私には親が居ない、と思う。
とにかく記憶がある限りではそのような人物は思い当たらなかった。
簡潔に言えば、捨てられたのだろう。
気がついたら私は独りだった。
──…守ってくれる人はいない。
頼れるのは自分自身だけ。
この事実を早くから理解したせいか、私は年齢の割には自我の認識がかなり早かった方だと思う。
村に入れば「汚い」と言われてみんなに蔑まれた。
それだけならまだマシだ。だがたまに変な男が近づいてくることがある。
何をされるのかなんて知らない。
ただ怖いと思った。そして嫌だと。そう思ったから私はそれから必死で逃げた。
力ではどう考えてもかなわない。
捕まったらおしまいだ。
それだけを考え、いつもまわりを警戒していた。
村には極力近づかないようにもした。
人が居る所は怖い。
男は怖い。
自分以外の全てが、怖い。
だから毎晩人目に付かない木の上や、生い茂った草むらの中で眠っていた。
当然、十分に眠ることも栄養をとることもできない体は日に日に窶れていく。
恐怖という感情が他の感情を真っ黒に塗りつぶしていくように、体の衰弱と共に感情も消えていった。
そしてある日のこと。
そんな日々にも限界が来た。
何か食べるものはないかとふらふらと歩いていた最中、急に襲いかかってきた眩暈のせいで倒れてしまったのだ。
倒れた時に少し切ってしまった唇から血が流れる。
私はしばらくの間鉄の味を感じながらぼうっとしていた。
体が動かない。
何も考えられない。
だが虚ろになっていく意識の中で私は微かな気配を感じとった。
(…………おとこ?)
けれど今の自分では逃げることはおろか、立つことすらできない。
(ああ、でももういいや)
きっと私はこのまま死ぬ。
私は何だったんだろう。
どうして生まれてきたのだろう。
この世界が私にくれたものは恐怖と苦しみと孤独だけ。
ただ、私は、
「…たし、は、……」
誰かに愛してほしかった。──ただそれだけなのに。
瞬間、頬に暖かな何かがつたった。
嗚呼、私にもまだ恐怖以外の感情が残ってたんだね。悲しいってこういうことなんだ。
なぜかそれが分かったことにほっとして、そのまま目を瞑ろうとしたその時だ。
誰かがその涙を指で掬い取った。
重たい瞼を持ち上げてなんとか上を見上げれば、そこには優しい笑顔。
そのままふわりと頭を撫でられる。
初めてのその感覚に思わず私が驚いていると、男はゆっくりと口を開いた。
「あなたは生きたいのですね」
私には目の前の男が言っている意味が分からなかった。
生きたい?どうして?こんな世界でどうして生きたいと思うの?
「………ど、して?ここは…、くるしいばっかりだよ。なにもないよ。……いきていたってなにも、…なにも」
途切れ途切れに。自分に言い聞かせるように私はその人物にそう訴えた。
なんだか久しぶりに自分の声を聞いたような気がする。
「………そう、思うのですか。けれどそれはあなたの本心ではないでしょう」
「な、んで」
「だってあなたは泣いています」
分からない。やっぱり分からない。
涙は勝手にでてきたんだ。
私の意志とは関係ない。
だけど何でだろう。
この人の声は不思議とまっすぐに私の心にはいってくる。
あんなに男には警戒していたのに今はそれすらも忘れていた。
「まだ、あなたは生きている」
そう言って私の頭をなでるその手が本当に、本当に暖かくて。
悲しくもないのに、さっきよりもっと涙が溢れて止まらなくなった。
「あなたが言う"こんな世界"で、私と生きてみませんか?」
柔らかく微笑んで差し出されたその手を、私は縋るようにして強くにぎった。
「……たたかい、あたたかい、ね」
「……あなたも、あたたかいですよ」
「っ、ひっ…く、うわぁあ゙ああん!」
ねえ、貴方はあの時のわたしにとって、きっと世界で唯一あたたかいと感じることができる存在だったの。
止まらなかった涙の理由が分かったよ。
私は生まれて初めて安心というものを肌で感じたんだ。
涙ってそういうときにも流れるんだ。
私は生涯、あの日の温もりを忘れたりなんかしないよ。
いきるということ
あの日、わたしは生まれて初めて生きるという言葉の意味を知った。