東の空から差した陽が朝を告げる様をとある少女はじっと見つめていた。少女のとなりには一人の少年が同じようにして佇んでいる。
少女は何の前ぶれもなく目をつむり、深く息を吸った。
すうと大きく吸い込まれた酸素は肺をまわり、やがて再び空気に溶けた。
そんな当たり前の生命維持活動をしているだけ、それだけでとても生きている気分が味わえる。
まだ大人になる手前の少女が、少年が、そんなことを思う朝。それは何と哀しいしあわせであろうか。
「なあ」
「ん…?」
「いいのかよ、」
「なにが?」
「……本当に行くのか」
そんな問いかけにしばらくの沈黙を返し、そうしてふわりと微笑んだ少女の、なんと美しいことか。
「いいか、ここを出てさらに北に進めば俺たちとは別の攘夷軍がすでに戦っているはず。最後の悪あがきだ、戦う意志のある者はそこで戦っている者達に加勢してやってくれ。…分かっていると思うが俺たちがここに戻るということはまずない。離脱する時は各々に任せる。向こうに着いたら、それは俺たちの別れの時であると考えていい」
桂の指示は至ってシンプルなものだった。それを聞いた隊士たちは覚悟を決めたようにそっと頷く。
そんなぴりぴりした空気の中いつもと変わらず、くあと大きな欠伸をこぼしたのは銀時。
桂の方には顔も向けずにきょろきょろと辺りを見回しているのは高杉だった。
「…貴様ら、聞いているのか」
「あ?あー…聞いてる聞いてる」
「銀時、お前は鼻の穴から指を抜け。戦前に殺されたいのか」
「おいヅラ、紫苑は」
「ヅラじゃない桂だ。なんだ高杉、せめて貴様くらいは最後までちゃんと…」
「いいから。どこだ」
「ついさっきまでそこに居たし、まだそこらへんに居るんじゃねえの」
高杉の問いかけにまたも欠伸を交えて答えたのは銀時だった。
高杉はゆっくりと銀時のほうを向くと、そうかと返事をこぼし、踵を返した。
桂が文句を言うが、まるで聞こえないとばかりに高杉の足が止まることはない。
紫苑の姿を探しつつ、彼は小さく舌を打った。
「どこ行きやがったあのばか…」
出発直前だというのに紫苑の姿が見えない。高杉自身、彼女が何も言わずに去ることはないと確信しているが、今までに桂が声かけをしている際紫苑がそばに居なかったということが無かったためか、嫌でも違和感を感じる。
その違和感が不安に変わる前にと思うのは、誰だってそうだろう。
そして幸いにも、比較的早いうちに彼の耳は彼女の声を拾った。
「ほらおいでクロ、こっちだよ」
「!」
見つけた彼女は黒猫を町へと下る道に誘っているようだった。
りん、と。いつか高杉がつけてやった黒猫の銀の鈴が鳴る。
「ほら、きみは早くお逃げ」
「にゃあ」
「きみは賢いから、きっと大丈夫だね」
「…?」
クロは不思議そうな顔をして紫苑を仰ぎ見ると、彼女の足にすり寄った。とたんにほんの少し顔を歪めた紫苑を見て、とっさに高杉は足を踏み出した。
「なにやってんだ、」
「…え、晋助?どうしてここに…」
「なんとなく」
「……そっかあ…。あ!あのね、クロをここから出してやらなきゃって思って」
「…そうか」
「うん、…ほんとはちゃんと村まで送ってあげたかったんだけどね。時間、無さそうだし…それは無理みたいだからさ」
「ああ、…まあでも、こいつなら平気だろ。だいいち昨日まで一匹でやってきてたんだ」
「そうだね。そうだよね」
「……なんて顔してんだよ」
「や、もうほんとに会えないのかなって思うとさ」
「…………」
高杉が目線を下げた先にはいつの間にか自分の足元に移動したらしいクロがごろごろと喉を鳴らしていた。
彼は何も言わずにしゃがみ込むと、ゆったりした動作でそれを撫でる。
ずいぶんと懐かしいその温もりに、気づかぬ内に口元が緩んでしまっていた。
「…じゃあ、"また"な」
小さな小さな、別れのことばは、はたして黒猫に届いただろうか。
しかし高杉がそう呟いた瞬間、彼と紫苑をもう一度だけ仰ぎ見たクロはするりと彼らの足をすり抜け、茂みの奥へと姿を消した。
ちりん、と。澄んだ音が聞こえたような気がする。
残された紫苑はクロが茂みに消えたそのとき、目を見開いて驚いていたが、次の瞬間には妙に納得したような顔をして、苦笑いを浮かべながら言った。
「…行っちゃった」
「行っちまったな」
「まったく、晋助にはまいっちゃうよ」
「あ?」
「……クロはさ、ほんとに晋助のことが大好きなんだねえ」
少し羨ましいと、紫苑は笑う。
高杉はただいつものように無表情で黙っていた。
…かと思えば突然そんな彼女の頭をぐりぐりとぶっきらぼうに撫でつける。
決して優しいとは言えないそれでも、紫苑は目をまあるくして、驚いたふうに声をもらした。
「……え?」
「馬鹿かおまえは」
「………、なにが、」
「あいつを拾ってきたのは紛れもなくおめえだろうが」
「………」
「腹すかして鳴いてた自分を拾った人間だ。特別なひとだろ。なあ、あいつとお前はよく似てた」
頭を撫でつける手のひらの力がやさしくなってゆく。慰めてくれてるのかと感じた瞬間、彼女はようやく視界が変にぼやけていることに気がついた。
自分がどうして泣いているのかも分からないのに。
「…俺からしてみりゃあいつは確かに、おめえに一番懐いていたと思うけどな。なによりんなこたァおめえが誰よりも分かって…」
「晋助、」
「…なんだよ」
「今日なんかあったの」
「 ………あ?」
「ししし晋助がわたしのこと撫でるなんて酔っ払ってる時か酔っ払ってる時か酔っ払ってる時しかないはずだもの」
「…この頭このまま潰してやろうか」
「あいだだだだだだ!!うそうそうそ!もげるぅうあああ」
「ちっ…人がせっかく…」
「なに?」
「なんでもねえよ」
「ふふ、…うそ。ごめん」
「ああ?」
「ありがと、しんすけ」
少女が彼に言えなかった言葉。
「だれの話をしているの」
腹をすかせて鳴いていたのはお前も同じだったろうと彼は少女に言った。
大切なひと。だれのことなの。
紫苑がそれを聞けなかったのはその瞬間の高杉の穏やかな表情を崩したくなんてなかったから。ただそれだけの理由。
大きく息を吸い込んで、勢いよく振り向いた先には高杉の姿。その向こうにはきっと仲間たちが彼女らを待っているんだろう。
疑問もわだかまりも今は置いてゆこうか。いまではないいつか、きっとその答えは還ってくるだろうとそう思うから。
「じゃあ心置きなく、最後の悪あがきをさせて頂きましょうか」
にいと口角を上げた紫苑の顔に迷いはなかった。
遠のくの日
あの日あの時、彼のぬくもりに泣いた少女はまだ帰ってはこない。