さよなら恋心
最初に彼女を見つけたのは、コンビニ脇の小さな小道のその入り口。賢そうな犬と一緒に、壁に寄りかかって通りを眺めている姿に、正直言って一目惚れした。
それから、学校へ通う道すがら、彼女の事を見るだけの日が暫らく。ぶどうが丘高校に進学を決めた自分を誉めたいと思った。隣町の高校だったら、俺は彼女に出会えなかったんだから。
声をかけようと決心したのは、制服が入学当初の学ランからワイシャツに変わった夏の最初。
「お、おはよう!」
そうは言っても、俺が彼女にかけられた言葉はこれだけ。急にあいさつをされて、彼女は大きな目をさらに大きくしてびっくりしていた。その顔も凄く可愛かった。
俺は返事も聞かずに、学校へ向けて駆け出していた。走る前からうるさかった心臓が壊れそうだった。
「おかえり」
その日の学校帰り。部活を終えて薄暗くなった道を歩いていたらかけられた可愛い声に、俺は飛び上がった。驚きと、嬉しさで。
「こんちは!」
初めての彼女との「会話」は、浮かれすぎててあんまり覚えていない。ただ、その笑顔がメチャクチャ可愛かった事だけは覚えていた。
彼女が幽霊だと告白されたのは、俺の夏服が学ランに戻って、マフラーも巻いた頃。
その間、彼女、鈴美さんの服は全然変わらなかった。でも、俺はその不自然に気が付いていながら、自分からは何も言い出せなかった。言ってしまって、この幸せな時間が終わってしまうのが怖かったから。
そんな俺に、鈴美さんも気付いてたのかもしれない。何時ものように、部活帰りに寄った時に打ち明けられた。
「私ね、幽霊なの。この先の家で、殺されたのよ。アーノルドも一緒に」
「鈴美さん……」
「翔太くん、ごめんね」
何に対するごめんねなのかはわからなかった。ただ、彼女の笑顔が切なくて、俺は赤い箱菓子をその手に押し付けた。
「ナンも謝ることないっス。幽霊でも、俺のこと祟るわけじゃないんスよね?」
「そんなことしないわ!」
「じゃぁ、良いス。今は、これで良いんスよ。もう会わないとか、言わないでください」
「……うん」
ポッキーを抱きしめる鈴美さんが綺麗で、そのまま好きだとか、付き合って下さいなんて、勢いのままには言えなかった。
年が明けて、春に向かっても、俺たちの関係はあまり変わらなかった。仲良くはなったけれど、それだけ。
そのうち、春になって彼女の周りに変化があった。彼女に「会える」奴らが増えたのだ。
同じぶどうヶ丘高校の後輩、東方仗助に虹村億泰、広瀬康一あたりは一年の有名人だ。俺は学年が違うから、名前くらいしか知らないけど。他にも、あの有名漫画家の岸部露伴だとか、大人もたくさん居た。
そうして大人数に囲まれて、鈴美さんは俺の見た事がない顔をしていた。
「鈴美さん、やっぱ嬉しいっスか?」
「ふふ、そうね。ちょっとだけ。皆、協力してくれるって」
「そっスか……」
正直、面白くなくて。鈴美さんの目的が何かは知ってる。でも、俺は本当に何もできない、普通の高校生で。あいつらみたいに「スタンド」とかいう超能力はないから。だから、あいつらが居る時は、鈴美さんに会わずに素通りしている。
それは、自分の無力を突きつけられるとか、悔しいとかじゃなくって。ただ、俺以外を見てる彼女を見たくないっていう、バカみたいな嫉妬からだった。
それでも、彼女から離れられない俺は、本当に馬鹿だと思う。
「翔太くん、怒ってる?」
「何がっスか?」
「……ううん。何でもない。ポッキー食べる?」
「……あざっス」
鈴美さんは深く聞かない。だから、俺も聞かない。鈴美さんの目的には、触れないで欲しいって雰囲気くらい、俺だって察せる。だから、ただ差し出されたポッキーに齧り付いて、俺の腿に顎を乗せてるアーノルドの頭を撫でるのだ。
俺が知らない間、いや、知らないふりをしている間に、事は片が付いていたらしい。
その間も、俺は彼女に会いに行って、あいつらから逃げ回って。時々ポッキーを差し入れて、お喋りをして。そうして、今夜、その時が来た。
「鈴美さん、いっちゃうんスか?」
