名前はその日、いつもより早く目が覚めた。


眠っているリゾットをもっと見ていたい気持ちに駆られながら、そっとベッドを抜け出した。
一階に降りた名前は、顔を洗って郵便受けから新聞を取ると朝食を作りながらコーヒーを淹れる。
ちなみに、リゾットを起こさないようにベッドを抜け出す技は、最近やっと習得した。
とは言っても、ただそろっと動くだけ。


「チャオ」

「チャオ、リゾット」

眠たげに顔を擦りながらキッチンに入ってきたリゾットにハグとキスをして、温めたキッシュとサラダをお皿に盛り付けていく。
夜の内に仕込んで、朝焼いたキッシュの良い匂いが家中に広がっていた。


「良い匂いだな」

「すぐ出来るよ」

名前が朝食を支度している間に、リゾットが棚からキャットフードを取り出して皿についでやる。
待っていましたと言わんばかりに、どこからともなく「ニャア」と甘えた声を出してホルマジオのネコが出てきてエサを頬張る。

いつもどこで寝ているのだろう。
ぼちぼち子どもも産まれそうで、少々動きにくそうだ。


「出来たよー」

名前に呼ばれて、リゾットはホカホカと湯気のたつ食卓についた。
温かいスープやキッシュが、肌寒い朝にはありがたい。


「そう言えば、名前が居なくなって、あっちは飯に苦労しているらしい」

「あっちって、皆?」

「ああ」

名前が居る間一切の家事をしていなかった彼らは、男の中では一番マトモな料理を作っていたリゾットすら居なくなっててんやわんやな状態らしい。
プロシュートが作れば、味はまぁまぁなのに野菜が男らしくぶつ切りで入っていたりする。
ギアッチョが作ると細切れから丸ごとまで、その日の気分が顕著。
今はペッシとジェラートが料理長だと、ホルマジオが笑っていた。
おそらく、ホルマジオもそこに加わるのだろう。


「今度作りに行ってあげようかな?」

「きっと泣いて喜ぶな」

笑いながら食事をして、皿を片付ける。二人だけの生活にも、少しだけ馴れてきた。
何とか合わせて休みを取って、家でのんびり過ごす。
それが最近の二人の楽しみだった。
旅行や外出も良いが、のんびり過ごす時間は何にも変えられない。
それに何より、仕事をして家を空けていれば家事も滞ると言うもの。
だから、

「リゾット、洗濯物干してきてくれる?」

「分かった」

「私は布団を干すね」


と、こうなるわけである。
気合いを入れて腕捲りをした名前は、二階へ上がって窓を全開にした。
気持ちよい風が吹き抜け、布団を干すには最高の天気。

小さなベランダに布団を引っ掻けた名前は、隣の木にネコがいる事に気づいた。
ホルマジオのネコとはまた違う、白いネコだ。


「何してるんだろ…」

ジィッと見つめていると、ネコは木の枝を行ったり来たりして頼りなく「ニャア」と鳴く。


「降りられなくなったのか!!」


慌てた名前は、そのまま外へ飛び出した。
木の幹の、こぶになった場所に手をかけてせっせと登っていく。


(そう言えば、昔は木登りが好きだった)

まだ両親が生きていた時の事を、名前は微かに思い出していた。
昔、養父母に引き取られる前に住んでいた家の隣にも木が立っていた。
ずっと思い出す事のなかった、幸せだった頃の事。

(もっと巨大だった気がするけど…)


ネコが降りられなくなっていた木の枝まで登ると、足を引っ掻けてそこに座った。
ネコは枝の先の方に居るが、さすがに名前の重みには耐えられそうにない。


「おいで」

呼んではみるものの、なついているネコならまだしも初めて見るネコが素直に来るわけがない。
スタンドのスワローで掴もうかとも思ったが、気配に敏感なネコは何かに気づいて毛を逆立てるのでそれも出来ない。
名前は仕方なく、恐る恐る枝の上を移動してネコへ手を伸ばした。


「もうちょっと…」
「名前!?」


突然響いたリゾットの大きな声に驚いたネコが、ツルリと足を滑らせる。

「危ない!!」


瞬間。

枝がミシリと嫌な音を立て、名前の視界に地面が映った。





























「びっくりした…」

「それはこっちの台詞だ!!」


リゾットがキャッチしてくれなければ、今頃地面に身体を打ち付けていたに違いない。
地面にキスどころの騒ぎではない。

自分のスタンド・スワローがギリギリ捕まえていた猫をそっと降ろすと、白猫は足元をくるりと回って走って行った。


「ごめんなさい」

「全く…
間に合って良かった」


そっと名前を降ろしたリゾットは、その身体を強く抱き締めて優しくキスをした。


「あまり驚かせるな」

「ごめんなさい」


「まぁ無事だったから良い。家に入ろう」

ちょっと目を離すと直ぐに無茶をする。
内心ため息をつきながら家に入ろうとしたリゾットは、名前が立ち止まっているのに気がついて振り返った。
どこかケガでもしたのだろうかと不安が過る。


