今日は久々に早く帰って来れたというのに名前の方は仕事が長引いているらしく、リゾットはがっかりしながら一人で帰宅してソファーに腰かけた。

家で一人になるのは本当に久しぶりだ。
名前とこの家で暮らす前も、アジトには誰かしらが居たし。多分数年ぶり…下手すると十数年ぶりだ。


静かな家は自分の呼吸すら響くようで気持ち悪く、何となく近くにあったクッションを枕に、ソファーへ体を横たえた。
少し開けた窓から風が吹き込み、名前が選んだレースのカーテンが風に揺れる。
射し込む日差しがゆらゆらと優しく揺れて、リゾットの意識を微睡みの中へ溶かしていった。













『何だ、帰って来ちまったのか』

目を丸くしたホルマジオにそう言い放たれて、リゾットは無機質な視線を返した。
つい先ほど断腸の思いで名前に別れを告げて、名前の長い監禁生活を終了したところだ。
あんなに楽しんでいて、監禁と呼べるかどうかは些か疑問だが。

帰宅した事を非難しはじめそうなホルマジオから逃げるように、リゾットは自室の戸を閉めた。
酷い喪失感で身体が重い。
つい昨日まで名前が居た部屋はガランとしていて、誰も座っていないソファーは嫌でも名前にはもう会えないのだと実感させる。


『さようなら』

そんな言葉を口にしたのは久しぶり。
きちんと別れを告げるような相手は長いこと居なかった。
心を引き裂かれるように感じたのも久しぶり。
むしろ、心だとか感情だとか…そんなものを感じるのも久しぶり。
名前と暮らす事で生まれた感情が、今だけは心底憎い。


目を閉じて、名前がいつも座っていたソファーに身体を投げ出した。
目を閉じれば、別れ際の名前の顔が蘇る。
頬を赤らめて涙を浮かべ、悲しげに顔を歪めていた。

(苦しめてしまった…)

あんなにも守りたかったはずなのに。

(守る?
オレはアイツを監禁してたんだ…)


ため息をついて部屋を見渡す。
そこかしこに残る名前と暮らしていた痕跡が、今はただ苦しい。

血に濡れた手で、何も知らない名前を捉えた。
それなのに、名前は闇に沈んだ自分を救ってくれた。例え名前にそのつもりがなくとも。
昨日だって、リゾットはずっと名前を突き放すつもりでいたのに、名前はそれを知ってなお笑っていた。
悲しい顔をするなと言った。
気持ちを伝える事も出来ない自分を、笑って許してくれるようだった。


(最後の最後まで、救われてしまった…)


盛大にため息をつき、ガシガシと頭を掻いた。


(情けない)

そのまま手で顔を覆い、もう一度ため息をつく。
ふと指で唇に触れたリゾットは、名前とした最初で最後のキスを思い出していた。


『キスして』

その声が脳裏に甦り、切なさと甘い痺れに変わる。


もっと一緒に居たかった。
ちゃんと想いを告げて、もっとキスをしたかった。
悲しみでどうかしてしまいそうなキスではなくて、優しく溶けるようなキスをしたかった。


『名前…』

呼べば返事が返ってきそうな気がする。
部屋の中には名前がここに確かに居た痕跡があって、ベッドやソファーからは名前の香りがする。
それなのに、もう返事が返ってくることはない。
自分で切り捨てたのだ。

ー好きだった。
いつの間にか、チームか名前のどちらを選ぶか悩んでしまうほど。

ー大切だった。
ボスの脅威から、名前だけは護りたいと頭を抱えるほどに。


いつの間にかリゾットの中は名前で満たされていて、いつの間にかリゾットの中心は名前になっていた。






『なぁ、帰って来なかった事にしてやろうか?』

抱えていた頭を上げると、入り口にホルマジオとプロシュートが立っていた。


『……何?』

『だから、帰って来なかった事にしてやろうか?って言ってんだよ』

『アンタなら、名前と逃げるくらい出来るだろ』


二人の表情を交互に見たリゾットは、無言で首を振った。


『オレはこっちに残ると決めた。……問題ない』


そう。眠っていた感情が名前によって目覚めたように、名前が居なくなって暗殺者として生きていれば、目覚めた感情を沈めるくらいなんでもない。
苦しく感じるのも、今だけだ。
全てが元に戻るだけ。


『頑固者』

『何とでも言え。あと、ペッシを呼んでくれ。部屋を片付ける』


リゾットの頼みに、プロシュートは片手を上げて答えた。
しかし、ペッシがリゾットの部屋に来ることはなかった。多分、名前の痕跡を消したがるリゾットを見抜いて、ペッシには伝えなかったんだろう。
もう一度呼ぶのも面倒で、そうこうしているうちにチームのメンバーは一人…また一人と居なくなった。



