許可するまで動くな、と邪悪な笑みを浮かべた相手に、パンダと日下部は刻一刻と近付く炎の塊とその悪意の脅威に慄然とした。
「まだだ」
心の底から楽しそうに笑う男は、やはり千年以上も前から存在する呪いだった。日下部は、奥歯を噛んだ。刹那、突然パンダと日下部は体を引っ張られる感覚に襲われると同時に宿儺が手を叩く音が耳に入る。爆発音に備えて構えるが、無音に包まれた。
「縁」
パンダは目の前にあった瓦礫を退かせると、自身の体を引いた人間の名を呼んだ。
「そこのコンクリートの下だ」
パンダは縁が指した瓦礫を持ち上げると、日下部が大人しく寝そべっているのが見えた。
「話が違うじゃねえか」
日下部は愚痴るように呟いた。
「あれ、本当に悠仁なのか?」
「おそらく呪霊達が持っていた宿儺の指を一度に食わされでもしたんだろう。あれは虎杖悠仁ではない」
縁はきっぱりと言うと、空を見上げた。
「悟は?」
「さあな」
縁は肩をすくめた。
「悟から受けた指示は、地上に居る一級以上の呪霊を祓うこと。スーツを着ている高専関係者らしい人間を守ること。それだけだ」
一般人の安否など知らない、と暗に告げる縁に日下部は眉を寄せた。日下部が高専に所属していない縁と会ったことがあるのは、ほんの数回だった。と言っても、面倒事が嫌いな日下部が会話を交わしたことはない。五条と居るところを見るか、自身の生徒達と話している所を見掛けた程度である。呪霊をその体に飼っているために、上層部に危険視されている人間。あの五条悟が保護しているのは、特級相当であるとも噂されている。
「まったく、面倒な指示を出してくれるものだ」
縁の独り言にパンダは、いつものことだろ、と思いつつも、その指示のハードルの高さがいつも以上であることは、縁の視線の先を見れば理解出来た。二体の特級が上空で対峙している。
「さすがに、これは
言葉とは裏腹に笑みを浮かべた縁に、日下部はゾッとする。まるで動くなと笑った男のようだと思った。
「死にたくないのなら、さっさと逃げることだな」
言われなくとも、と日下部は心の中で返した。
「縁はどうするんだ?」
パンダが問いかけると、縁はゆっくりと上空から視線を向けた。
「蠱毒は蠱毒らしく、勝者を喰らうまでだ」
神無き日の悪戯の痕
「ほら」
虎杖はポイと暗闇から投げられたそれを咄嗟に受け止めた。
「おにぎり?」
梅や昆布など、具の名前が大きく印字されたそれから視線を上げた。暗闇から少し光の当たる所へ一歩出た縁は、壊れたコンビニから貰ったのだと言う。
「それ、泥棒になるんじゃ・・・」
「このままだと腐るだけだろう」
確かに。虎杖はもう一度手元のおにぎりを見下ろした。
「まだあるぞ」
丸く膨らんだエコバッグを持ちあげた縁は、そこからペットボトルを取り出し、それを虎杖へ向けて投げた。
「コーラ?ってか、おにぎりにコーラって・・・」
「オマエはコーラが好きだと聞いたが、違うのか」
食べ合わせ、変じゃねぇかな。虎杖は複雑そうに二つを見た。そして、ハッと縁を見た。自身の好みを覚えていたことに驚いたのだ。
「あとコレ」
ポンと投げられたのは、顔の彫られたカボチャの絵が描いてあるシュークリームだった。
「シュークリーム?」
「悟が今年のは美味いと言っていた」
意外なことにひんやりとしているように感じた。
「オマエも食べるだろう?」
「ああ、頂こう」
縁は暗闇に居た脹相にもおにぎりを複数とシュークリームを投げた。
「今日はここにするか」