「名前?」

「あ、…ごめん」


「どうかしたのか?」

戸惑う名前をリゾットが覗き込むと、名前は予想に反して目を丸くしていた。


「ねぇリゾット、どうしてこの家に住む事にしたの?」

「??
急にどうした?」


「あれ…知ってたの?」

名前がもう一度振り返った視線の先。
木の幹に刻まれた文字にリゾットはため息をついた。
こんな形でばらすつもりはなかった。
もっと驚かせるつもりだったのに。


"名前一歳"

横一直線に引かれた線と、名前の名前。


「知っていた。この家は、名前が本当の親と住んでいた家だ」

「うそ…」

「嘘じゃない」


「…………私、気づかなかった」


少し寂しげにうつ向く名前の頬を、リゾットの指がくすぐる。
名前がここで生まれ育ったのは確かだったが、彼女がそれを覚えていないであろうことにもすぐ気づいていた。



「どう切り出すか迷ってたんだ」

名前はリゾットに手を引かれて家へと入り、改めてぐるりと見渡す。
見渡したところで、記憶が蘇るわけではない。
それが少し寂しかった。


「私、お父さんとお母さんの事なら少しは覚えてるの」

優しい両親だった。
いつも自分を一番に考えてくれて、たまには厳しく叱られたりもした。
二人は仲がとても良くて、それが何より嬉しかったのを覚えている。


「名前」

ちょいちょいと手をこまねくリゾットは、小さな戸棚の奥を指差す。


「見てみろ」

「?」

戸棚に半ば頭を突っ込むように覗き込んだ名前は、驚きで息を息をつまらせそうになった。
カラフルなクレヨンで描かれた、三人の家族。
並んで描かれた三人は、とても幸せそうに笑っていた。


「私の絵だ」

確かに描いた記憶がある。
親に叱られて、泣きながら隠れた戸棚の中。
拗ねて描いたその絵は、それでも確かに幸せそうに笑っていた。



「たまたまこの家を見つけて、あの木を見て名前の生家だと気づいたんだ」


リゾットは名前の手をひいてリビングへ行くと、ソファーに腰かけた。
そのまま手を引き寄せ、名前を膝に乗せる。


「あの絵を見て、名前の幸せな記憶がこの家に詰まっているんだと思った
だから、ここに住みたいと思ったんだ」


名前が幸せな時間を過ごした家。
そこなら名前も笑って過ごしてくれる気がした。
それになにより、自分にもそんな幸せな時間が訪れれば良いと願っていた。



「もっと何もかもが巨大だった気がしてた…
あんまり思い出せないし…」


それもそのはず。
思い出さないようにしていた。
幸福な時を思い出すには、あまりにも悲しい生活を余儀なくされていたから。



「それでも、お前が覚えてなくても。そこかしこに刻まれてるから良いじゃないか」



名前はそう言って笑うリゾットの首に腕を回した。


どうしてそうなんだろう。
どうしていつもそんなに大切にしてくれるのだろう。
どうしてこんなにも嬉しい言葉をくれるのだろう。
今までの悲しい生活も、そのおかげで今があるのだと思えば、むしろ感謝したくなる。



「リゾット、ありがとう」

「気にするな、お前が幸せならそれでいい」


「幸せ。すごく幸せだよ。
こんなに大切にされて良いのか不安になるくらい」

「不安になるのかよ」

「だって、リゾットが優しいから」


そりゃ相手がお前だからなとキスをくれるリゾットに、名前は目の奥が熱くなるのを感じた。
それと同時に視界が滲むのを、止める事も出来ずに涙が溢れ落ちる。


「お、おい…」

「リゾット、ありがとう」

何度も「ありがとう」と繰り返す名前を、リゾットは戸惑いながら撫でて抱き締めた。


「好きだ、名前。
ありがとうはむしろ、オレが言わなければいけない」

胸が苦しくなるほどの幸せも、切なくなるほどの愛も、全て名前が与えてくれた。
生きる事に価値を見出だす事すら忘れた人生に、名前と出逢って全てを取り戻した。

幸せだと言って泣く名前の涙を拭いながら、リゾットは祈るようにもう一度口づけた。


「オレも幸せだ」


どうか、この幸せがいつまでも続きますように。


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