名前の隣は、彼にとって何物にも代え難い安息の場所だった。
これまでに味わったことのないような安心感と共に深い眠りに着き、目覚めた時の幸福感だって今まで堪え忍んで生きてきた意味を感じさせる。

いつまでも微睡んでいたい気持ちで名前にキスをして体を起こす。
それが何より幸せな瞬間だった。


そんな幸福の中に身をゆだねながらも、仕事をしながら『やはり自分にはそんな幸福は相応しくないのだ』と感じる。
そういう事なのだ、ギャングという仕事はつまり、そういう事なのだ。


そんな彼の概念を、名前はことごとく打ち砕く。
恐れもせず、労り、慈しみ、とうとう愛を誓わせる程に彼を溺れさせさえした。
そんな名前が何か隠し事をしているという事が、リゾットには恐ろしかった。





(夢から覚めるんじゃないだろうか…)


リゾットはため息をついて、仕事帰りの重たい体をベッドに投げ出した。
クッションを抱え込めば、名前愛用のソープの香り。
隠し事の下手な名前は、何かを隠しているせいで近頃妙によそよそしい。


『信じてやれよ』


ギアッチョに言われた言葉だって、素直に受け取る事ができる。

リゾットが信じてないのは名前ではない。
自分自身だ。

自分に自信がないから、名前にいつ見放されてもおかしくないと思える。
暗殺を生業にして生きてきて、今さら他人を幸福にする術など自信があるはずもない。



(オレは、受け取ってばかりだ…)



ふとテーブルを見ると、ケータイがメールの着信があったことを告げて光っていた。
リゾットはそれを引き寄せ、開き、仕事の疲れなど感じさせぬ動きで家を飛び出した。
ギアッチョから送られてきた短いメールに、リゾットは心臓が凍りつく心地だった。


―アジトのどこにも名前が居ない。

ー最後に名前の姿が目撃された場所は…







(空港!?)






“何故?”

そんな疑問と同時に沸き上がるのは、不安。
とめどなく溢れる不安が、名前のふっくらと柔らかな唇が『さようなら』と動く事を想像させる。

人混みを掻き分け、名前の姿を探す。

少し伸びた髪。
腕の中に収まる小さな背中。
はっきりと思い出せる名前は、いつだって笑顔だ。


「名前!!」


思わず大きな声を出すと、せかせかと動いていた人波が何事かとリゾットを振り返る。


「あ」

そんな声が小さく聞こえ、振り向くと目を丸くして笑う名前が居た。


「リゾット!!」


空港に赴いたのは自らの意識であるはずなのに、名前は嬉しそうに笑ってリゾットに飛び付いた。


「何故空港に?」

「行きたい場所があって」

「今からか?」


何故何も相談しない?
そう言いかけて飲み込んだリゾットに、名前が言葉を続ける。


「ついて来てくれる?」

「…分かった」


名前の誘いをリゾットが断るはずなどない。
明日が休みだったのは幸いだった。
名前に手をひかれて歩きながら、リゾットはギアッチョに短いメールで名前の発見を報告した。


「これに乗って?」


明らかに個人のセスナ機を指差され、リゾットはただ瞠目した。
名前は何のために、いったいどこに行くつもりなのだろう。


何がなんだか分からぬまま、それでもどこか楽しげな名前の腰を引き寄せて座れば、名前はいつもと変わらぬ幸せそうな笑みを返した。
その事に安堵しつつ、名前の髪を撫で、不安を口にしない代わりにそっとキスを落とした。






