じわり、世界がにじんだ。
目の前の景色がゆらゆら揺れる。
また、だ。
夜目が覚めるとたまに起こる、この現象。決まって昔の夢を見るとこうなってしまう。そこに居るのは幼き日の自分、大きな背中、銀髪と子と長髪の子供。
隣で寝ている伊織を起こさないようにゆっくりと布団から起き上がると、はっきり思い出してくる今見たばかりの夢。
きっと俺が今まで生きてきた中で一番幸せだった頃の、こと。
昔あたりまえのようにいつでも目の前で微笑んでいたその人も、その人と彼らと共にすごした世界も、忽然と姿を消した。いや、消されたといったほうが正しいのだろう。それからというもの世界は色を無くし、俺にとっての生きる意義さえも消え去りかけた。
「────、」
何も聞こえない、何も見えない、何もできない。
いや違う。
何も聞きたくない、何も見たくない、何もしたくない。
この幸せな夢は今の俺にとっては毒のようなものだ。じわじわと俺の中の獣を蝕む。この世界を壊さんとする俺の気持ちを揺るがす。
苦しい、何もできない、はずなのに。
『しんすけ?』
昔も今も、俺の鼓膜はおまえの声だけはするりと受け入れるらしい。
「っ、は…っハァ、」
『え、ちょ、晋助?!落ち着いてゆっくり息して!』
「ハァ、ハァ…」
ついさっきまで酸素を取り入れすぎて悲鳴を上げていた肺は伊織の言葉を聞いたとたんに落ち着きを取り戻し、息苦しさもしだいに無くなってゆく。
わずかに視線を上にやれば、俺の背中をゆっくりとさする伊織のの姿が目にはいる。その瞳はあいつらしくもなく不安げに揺れていた。
「もう、大丈夫、だ」
『で、でもまだ苦しそう…』
「なら、もう少し」
もう少しだけこうしていてくれ、と声に出しては言えなかったが、伊織はそれが分かっていたかように小さくこくりと頷くと、俺の背中を優しくさすり続ける。
『また…昔の夢でも見たの?』
聞こえた声に振り向けば、やはり伊織の不安げな瞳が俺に向けられている。薄く涙の膜を張ったそれを俺が見つめ返すとふいに彼女は目を伏せた。
いつも強気な伊織がそんなふうにするのはめずらしい。
「なんでだ」
『晋助が過呼吸になるくらい不安定になるなんてそれ意外考えられないから』
「……」
『ばか、そんくらい分かるよ。あたしとあんたどれくらいの付き合いだと思ってるの?』
やっと普段のように生意気な口を聞くようになったと思い伊織の方を見るが、まだ不安そうな瞳はそのままだった。それを見れば無理に元気な声を出そうとしているのがすぐに分かる。
本人はきっと無自覚だろうから、あえてそれを指摘したりはしないけれど。
だから変わりに盛大なため息を吐いてやった。
『ななな何でため息?!』
「……可愛げのねえ女」
『なっ?!…ならそんな女を彼女にしてるあんたは何なんだコノヤロー!』
「クク、とんだ馬鹿だなァ…」
『…え、晋助?あんたどーしたの、やっぱなんか変だよ。いつもならうるせぇとか言ってぶったたいてくるくせに』
「ぶったたいて欲しいのか?」
『そーゆうわけじゃない、けど』
そう言うやいなや突然背を向ける伊織。
……何なんだこいつは。コロコロと態度変えやがって。
「ったく、次は何だ」
『何でもない』
「嘘付け、ならなんで目ぇ合わせねえんだよ」
『何でもないもん』
そう言いやがるくせにやっぱりこっちを見ようとはしないこいつ、意味がわからねぇ。
肩に手をかけむりやり振り向かせれば、眉間にしわを寄せて涙を目にうかべる伊織。
これにはさすがに驚いて思わずと手を離せば、伊織は涙声で話しだす。
『だって晋助が、ずっと寂しそうな顔、してるから!ずびっ…、晋助は今、ひとりなんかじゃないのに、独りぼっちみたいな顔、するから!』
なんか私まで寂しくなっちゃったじゃん馬鹿、と悔しそうに悲しそうに涙する伊織を見て、俺の中の何かがなくのをやめた。
そうか、俺は過去が眩しすぎてないていたんじゃねぇ。あの人が居ないのが悲しくてないていたんじゃねぇんだ。俺は、俺は、
『ねえ、晋助は独りぼっちなんかじゃないんだよ。』
ただ寂しかっただけ────。
そう理解したが最後、抱きしめたい衝動を止めることなど俺にはできなくて、すがりつくようして伊織を抱きしめた。
腕の中できょとんとしていた伊織もすぐに抱きしめ返してきて、しばらくじっとしていると、突然くすくす聞こえ出す笑い声。
体を少し離すと、濡れた瞳が俺を見上げ、今度はにっこり笑って言う。
『やっぱり晋助はいつもみたいにムカつく笑顔で理不尽なこと言ってるのが一番似合ってるや。』
(愛を囁いて)
そんな伊織にでこぴんをくらわせ、うるせぇ寝るぞと声をかければ帰ってきたのはいつもの文句ではなく嬉しそうな彼女の笑い声。
たとえまた今日のような夢を見ても、てめぇが隣に居てくれることを想えばもう大丈夫だろう。
(なく、泣く、鳴く)
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