが漏れてくる。昔嗅いだ覚えのあるオレンジのような香りが鼻孔をくすぐる。部屋の真ん中に置かれた白いソファも昔のままだった。
「だれか、いるの?」
小さく声が聞こえて思わず震えた。ゆっくりと振り返ると、少女の面影の残る顔をした女が立っていた。少し伏せ目がちな硝子のような目がなんとなくこちら側を見る。
「どちらさまでしょうか?」
まるで誰かがいるのが分かっているかのように、女は問いかける。見えていないはずの目だが、気配は感じ取れるらしい。
「不用心、だな」
まるで喉が張り付いたかのように掠れて出た声に恥ずかしさを覚えた。「不用心」とおうむ返しに彼女が呟いた。
「泥棒さんですか?」
ふふっと女が笑った。
他人が家の中に居たら驚くだろ、普通。自分のしていることを棚に上げて、その危機感の無さに苛立った。
「そんな金目のものないですよ」
自分が襲われるとは思いもしない。微笑んだままの女にゆっくりと近づいて手をかざす。このまま五指で触れれば、脆く崩れていくというのに。
「美味しい紅茶があるんです」
『おいしいクッキーがあるの』
まるで見えているかのように、視線が俺の顔の方を向いた。聞き覚えのある誘いに、初めて会った日の記憶が鮮明に脳裏に映る。
「よかったら、一緒にいかがですか?」
『よかったら、一緒にたべようよ』
思わず、息を呑んだ。
「へんなやつ、だな」
『へんなやつだな』
記憶に沿って返す。
「私は、縁です」
『わたし、縁っていうの』
ふわりと微笑んだ顔は、記憶よりも綺麗になったように思える。欲目だろうか。なんてらしくないことを考えた。
「死柄木弔」
「・・・しがらきさん?」
少し不思議そうに、確認するように首を傾ける顔から目が離せなくなる。
「弔」
「とむらさん?」
「さんは、いらない。年そんな変わんないだろ」
見えない彼女にその判断はできない。人によっては傷つくかもしれないが、彼女は傷つかない確信があった。
「じゃあ、弔くん。今、お茶淹れますね」
再び笑顔になった縁はキッチンの方へとまるで見えているように迷いなく歩き出す。その小さな背中を見ても、別に不用心だとはもう思わなかった。
夜の気まぐれティータイム
弔くんは特に用事がなくても、ふらりと家に来るようになった。いつも、ふと気が付いたら、廊下に立っている。なんとなく懐かしい空気を纏う弔くんが突然家の中にいることに、不思議と抵抗感も危機感も感じなかった。
「弔くん、こんばんは」
「ああ」
親指と人差し指と小指が私の手に触れる。いつも触れるのは、何故か三本の指だけ。
「今日、弔くんが来るかもしれないと思って、クッキー焼いたの」
ふーん、と一見素っ気ない返事が返ってきた。けれど声のトーンは少し嬉しそうで、思わず頬が緩む。
「甘いの?」
頷けば、早くと急かすように触れている手が引かれて、キッチンへと進む。三本の指が私の手を無機質なキッチンカウンターの端へ導き、少し冷たい指は上から触れたままでいる。私から離さない限り、離れることのない手。
「紅茶淹れるね」
「ん」
小さく頷く声に、思わず笑みを深める。慣れたキッチンで電気ポットに水を入れ、スイッチをオンにする。その間に焼いておいたクッキーを取り出し、ティーポットに茶葉を入れた。電気ポットから電子音が鳴り、それをティーポットへと注いだ。すぐ側に立ったままの弔くんの鼻がすんすんと音を立てる。
「いい香りでしょう?」
「前と違う」
「この前はカモミールだったから、今日はアールグレイ」
ふーん、と言いながら、更にくんくんと鼻を動かすのがわかった。トレーにティーポットとカップとクッキーを乗せて持てば、突然その重みが消える。弔くんが持ってくれたらしい。そして、片腕を私の手に押し当てた。そっと腕に手で触れれば、ん、と小さく合図して歩き出した。自分の家の中くらいわかることは、彼も承知の上で私をガイドしてくれる。リビングのソファの前へ辿り着けば、トレーがテーブルに置かれた。
「ココアとプレーン、二種類作ったの」
紅茶をカップへ注いで出すと、弔くんはそれに口をつけた。カチャ、とカップを置く音がした直後に「うま」と声がした。
「クッキー、うまい」
「本当?よかった」
気に入ってくれたようで、ホッとした。サクサクと食べている音が聞こえる。
「お茶、こっちの方がいい」
「カモミールよりアールグレイの方が好き?」
「ああ」
覚えておこう、と心にメモをする。でも次はまた違う紅茶にしよう、と私は一人、いつかもわからない予定を立てた。
「クッキーは、どっちが好み?」
「どっちもうまい」
「よかった」
ふふ、と笑う。今度は何を作ろうか。スコーンとかもいいかもしれない。トッピングにチーズとジャムの両方用意したら、甘い方を気にいるだろうか。
「縁」
唇に硬い感触を感じ、鼻に通るココアの香りからそれが作ったクッキーだとわかった。口をひらけば、甘さが舌の上に広がる。
「縁は、甘いもん好き?」
「甘いのも塩っぱいのも好き」
「ふーん」
そ、と短く相槌を打った弔くんがまた紅茶を口にした。
「全部食べてもいいよ」
「こんなに食べられない」
「ふふ、そうだよね」
確かに焼いたクッキーの数は、四、五人でパーティーが開けるような量だ。包んで持って帰ってもらってもいいとも思うけど、間があいてしまっても嫌なので、そうしない。弔くんは別にお菓子目当てで来ているわけではないと思うけれど。
「弔くんは、何が好き?」
んー、と考えるような声が少し聞こえてから、答えが返ってきた。
「ゲームかな」
「ゲーム?」
食べ物ではなかった。思わず笑うと、弔くんは不思議そうな声を出した。
「なんで?」
「ゲームね。そうだ、チェスでもどう?」
「チェス?」
家にテレビゲームはないので、チェスに誘ってみると、弔くんは了承してくれた。
「やったことある?」
「ない」
長年相手が居なくて埃を被っていたチェスボードを取り出すと、弔くんの視線を感じた。
「ボードの横にある数字とアルファベットを読んでくれたら大丈夫」
「ふーん」
「これ、コマにそれぞれの動きが書いてあるはずなんだけど、ある?」
「ああ」
コツンコツンとそれぞれ拭いたピースを並べながら確認しているようだった。そして、簡単なルールを説明していくと、わかった、と返事があった。とりあえず、初めての弔くんが黒で、私が白となったが、その理由は「黒の方がかっこいい」と言った弔くんの要望からだった。なんだか可愛らしい理由に、私はとても楽しい気持ちになった。
「負けても泣くなよ」
「お手柔らかに」
ふっと笑った弔くんだったが、その日は結局私が経験の差で三ゲーム全て勝つことができた。「もう一回」と悔しそうな弔くんに、今日はもう寝る支度しようと告げる。
「今度来た時は絶対勝つからな」
「じゃあ、私も負けないように頑張って練習しておかなきゃ」
さらりと三本の指が私の頭を撫でた。
「また来る」
「うん、楽しみにしてるね」
「ちゃんと戸締まりしろ」
心配症な弔くんに、うん、と頷くと、鍵の音を聞くまで帰らないと言われてしまった。名残り惜しく思いながらも、静かにドアを閉めて鍵を閉めた。今度はいつ来てくれるかな。
2022/09/16
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