ある男の旅立ちの朝をひどく美しい青空が見下ろしていた。
そして今、その青空をそのまま零したような彼の瞳が映しているのは、ここには居るはずのない人物。
彼のただひとつの心残り。


「な、に、勝手に、出発しよーとしてるのよ、この馬鹿っ!」

「え…、は?紫苑…?」

「ぜえ…っげほ、そーだよ!」

「な、なんでおまんがこがあ所に…」

「………なんで…だァ?」


次の瞬間、ゆらりと揺れた紫苑は瞬く間に辰馬の脳天に向けて手刀を繰り出した。有り得ない速さで叩き落とされたそれを突然のことにかわすこともできなかった辰馬はあまりの衝撃にしゃがみこみ、暫し悶絶する。


「……!っ〜…!」

「……」


表情を見ずとも空気で分かる。否、空気よりも彼の頭の痛みがはっきりと伝えていた。
…きっと紫苑は今、彼が今までに見たこともないほど怒っている。

そうしてようやっと痛みが治まってきた頃、恐る恐る辰馬が顔を上げてみると、未だ鬼のような形相をした紫苑が彼を見下ろしていた。
その上彼女が再び手を振り上げたものだから、辰馬は紫苑がここに居ることに驚くのも忘れて叫んだ。


「ちちちちくと待つぜお!」

「黙れよ毛玉」

「いやいやキャラ変わっちゅうきに!とりあえず落ち着いとうせ!」

「無理、ムカつく」

「なんで?!」

「っばか辰馬!なんで私には何も言ってくれなかったの!」


その言葉に辰馬ははたと動きを止める。そのあとすぐに辰馬の目の前で顔を伏せ、唇をぎうと結んで立ち尽くしている紫苑を見て、彼は胸の奥がじくりと痛むのを感じた。


「何か変な感じして朝起きてみたら辰っちゃん居ないし、銀ちゃんも居ないし、小太郎も晋助も居なかった!私がどれだけびっくりしたか分かる?」

「……す、すまん」

「慌てて外に出てみたら銀ちゃんが居て、離れた所に小太郎たちも居たけど辰っちゃんだけ居なくて、…みんな分かったような顔して遠くの方見てて…、」

「……」

「…ねえ、なんで私には話してくれなかったの?」

「……すまん、」

「私が泣いて迷惑かけると思った…?」

「……」

「……ほんと、馬鹿だよね」

「…!紫苑?」

「大切な仲間の門出にそんな送り出し方するわけないでしょ?」


そう言った紫苑は怒っているでも泣いているでもなく、ただただ困ったようににっこりと笑っていた。


「私だってみんなと一緒に、ちゃんと笑って見送れるもん!」

「…!」

「……あのね辰っちゃん。辰っちゃんなら大丈夫だよ」

「紫苑…、」

「辰っちゃんだからできる、辰っちゃんにしかできないこと。きっと貴方ならやり遂げられるよ、…私が断言する!」

「……紫苑がそう言うたら、まっこと大丈夫ち思えてくるぜお」


感謝の言葉のかわりに辰馬はいつもの笑みを見せた。それを見た紫苑も、もう一度彼に微笑み返す。
そうして辰馬は自分の両手で彼女のそれをふわりと包み込むと、明るい声で彼女に言った。


「わしゃあそがあな風に笑いゆうおんしの笑顔が一番好きじゃ!」

「っ…、うん…、」

「約束ぜお、わしはわしのやり方でこの国を救ってみせるき。おまんがこんな戦いで苦しまんですむような、いつもそがあな顔で笑ってられるような国に、必ず」

「……ありがとう、」

「じゃ、ちくと行ってくるぜお!」

「……うん…っ、…行ってらっしゃい!辰っちゃん!」


するりとほどけた手と手は僅かな温もりを残したまま、これからそれぞれを行くべき道へと進んでゆくのだろう。

最後に今日一番の笑顔を見せた辰馬はそれきり振り向くことなく歩いてゆく。紫苑もまたその背中に声をかけることはなく、ただそれをじっと見つめるばかり。

しばらくして彼の背中が見えなくなっても、その場に立ち尽くしていた彼女の背後に、後ろ頭をかきながら近づく少年の姿が見えた。


「いつまで見送ってんの?」

「………」

「…紫苑さーん、聞こえてますかァ」

「……聞こえて、る」

「ん…?もしかして泣い「泣いてない」

「…………」

「…泣かないもん」

「ほっぺたびしょびしょじゃん」

「……〜っ、泣かないの!」

「……」

「辰っちゃんが心配、するから、っ!絶対に泣かない!」

「…そーですか」


そう言った紫苑の足元だけに降る雨は静かに優しく地面を叩いてゆく。
彼女の頭をあやすように撫でる手つきはぶっきらぼうな彼の声とは裏腹に至極柔らかなもので、…そのせいか、雨は未だ止む様子はない。

それでも、未だ目蓋を濡らしながら次に紫苑が浮かべた表情は先ほど辰馬が好きだと述べたばかりの、あの表情だった。


「…泣くか笑うかどっちかにしろよ」

「泣いてない。…これ、汗だから」

「……あっそ」

「…ねえ銀ちゃん、約束覚えてる?」

「…いつかまた五人で、ってやつだろ?覚えてるよ。つーかあいつら誰も忘れてねえだろ」

「……そうだね、」

「だから笑うなら…えーと、その目から垂れ流してる汗拭いてからにしろって」

「ん、」


自分の服の袖で紫苑の顔をごしごしと擦る銀時に見えないよう、彼女は密かに頬を染めてはにかんだ。
彼の不器用な優しさが嬉しくて、そして温かかった。

しばらくして銀時が手を離してから見えたのは今度こそ正真正銘の紫苑の笑顔。
そんな彼女は銀時を見上げたまま言う。


「とにかくさ、辰っちゃんが帰ってくるまで私たちみんな一緒に居なくちゃ駄目だよね」

「……めんどくせー」

「今なんか言った?」

「いいえ何にも」


目尻の端に僅かに残っていた雫もいつの間にか消え失せ、彼女の口元には強気な微笑。今はただまっすぐに前だけを見つめている紫苑はぽつりと呟いた。


「……辰っちゃんが帰る場所、私たちが何が何でも護ってみせるよ」


片隅、見上げた


送り出す者、送られる者。大きな覚悟と強い信念はどちらの胸にも同等に在るもので、彼らはそれを糧にまた歩き出す。



 
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