縁はそう言うと、コンクリートの上に破けた雑誌を何冊か置いた。そして、指を折り曲げ印を結ぶと、ブワッとそれは燃え始める。最初に見たときは驚いたが、ここ数日で随分と見慣れてしまったものだと虎杖は思った。
呪霊が暴れ、五条悟が封印され、東京は壊滅状態だった。人々は見えない何かに怯え、呪霊は次から次へと湧き続けている。高専に戻るわけにはいかない、と虎杖は一人都内で呪霊を祓除する決意をした。不思議なことに、翌日には縁が廃墟と化したビルで野宿をしている所に現れたのだ。
罵声も、慰めの言葉もない。ただいつも通り「虎杖悠仁」とフルネームで呼び、持っていた水のペットボトルを放り投げてきた。そして、地面に座り、前日から眠らずに居た虎杖に寝るように告げた。なんで、と問おうとすれば「隈が酷いぞ」と言われ、虎杖は戸惑いを隠せなかった。弟と自身を呼び、ついてくる脹相が居ても、一度は戦ったこともあり、完全に目の前で眠ることは難しかった。それを見越しているかのように、縁は声を落として「私が見ている」と言った。嫌悪感の混ざっていた眼差しは、今では心配の色に変わっていた。
「結界がないと眠れないなどと言わんだろうな」
顔を顰めて言われ、見慣れた表情はこっちだなと思いながらも虎杖は慌てて、大丈夫だと返した。そして、冷たいコンクリートに背中を預けて眠った。
それから虎杖と縁は行動を共にしている。ふらりと呪霊相手にどこか離れることがあっても、夜には合流し、交代しながら眠る。
「毛布?そんなん、どっから持って来たの?」
「壊れたコンビニだ」
手渡されたものに虎杖はギョッとする。コンビニに毛布は売っていないはずだ。そんな馬鹿な、とジッと縁を見ると、ムッと口角を下げた。
「コンビニの隣は元々ディスカウントショップだった」
壊れた壁のせいで境界がなくなっていたからコンビニだと話す縁に虎杖は複雑そうな顔をする。自身も決してルールを厳しく守るタチではないが、五条の側にいるせいか、縁はかなり倫理観がバグっているように虎杖は思った。
そこでふと虎杖は五条の姿が脳裏に浮かんだ。小さな箱に閉じ込められた自身の教師は、縁を愛おしそうに撫でていた。縁はその手を振り払うことなく、呆れた視線を向けていた。自身に向けられる睨むような視線と違い、五条を見る縁の目は柔らかく思えた。
「なくていいのなら返せ」
「あー!ありがとうございます!神様仏様縁様!」
ふん、と縁は鼻を鳴らした。しかし、投げかけられる言葉とは違い、その視線は虎杖の体を気遣うように観察している。野宿が続いたことで節々が多少痛み出したことに、縁は気付いたのだろう。虎杖は有り難く感じながらも、申し訳なさを感じた。
「虎杖悠仁か」
平衡感覚を失ったように溢れる記憶と鼻に届く死臭に嘔吐した直後に後ろから声を掛けられた。ゆっくりと振り返ると、眉間に皺を寄せた縁が立っていた。何か握って構えているように一瞬見えたが、縁はすぐに考えるように顎に手を当てた。
「・・・縁、さん」
俺が死ぬべきなのだ。俺はここで死ぬわけにはいかない。呪霊を祓わねば、と虎杖は葛藤を振り落とし、拳を握った。ゆらりと立ち上がった虎杖に縁は背を向けた。
「縁さん?」
虎杖が呼ぶと縁は軽く振り返った。
「私が悟から言われているのは、地上にいる一級以上の呪霊を祓うことだ」
虎杖はその言葉に息を呑んだ。
「呪霊ではないものに構っている時間はない」
虎杖は、まさか知らないのだろうかと、五条が封印されたのだと説明した。しかし、縁の態度は変わらない。
