あたり一面の草原に真っ青な空、あの人が愛した空。あの人が愛した世界。遠くの方に雲が浮かんでいて、それはそれは穏やかに靡いている。


「とおい、なあ、」


地面に座ったままうんと手を伸ばしてみる。届かないのは分かっていたのだけれど、どうしようもなくそこに触れてみたくなった。
届けば何か変わるのかな、この深い青に沈むことができたなら、もう血の赤に染まる必要もなくなるのかな。


「…伊織、」


独りきりだったはずの私が思わず目を見開いた先にはもちろん何もないのだけれど。すぐそばで聞こえたその声はとてもきれいな、とても懐かしいものだった。


「お久しぶりです」
「…あ、…」
「随分と、大きくなりましたね」
「先生…」


聞き間違えるわけがない、たとえ何年も前の記憶であろうとも一瞬たりとして忘れることは無かった。私の生きる道標となってくれた人、たったひとりの恩師の声だ。

辺りを見回しても姿は見えないのに、何故か先生が微笑んでいるのが脳裏に浮かんだ。
それにどうしてだろう、先生の声を聞くのは本当に久しぶりだというのに、私は今ひどく落ち着いてるみたいだ。
たぶん先生の声があまりにも昔と何も変わらないままだったからだと思う。
今はどこまでも続く空の綺麗な青だけが私を優しく見下ろしていて、不覚にも私は声をもらした。


「先生、私の声聞こえてますか…?」
「…はい、ちゃんと聞こえていますよ」
「っ、先生、先生…」
「はい」
「私、わたしはっ…、一体いま、何をしてるんでしょうか…?」
「……」


膝を抱え込んで目線を上に向けてみる。そこにあるのはやっぱり眩しいばかりの青空で、こんなにきれいな空の下なら誰だってこう思ってしまうだろう。
私たちはいま何がしたくて、何のために、血反吐を吐いてまで戦い続けるのか。


「空は昔と何にも変わらない、こんなにも綺麗なのに。私はどんどん汚れてく」
「……伊織」
「綺麗でありたいとか、そんなふうには思いません。だけどたまに、この世界を酷く息苦しく感じることがあるのです」


先生の声が聞こえて対話している気分にでもなっているのか、私の唇からは普段は決して口にしない弱音がいとも簡単にこぼれ落ちていく。

先生、先生。
私には世界を憎む勇気が無いのです。
世界を愛でる強さも無いのです。

私はどうしたらいいのでしょうか。
ただ時の流砂に流され、埋もれ、汚れていくしかない自分自身が心底歯痒い。


「私、…もう、疲れました」
「……辛いのですか?」
「つ、辛い…です」
「…苦しいのですか?」
「苦しい、です」
「……伊織」
「は、い」

「ごめんね」


その言葉と一緒に世界は暗転した。夜の海に落とされたみたいに辺りは真っ暗。
揺れる意識の中で先生の声だけがはっきりと聞こえる。静まり返った、或いは雑音だらけのこの世界で、彼の声はまるでそこだけ切り取ったみたいに別物で。
刹那、泣き出しそうな私の頭をだれかが撫でてくれたような気がした。


「…ごめんね、伊織。銀時、晋助、小太郎。…もっと傍にいてあげたかった」


嗚呼、違うのに。こんなふうに先生を心配させたかったわけではないのに。
いつか逢えたその時は、私たちなら大丈夫だと胸を張って伝えようと思っていたのに。

まったくどうして、人は弱い。


「私はもう、あなたたちのそばに居てあげることはできません。話を聞くことも抱きしめることもできない、…けれどね伊織、これだけは忘れないで。君たちが君たちである限り、私はいつ、どんな時だって、君たちを愛しているよ」


嗚呼でも、でも。
姿形が見えなくとも、もう声を聞くことは叶わないとしても、たとえ空に手が届くことがなくても、貴方がどこかでそう思ってくれているという、それだけでもうきっと寂しくないね。

そうして気づいた。なんだ、私はただ寂しかっただけじゃないか。


「伊織、」







「、伊織!」
「────…、…」
「おい伊織!」
「…あれ?…銀時、ヅラも…晋助も辰馬も、どうして…」
「どうしてじゃねえよ馬鹿野郎。こんな所で何してやがる」


むくりと起き上がってみるとそこはやっぱり草原で、ただひとつだけさっきと違っていたことは今は青空ではなく、辺りは闇に包まれているということ。目の前の四人が怒った顔をしてこっちを見ているということ。


「私、寝ちゃってたの…?」
「…ったく、こんなこったろーと思ったぜ。なかなか帰ってこねーから…」
「心配した。…って、高杉が」
「なっ、銀時!てめぇがこの中で一番大慌てで探し回ってただろーが!」
「ああ?血相変えて伊織が帰って来ねぇって騒ぎ立ててたのはどこどいつだコノヤロー」


今にも殴りかからんばかりの殺気をぶつけ合う二人をぼんやりと見ていると、その二人を押しのけて、近くにやってきたのは辰馬と小太郎だった。


「何も無かったがか?」
「……」
「伊織?」
「………あ、ううん。あったよ」
「何?!本当か?」
「うん、…懐かしくて。すごく、幸せな夢を見た」


本当のことを言ってしまうと、今となってはどこからが夢で、どこからが現実だったのかなんて分からない。
そしてそれは今見ているこの光景も…、私たちが今身を置いている現実とは程遠い、まるで戦なんて知りもしないような彼らとのこんな時間もまた然りだ。

どうあがいても私たちの中の誰もがやっぱり人間だから、時には苦しくもなる。辛くもなるし、立ち止まる時だってある。それでもこうして立ち上がり、この世界で生きようと足掻くことができるのは、いつだってみんながこうして私のそばにいてくれるからなんだよ。

こんな世界を愛するのか、憎むのか、はたまた捨ててしまうのか。
私にはまだ何も分からないのだけれど、その答えは今を生きてみてから出しても遅くはないんじゃないかって、そう思えたんだ。

愛しのセピア



back

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -