03.コンパス・レディ
青い空の下、美しい町並みに、それに似合う美男美女が歩く。
「すごい、外国だ」
感嘆の声を漏らした祥子のジャージ姿を、街行く人々は不思議そうに眺めていった。
此処はイタリア。ギャングの抗争が激化する只中に祥子は立っていた。
イタリアはネアポリスで勢力をもつギャング組織、パッショーネ。その頂点を目指す少年、ジョルノ・ジョバーナは今、その夢の実現より困難に思える一つの壁、否、扉を前に立ち竦んでいた。
「この程度、越えられなくてどうするんです。僕は、ギャングのボスになるんだ」
懸命に自分に言い聞かせるものの、その足が前に進む事を拒否していた。
そんな彼の横を、その扉から出てきた女性が軽やかに通り抜けていく。すれ違いざま、立ち竦む彼を微笑ましいとでも言うようにくすくすと笑って。その甘く柔らかい笑いすら彼の足を鉛よりも重たくしていた。
ジョルノ・ジョバーナ、未来のギャングスターの前に立ち塞がるもの。それは可愛らしくも淫靡な思いを抱かせるランジェリーショップだった。
その日のジョルノは運が悪かった。確かに色々と足りないものが出てきたし、買出しを任されたのは彼としても別に構わないはずだった。
ただ問題は、細々としたお使いを引き受けた後に押し付けられた、トリッシュの買い物リストだ。
「もう何もかも足りないけど、最低限これくらいは用意してよね!」
そう言って渡されたメモを手に、素直に頷いてしまったジョルノ。女性であるトリッシュに色々と我慢をさせているのは護衛チーム全員がわかっていた。此処で面倒だからと拒否をして、後々騒がれるのも今の状況からしては問題がありすぎる。だからこそ、彼らのリーダーであるブチャラティはその我侭に付き合おうと判断をくだした。しかし出発してのち、手元のリストを確認してジョルノは頭を抱えた。
「化粧品だけならまだしも、何故、下着まで……」
命の危険にも怯まない、何事にもクールに対応してみせる未来のギャングスターも、そうは言ってもまだティーンの少年。未開の女の園の壁は、彼をもってしても高かった。ある意味、そのストイックさがこの場合は仇ともいえるのだが。
(ミスタあたりは喜んで入っていきそうですけど)
仲間に対する評価は八つ当たりを含んで刺々しい。
しかしいくら悪態を吐こうとも、実行に移さなければ現実は何も変わらない。そう自分に言い聞かせていた時だった。
「君、ここ入るの?」
後ろから掛けられた声に、ジョルノはギクリと肩が揺らす。女性下着店の前で立ち尽くす男など、不審者以外の何者でもないと言う自覚があるからだ。
「一応、入るつもりではあるんですが……」
ジョルノは現在の護衛任務の緊張感から程遠い現状に痛む頭を抑えつつ、声をかけて来た人物を振り返る。其処に居たのは一人の日本人女性、今日も夢を楽しんでいる祥子だった。
暢気な祥子と対照的に、ジョルノは表情を硬くする。こんな日本人のジャージ女をジョルノが知っているはずもない。彼の目には、表にこそ出さないものの警戒が多分に込められていた。
「あぁ〜、男の子には入り辛いよね。お姉ちゃんのお使いでも頼まれちゃった?」
そんなジョルノの心中など気付くわけも無い祥子は、へらへらとした笑みと共にジョルノへと問いかける。
「まぁ、そんなところです。ところで貴女は? ずいぶんイタリア語がお上手ですけど、観光客じゃないですよね」
ジョルノは怪しい日本人に警戒しながら、先日も日本人でありスタンド使いでもあった広瀬康一を引っ掛けた事を思い出していた。あの経験から、何となく日本人には注意深くなってしまう。それでなくとも彼女は明らかに外国人の癖に流暢なイタリア語。外に出る格好ではないと言いたいヨレヨレのジャージ姿。足元はまるでスリッパのような、しかしそれにしては丈夫そうな穴だらけの変わった靴。イタリアの街から浮いている割にはリラックスした出で立ちなのだ。そのチグハグ具合は、ジョルノの警戒心を刺激して余りある。