「七海建人を呼んでいただろう」
暗に聞こえていたと告げる縁に虎杖は困惑した。
「五条先生を助けに行かないと」
縁は面倒そうに溜息を吐いた。
「私がやるべきことは、地上にいる一級以上の呪霊を祓うことだ。悟の所は、術師達が向かうだろ」
真っ直ぐ縁の視線が虎杖に向けられた。
「オマエみたいにな」
そう言うと縁は姿を消した。グッと虎杖は気合を入れ直すように拳を握り直した。
「ごめん」
突然の謝罪に縁は眉間に皺を寄せた。目の前の人間は毛布を受け取りながら、何を謝っているのだろうか。劣悪な環境で育った縁にとって、都会の中での野宿は、警戒を怠ることが許されない以外は、普通なことだった。久しぶりとはいえ、狭い部屋に閉じ込められていたときよりは、選べるだけいいとさえ思うのだ。しかし、他の人間はそうでないことを理解していた。ボキッと関節を起きるたびに鳴らす虎杖を見て、やはり睡眠環境をよくするべきだろうか、と考え、毛布を半壊した店から拝借したのだ。
「俺、取り返せなかった」
毛布に包まった虎杖がポツリと呟いた。瞬時に縁は理解した。
「悟が封印されたのは、加茂憲倫の用意周到さと、悟の油断だろう」
縁はゆっくりと燃える炎へ視線を動かした。
「やあ、縁」
「すぐ、る・・・?」
見知った姿に縁は時が止まったような気がした。あり得ない。胡散臭い袈裟を着た男を睨みつけた。
「夏油傑の姿をした、オマエは、何だ?」
警戒態勢のままの縁に男は笑った。
「キッショ」
聞き慣れない言葉に縁は顔を顰めた。
「オマエもわかんのかよ」
乱暴な言葉に縁は舌打ちし、地下へ来なければよかった、と後悔していた。高専関係者が怪我を負っているのを見つけ、仕方なく運ぶと、夜蛾は縁に、悟が封印されたらしいので手を貸して欲しいと頼んだのだ。悟の指示を伝えたが、夜蛾はそれよりも緊急性が高いと判断したのだと言う。
「殺してやる」
踏み込みながら縁は呟いた。
「オマエなんかが取り返せるわけないだろ」
ふん、と縁は鼻を鳴らした。
「ただの人間のくせに」
ツンと鼻の奥が痛む感覚に、虎杖は毛布に顔を埋めた。
「第一、あの場に居た人間全員が取り返せなかったんだ」
縁は鮭と書かれた包装を手順通りに裂いて、それにかぶりついた。
「弟を虐めているのか?兄ちゃん黙ってないぞ」
「黙れ」
脹相を冷たくあしらう。最初は何なんだコイツは、というような視線を向けていた縁も、今では視線を向けることすらしない。溶け込んでるなあ、と虎杖は脹相をそっと見た。脹相は一口で頬張ったおにぎりで頬を丸く膨らませながら食べている。
「なんだ、これは」
シュークリームを摘んで問う脹相に縁は一瞬考えた後答えた。
「西洋のお菓子」
「珍妙な餡だな」
「餡・・・クリームね」
「生クリームの味とは違うが?」
「生クリームは食べたことあるのか。それはカボチャのカスタードクリームだな」
「生クリームが入ってるのか?」
「・・・どうだろうな、入ってるんじゃないのか?」
「知らないのか」
「知らん」
虎杖はそんな二人のやり取りに、自然と口角を上げた。
「あっま!」
「悠仁、まさかデザートから食べ始めたのか?」
「悟が美味いと言ったものは大抵甘いぞ」
「ハハッ、そうだよなー、五条先生めっちゃ甘党だもんな」
呆れたような脹相の顔と当然だと言いたげな縁の顔に虎杖は笑った。
「縁さん、サンキュー」
縁は一瞬きょとんとしたが、フッと小さく笑んだ。
2022/11/01