呼吸が加速してゆく。
足は最早もがくように、がむしゃらにただ前だけを目指していた。

決して良い状態といえない足場であるにも関わらず、彼女は一瞬たりとてペースを崩すことなく山を駆け下りてゆく。

その瞳には目には見えないひとつの背中が映っていた。

走る彼女が向かう先、は──


「銀ちゃん…!」


どうか無事でいてほしいと願う、どうか姿を見せてほしいと想う。

思い出すのは焼け落ちてゆく寺。

いつかの哀しみを再現するようなその情景にぎりりと奥歯を噛み締めて、彼女はまたひとつスピードを上げた。





そうしてたどり着いたのは轟々と音を立てて燃え続ける寺を目前とした森の出口だった。

浅い呼吸を繰り返し、肌を伝う汗を拭う間も惜しんで紫苑はあたりを見回した。

しかしそこに生き物の気配はなく、聞こえるのは木材が燃え落ちてゆく音だけ。

すぐに場所を移したのだと判断した彼女は再び足に力を込める、が、その足が前に踏み出されることはなかった。


「………」


彼女が目を細めてちらりと視線を移すと、ゆらゆらと揺れる大きな影がこちらに向かって歩いて来ているのが視認できた。

紫苑は腰にある刀にそっと触れて、そこにそれがあることを確認すると、鋭い殺気をそちらに向けて放つ。

ぎらついた眼光が近づいてきた彼らを射抜いた。


「!……女、女がいるぞ」

「あれは、…紅蝶々…!」

「待て、おまえら」


ざわついていた声がその男の一言を最後にぴたりと止んだ。

そしてその声の主は天人の群の奥からゆっくりと前へ進み出る。

一方で彼らの言葉を一切黙殺していた紫苑はその男の姿を目で捉えた瞬間に目を見開き、息をのんだ。


「っ、お…まえは……」

「何を驚いている?」

「天導衆…っ、」

「ほう、良く知っているな娘」

「…なんであんたが此処に?」

「なんで…?クク、そうだな。
言うなれば暇つぶしと言ったところか」

「暇、つぶし…?」

「ああ、」

「…ふっ、ざけんな!!」


その言葉と同時に繰り出した一太刀はしかしひらりとかわされる。
これまで神速と謳われてきた紫苑のそれをかわされたのは初めてで、彼女は目を見張った。


「ふん、紅蝶々とは大した渾名よ。実力が名前負けしておるぞ」

「知らないわよ、あんた達が勝手に言い出した渾名でしょう。私にはちゃんと紫苑っていう名前があるんだから」


強気にそう言い放った紫苑は目の前の男に鋭い眼光を飛ばした。
しかし返ってきたのは突然の嘲笑。
彼女は思わず訝しげに男を見る。


「紫苑、か。クク…、随分と自信満々に言うんだな」

「なによ…何か文句でもある?」

「いや、文句などはない、…ただ」

「……?」

「それすらも本名ではないくせに、そっちのあだ名は気に入っているのか?」


燃え盛る寺による熱気の渦中にいるのにも関わらず、紫苑は全身が身震いするのを感じた。

ざわざわと湧き上がる嫌悪と憎悪に、彼女は震える声で尋ねる。


「なに、を、言って…」

「お前ら攘夷志士の調べはついている。お前は幼少時にある男に拾われたのだろう、たしか名は吉田松よ…」

「あんたたちみたいな奴らが気安くあの人の名前を呼ぶな!」


瞳孔が開ききった目でそう叫んだ彼女に天導衆と呼ばれた男以外の者達はひるんだのか、半歩後ずさりする。

彼女は叫ぶのを止めない。


「それに私の名前は紫苑だ!それが私の名だ!あだ名なんかじゃない!」

「笑わせるな。見ず知らずの男から付けられた名だろう」

「うるさい、うるさい!」

「幕府に楯突いた愚か者だ」

「黙れ!何も知らないくせに!」


紫苑は両手で耳を塞いで音を遮断しようとする。いつの間にか溢れていた涙は彼女の視界を奪い、さらに彼女を混乱に導いた。

しかし追い討ちをかけるように、男の言葉はつづく。


「愚かな男よ、だからお前らのような弱みを握られ、命を落としたのだ」


放心、というのはまさに今の彼女の様子を言うのだろう。さっきまで取り乱していたのが嘘のように、今度は体の動きがぴたりと止まったのだ。
そして目を見開いたままの彼女はゆっくりと顔を上げ、声を絞り出して呟いた。


「私たちのような…よ、わみ…」

「知らぬわけではあるまい」


これ以上は聞くなと、体が警告音を出しているのには気づいていた。
それでも耳は音を拾い、脳へとそれを伝えてゆく。


「あの男はお前らのせいで命を落としたのだ。分かるか?」


分からない、分かりたくなどない。こいつは何を言っている?私たちは、私は、嫌だ、やめて、それ以上言わないで、嫌だ、嫌だ嫌だ。


「…つまり吉田松陽を殺したのはお前だよ、紫苑」


どうか呼吸がまる前に


ぶつり。
弾け飛んだそれは、



 
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