「えーと、ちょっとね。散歩っていうのかな」
曖昧な返答は、しかし何かを隠したり嘘を吐いているというよりは、本当になんと説明したら良いのかわからないように見えた。実際、祥子はどう説明したものかと、困っていたのだが。
(まぁ、隠し事ができるタイプでもなさそうだし、スタンド使いでもなさそうだ)
祥子が声をかけてから、ゴールド・エクスペリエンスを発現させていたジョルノに対して特に反応も無かった。今も目の前にゴールド・エクスペリエンスが拳を突きつけた事へ何の反応も無い。
余談だが、ジョルノは知る由もないが、彼の父が全く同じ行動で確認を行っている。
「入り辛いなら、一緒に入らない? 私も中を見てみたくてさ」
そう祥子が切り出して、ジョルノは少し考えてうなずく。
「僕は、ジョルノ。貴女がそうしてくれると言うなら、助かります。流石に一人では入り辛くて困ってましたから」
「そう! 私は祥子。よろしくね、ジョルノくん」
色々と思うところはあるものの、今はこの辛い任務をさっさと終わらせたかった。
ジョルノが頭を悩ませていたことなど知らず、祥子は彼の承諾に嬉しそうに笑って頷くだけだった。
「いらっしゃいませ〜」
祥子の後に続いてジョルノも店内に足を踏み入れた。店内は何かフレグランスを炊いているのか、甘い香りがジョルノの鼻をくすぐる。
ぐるりと店内を見回しても、男客はジョルノ一人。とんでもない居た堪れなさに、慣れた足取りで進んでいく祥子に置いて行かれまいと後を追いかけた。
「それで、どんなのを頼まれたの?」
振り返り訊ねる祥子に、ジョルノは手にしたメモを覗き込む。
「えぇと、ブランドの指定もされてますから……。あぁ、コレのサイズはコレ、ですね」
商品タグを確認しながら、ジョルノがひとつ上下セットの下着を手に取る。デザインの指定は色くらいだから、これで良いだろうとさっさとレジに向かおうとした。しかし、その行く手を阻まれた。
「なんですか? 僕は無駄な事が嫌いなんです。さっさとこの店から出たいんだ」
「ちょっと待って、本当にそれで良いの?」
「メモにはそう書かれてますから」
ほらとジョルノがメモを見せると、祥子はそのメモと一緒に折角見つけた下着まで取り上げてしまう。
「ちょっと! 何をするんです」
「コレじゃ、駄目だね」
「なんですって?」
やれやれと言うように首を横に振ると、祥子はジョルノが選んだ下着を戻してしまう。そしてジョルノが止める間もなく、さっさと店員の下へと向かってしまった。
「何する気なんですか」
「まぁ、待ってなさいって。すみませーん」
「はい、承ります」
ジョルノが口を挟む隙も無く、声をかけられた店員は飛び切りの笑顔でもって祥子へと向き直った。彼女のジャージ姿に一瞬も揺らがない辺り、なかなかのプロ根性だと、ジョルノは変なところで感心していた。
「これ、友達の頼みで買いに来たんですけど、彼女常連っぽいから多分登録してあると思うんです」
「かしこまりました。では、お客様のお名前と、ナンバーかお電話番号をお願いいたします」
「えぇと、名前はトリッシュ・ウナで、ナンバーは……」
メモを片手に店員と話し込む後姿を眺めるしかできず、手持ち無沙汰に手にしたその他の荷物を確認してみる。袋を覗いたところで買い忘れがあるわけも無いのだけれど。
そうこうしているうちに、店員に案内された祥子が商品を片手に戻ってきた。その手にある商品を目にして、ジョルノは目を瞬かせる。
「僕が選んだものと、だいぶ違いますけど」
「でしょ? 多分、このトリッシュちゃんが欲しいのはコレだと思うよ」
「何故わかるんです?」