『アンタは…もう戦うな。まだ、取り戻せ…る』

頑固なのはお前だプロシュート。死ぬ瞬間まで他人の世話ばかり焼きやがって。
ホルマジオだって『ワリィ…』なんて、死に際に謝罪なんてしてきやがった。
謝る必要なんてないのに。
電話を片手に、ただ無限に広がる闇を感じた。


『ソルベ、ジェラート、ホルマジオ、イルーゾォ、プロシュート、ペッシ、メローネ、ギアッチョ…』

どうして何も護れなかったんだろうか。
暗殺者として評価されながら、無能なリーダーだ。
ソルベとジェラートから始まり、名前と決別して生まれた空虚感は、埋める間もなく広がっていく。

それでも、悲しむだけではいられない。
全てを奪った独裁者に、目にもの見せずに逃げることなど出来ない。
ただ、誇りのためだけに。



『名前…生きててくれよ』

お前なら、きっと真っ当に生きていける。
いつものように笑って、いつか誰かを愛して…。普通の男と普通の家庭を築いて、幸せに歳をとって死んでくれ。
出来れば隣に居る男は自分でありたかった。
まぁ、そうなると"普通"とは程遠いのだけれど。

幸せで居てくれ。

笑顔で居てくれ。




せめて、お前だけは。



願いを込めて部屋を出た。
ブチャラティ達と闘うために。
アジトの扉を閉めながら、口の中で『さようなら』と呟いた。
もう、戻る事はない。
勝っても負けても、もうここには戻らないと決めていた。













「リゾット!!」

「…ん?」

心地好い日差しはいつしか赤く染まり、夜の訪れてを告げようとしていた。
夕焼けにそまる部屋で、呆れたように名前がリゾットの肩を揺らす。


「起きて!風邪ひいちゃうよ?」

「名前」

そうか、夢…。
あんまりにも鮮明に蘇った苦い記憶に、リゾットはソファーから起き上がるなり名前を抱き締めた。


「……リゾット?」

確かに一度手放したはずなのに、今感じる名前の温かさは紛れもなく本物。


「名前、愛してる」

気持ちだって伝える事が出来るし、真っ赤になる名前にキスをすることも出来る。
それは、悲しいキスなどではない。


何度も何度も触れるだけのキスをして、戸惑う名前を抱き締めた。


「リゾット、どうしたの?」

「いや…」



あの時、名前を突き放し、仲間を失ったはずだった。
それなのに、今のリゾットの手の中にはその全てある。


「名前」

「ん?なに?」

「……何でもない」


呼べば返事も返ってくる。「変なリゾット」と言いながらも甘えるように回した腕に力を込め、名前は頭をリゾットの広い胸に寄せて笑う。
もし、何かの拍子にまたチームと名前のどちらかを選ぶ事になっても、以前のように決断できる自信はない。
失いがたい幸せだ。









「お取り込み中申し訳ないが、湯が沸いたぜ?」

「あ、忘れてた!!ありがとうホルマジオ」


目の上のたんこぶめ。
ニヤニヤ笑うホルマジオが、慌ててキッチンに戻っていく名前と入れ替わりに近づいてくる。


「あのなぁ、そんな露骨に嫌がるなよ」

「うるさい」


ドカッとソファーに腰かけると、ホルマジオは堪えきれないと吹き出した。
失礼な奴。


「幸せそうで何よりだ」


そう言うホルマジオは、まるで自分の事のように「良かった良かった」と笑う。
本当、お人好しだ。
電話越しに言われた『ワリィ』だって、自分の事よりリゾットの事を案じた言葉だ。



「ホルマジオ、悪かったな」

「……何だよ、気持ちわりぃな」


人がせっかく謝罪しているのに、なんて言い草だろうか。
それでもホルマジオは、言わんとしている所を理解してくれているようだ。
ニマニマと笑って隣に座ると、「まぁ頑張れよ」と呟いた。


「守るのは、壊すより大変だぜ?」

「知っている」

「じゃ、せいぜいジタバタ頑張るアンタを見させてもらうよ」



素直に応援出来ないのだろうか。
まぁ、こっちも素直に礼を言わないのだからおあいこか。



「二人とも、ご飯出来たよー」


「ラッキー、今日は久しぶりに名前の飯だな」

「また食って帰るのか!?」

「なんだよ、お前がケータイに出ないって言うから送ってやったのに」

「飯目当てでな」

「ま、それは言いっこなしだ。今日の飯当番はメローネなんだよ」


そりゃ、お気の毒。
立ち上がったリゾットは、仕方なくホルマジオと食卓についた。


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