「うん……。やっとね」
お別れだって、わかった。初めて鈴美さんが俺の部屋に(壁をすり抜けてってのが甘くないけど)来たんだ。それはつまり「あの場所」に彼女を縛り付けていたものが無くなったって事で。
「嫌だ」
「翔太くん……」
「嫌っスよ、俺。このまんまじゃ、鈴美さんのこと、笑ってなんか送れないっス」
困った顔をして笑う鈴美さんに、俺は子供みたいな我儘を言う。でも、どうしようもない事だってのも、わかってはいるのだ。でも、だからこそ、俺のところへ来てくれた事に少しだけ期待してしまうし、大胆にもなれる。我慢もできなかった。
俺は、鈴美さんへ腕を伸ばして、そのまま抱きしめた。
「鈴美さん、俺、ずっと好きでした。オーソンのとこで初めて会った、一年の頃から。一目ぼれっした。言えなかったっスけど、本当に、好きで……」
「翔太くん、ありがとう。男の子でしょ? ほら、泣かないで」
初めて抱きしめた女の子は、鈴美さんは、俺より小さくて、柔らかくて。でも、想像していたよりひんやりとしているのは、彼女が幽霊だからだろうか。
その彼女の少し冷たい指が、情けなく涙を垂れ流す俺の目元を拭う。どうしようもなく切なくて、彼女の言う事はきけそうもなかった。
「鈴美さん、好きっス。好き。大好きっス。俺と付き合ってください。いかないでください。俺、毎日ポッキー持ってきますから。好きっていっぱい言わせてくださいっス」
どんだけ強く抱きしめても、鈴美さんは苦しいとは言わなかった。ただ、優しく笑ってくれる。
「ありがとう、ありがとう翔太くん。幽霊なのに、恋してくれて。私、若くして死んじゃったから、こんな風に言ってもらえると思ってなかったの。だから、嬉しいわ」
「鈴美さん、れ、鈴、美、さっ……好ぎっ、ス、からっ……!」
恥も外聞も無くってのは、こういう事かもしれない。確実に近づくさよならに、俺の頭の中は、もうどうしようもなくなってた。宥めるような鈴美さんの声が優しくて、愛しくて。
不意に、鈴美さんに胸を押されて、腕を解いた覚えもないのに体が離れていった。あぁ、いよいよなのか。
考えている事が、そのまま顔に出てるんだろう。鈴美さんの可愛い眉毛が困ったように下がりっぱなしだ。
「翔太くん、そろそろいかなきゃ。アーノルドも、待たせてるの」
「れ、いみ、さん……」
「翔太くん」
ふわりと、鈴美さんの体が浮いて、その腕が俺の首に回されて。
「私も、あなたのこと、大好き。好きよ。私、あなたに恋してるわ」
「れいみ、さん……」
「好き、翔太くん。先にいってるわね。私のこと、うんと、う〜んと待たせてね。それから、お願い。忘れないで。でも、きっと、あなたの子供とか、孫とか、素敵な奥さんのこと、聞かせてね。今だけは、その子に譲ってあげるから。次は、予約があるのって言ってね?」
「……はいっス……!」
「ありがとう」
鈴美さんの願いを、忘れないように涙でぼやけた頭で、嗚咽を必死で抑えて聴いて、頷いて。
「きっと、すげー待たせますから。鈴美さんこそ、俺のこと、忘れないでくださいっス」
「うん、忘れないわ」
ひきつる口を無理やりひん曲げて、精一杯笑って見せた。
「それじゃぁ……、さようなら。またね」
そんな俺に安心してくれたのかもしれない。彼女は笑顔を、涙を浮かべた、一番綺麗な笑顔を浮かべて。それから、そっとキスをくれた。最初で最後の、鈴美さんとのキスは、柔らかくて、冷たくて、しょっぱかった。唇を合わせたまま、彼女の体は透けていって。
「……さようなら、鈴美さん」
オーソンの横の小道は、もうなくなっていた。時々、あの岸部露伴とか、一年トリオとかが立ち止まっていたりするのを横目に、俺は今日も通り過ぎていく。
俺は、立ち止まってはいられないから。彼女に、胸を張って会えるように。今日も空に向かって笑みを見せるのだ。
「俺、格好良いっスか?」
頬を撫でる風が、笑っているような気がした。
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