本当に不思議というより、怪しむように眉間にしわを寄せるジョルノに、祥子は肩を竦めて笑って言う。
「だって、まず女の子は見栄を張りたいもんだし。メモのサイズが本当か怪しいじゃない。それに、こういうものを買う時は常連の店が多いし、だったらサイズとかは全部お店で測ってもらって会員登録とかしてるものよ。メモに、わざわざ登録ナンバー書いてくれてるでしょ? 確認しろって事だと思うわ」
「……彼女、そんなことは一言も言いませんでした」
「あーー……。その辺は、察しろって事かな? 頑張れイタリア男くん」
祥子の励ましに、ジョルノは痛む頭を押さえながら頷くしかなかった。
「ありがとうございました。こう言ってはなんですが、今でも貴女の事は疑っています。でも助かりましたので」
「あはは、結構正直だね。まぁ、怪しい自覚はあるから気にしないで。助けになったなら良かった」
店から出て歩きながら、ジョルノからの感謝の言葉を受けて祥子は苦笑いで気にするなと首を振る。そんな彼女こそ素直だと思いながら、ジョルノは隣でのんびりと欠伸を零すのを見て、そうだと小さくつぶやいた。
「良ければ、休憩しませんか? お礼にエスプレッソくらいは奢りますよ」
「え! 良いの? あ〜、でも悪いし、私、そろそろ時間だから」
「何か約束でも?」
「そんなところ」
祥子は随分と眠たそうに欠伸をして笑う。曖昧ながらも、別にやましい所がある風でもなく、ジョルノの目から見ても、何かを隠しているわけでもなさそうだった。
「それは、残念です。もしまだイタリアに滞在しているんでしたら、その間に会えれば、その時にでも」
「ふふ、ありがとう!」
「いいえ、イタリア男、ですから。では、Arrivederci(さようなら)」
「さよなら、ジョルノくん! 気を付けてね」
手を振りあい、二人は別れる。
一人になり、何の確証もない約束をした自分に気が付き、ジョルノは小さくため息をついた。
(こんな無駄な事をして、僕らしくもない。今の危険に塗れた世界から、穏やかな日常を繋ぎとめたかったのか? 平和の塊みたいに、呑気な彼女に約束をもちかけて)
そんな事を考えながら、ちらりと後ろを振り返る。しかしすでに雑踏に紛れてしまったのだろう。そこには祥子の姿はなかった。
一つ小さく笑うと、ジョルノは潜伏先へと歩き出す。もう後ろを振り返る事はなかった。
「う……、お洒落な夢の後だと、この現実が更に辛いわ……」
何時ものベッドの上とは違い、机から身を起こした祥子は低く呻く。目の前には、未だ終らない課題が拡げられていた。締切も間近のそれをやっつけようと、徹夜覚悟で机に向かった筈だった。
結果は言わずもがな。傍に置いておいた濃いコーヒーの所為だろうか、随分と洒落た夢を見る始末。もちろん、課題は終わっていない。
「しょうがない、ご飯食べてもう一回頑張ろう」
祥子は伸びを一つすると、ペタペタとスリッパ代わりのクロックスもどき(ドラッグストアでサンキュッパ)を鳴らしてキッチンへ向かった。
「あら! 本当にちゃんと買ってきてるじゃない」
「それ、どういう意味ですか?」
まだ夕日が差すには早い時間。ブチャラティチームが潜伏する部屋で、意外そうなトリッシュの声が上がる。それに訝しげにするジョルノに、トリッシュは渡された可愛らしい袋を掲げてみせる。
「コレ、絶対間違えると思ったのよ」
「……嫌がらせだったんですか?」
「まさか! でも、見直したわ、ジョルノ」
女心が解るのは大事よ、とにっこり笑うトリッシュに、ジョルノは肩を竦めて返す。
(彼女の、おかげですね)
今しばらくは遠い平穏な日々を思いながら、チームのメンバーが集まる部屋へと歩き出した。彼が望む未来を掴むために。
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