ゆっくりと発進したセスナは、風に揺られる事もなく空へと舞い上がった。


「どこに行くんだ?」

リゾットは一度だけ聞いてみたが、名前は笑うだけで、運転手も何も答えなかった。

窓の外は真っ青な海と空。
ゆっくりと落ちる太陽がそれを赤く染める頃、名前とリゾットはセスナを降りる。



「……シチリア?」

「うん、リゾットの故郷だよ」



赤い夕日に染まる街を背景に、名前は幸せそうに微笑んだ。
前にも二人で来た事がある。

その時は、リゾットがシチリアに来る事を決めて、名前を連れて来た。



『結婚してくれ』

最愛の女である名前にそう申し込む為に訪れた故郷に、今度は名前に導かれて来た。


名前の意図が読めないまま、名前の柔らかな手にひかれて街を歩いた。


「リゾット、こっち」

名前は一度しか訪れた事のないはずの道を、迷う様子なく歩いていく。


プロポーズしたあの日とは、全く逆の立場に苦笑しながら薄暗くなってきた道を足早に歩く。


『リゾットと結婚する』

そう言って泣いた名前は今、リゾットの手をひいてせっせと足を動かす。




「ねぇリゾット?」

背を向けたまま、少しあがった息の名前に呼ばれて、リゾットは思い出に浸っていた意識を呼び戻した。


「リゾット、私に…その……ぷ、プロポーズしてくれた日の事、覚えてる?」


照れくさいのか、耳が赤い名前の手を強く握ってリゾットは頷いた。


「勿論だ。景色も、お前の声も…空気の匂いまで覚えている」


今でも、目を閉じれば瞼の裏に蘇らせることが出来る。
抱き締めた名前が少し震えていたことも、自分の緊張も……全てが繊細に思い出せる。



「今でも…まだ私の事…」


そう言って語尾を萎ませた名前は、不安げにリゾットを振り返った。


「変わらず名前を愛している」


ハッキリと言い切るリゾットに、名前といえば今度は頬を染めた。
正式に名前を妻として、はや半年が経とうかというにも関わらず、名前はすぐに不安な顔をする。


(あぁ……そうか…)



名前がようやく歩みを止めて振り返ったのは、今でもハッキリと思い出せる…リゾットが名前に愛を誓ったその場所だった。

あの時とは違い、すっかり暗くなったその場所で、名前はリゾットと繋いだ手を見つめてぽつりぽつりと口を開いた。


「リゾット、リゾットは私が光だって言ったよね」

「あぁ」


「私にとっては、リゾットが光だったよ」

リゾットの手を握る名前の手に、キュッと力が込められる。
繋がれた手は温かく、リゾットの不安を見透かしたように溶かしていく。


「リゾットが私に居場所をくれて、私に……家族と、愛をくれた」


反論しようとしたリゾットは、名前の目に浮かんだ涙を見て口をつぐんだ。
そして、ようやく気づいた。
長く…それは長くかかって、ようやく理解した。



「名前とオレは…どこか似ていたんだな」


生き方は違っていても、どちらも息を潜めて生きてきたのだ。
世の中の光や希望溢れる世界と離れた場所で育ち、僅かに与えられた生にしがみついていた。


「リゾット、私…リゾットが何かを恐がっているのが分かったの。私も恐かったから」

「名前…」


「だから、私も言うよ。リゾット、私と…私とずっと一緒に居て?
私……」

涙を浮かべた名前は、もう暗くなったにも関わらず、ハッキリと分かるほどに赤くなっていた。


「リゾットを、あ…愛してる…」

「名前…」


「好き」だとか「大好き」の言葉なら容易く告げられる名前が、それでもほとんど口にしない「愛してる」を、ベッド以外で聞くのは初めてだ。
ふるえる手が、名前の緊張をリゾットに伝える。
その細い指をしっかり絡めて、リゾットは力強く名前を抱き締めた。


「ありがとう、名前」


柔らかな唇をそっと指でなぞって、自分のそれを重ねた。
微かに零れる息は熱く、しかし頼りなく震えている。
何度も愛を囁きながら、同じ様に囁いて欲しいと願う自分が居ることに、リゾットは初めて気づいていた。
何度も愛を説いて、疑う余地もないほどに信じ込ませて欲しい。
自分の身分や職業などどうでもよくなるほどに、ただ愛に溺れさせて欲しい。
自分に見えていなかった自らの弱さは、愛を告げる度に名前の前には露わにされていたのだ。



守りたいと思った。

弱く、けれどそれを隠して戦いに身を投じる名前を。

どこから湧き出るのか不思議なほどの力で守ってくれるその強さを。
弱い自分を見て尚愛してると笑うキミを。「愛してる…これからもずっと」

息を吐くように、囁くようにそう告げると、名前は赤らんだ頬をさらに赤くして照れくさそうに笑った。


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