「リゾットは知ってんのか?」
不意に聞こえた声に、リゾットは歩調を緩めた。
どうやらソルベの部屋から聞こえているらしく、その扉は薄く開いている。
「いや、さすがに名前も言い出しにくいみたいだぜ?」
ジェラートの声が名前の名前を出し、緩めた歩調は完全に止まった。
開いたドアに近づき、中から漏れ聞こえる会話に耳をすます。
(名前が言い出しにくい……オレに言わなければならない事?)
全く心当たりがない。
今朝だって、名前の様子におかしな所はなかった。
「そうは言っても、隠し通せるもんでもないしなぁ」
「まぁな、腹も出てきたし…。でも子どもかぁ。可愛いよな」
「あれ、ジェラート。好きだったっけか?」
ソルベの言葉に頷きかけたジェラートは、カタンと鳴った物音に振り返った。
(扉が少し開いている!!)
慌てて駆け寄り、外を覗くが誰も居ない。
ジェラートはため息をついてソルベを振り返った。
「リゾットに聞かれたかも」
「マジかよ!?
あー…でも別に良いんじゃねぇ?」
全く良くない。
今の会話では………。
(子ども?)
リゾットは頭の中が真っ白になった状態で歩き、気づくと公園のベンチに座っていた。
まだ日も高く、公園には子ども達の声が響く。
コロコロと転がってきたボールを見ていると、それを追いかけてきた子どもがリゾットを見て固まった。
そりゃそうだ。
泣く子も黙る暗殺チームの、リゾットはリーダーだったのだ。
子どもは敏感だ。リゾットが堅気の人間でない事くらい分かるだろう。
何も言わず、ボールを蹴ってやった。
わざと子どもを少し行きすぎるくらいの距離に蹴る。行き過ぎたボールを振り返った子どもは、それを拾ってそのまま礼も言わず走り去った。
(このオレに……子ども?)
考えた事もなかった。
名前と夫婦になって、もちろんその愛にも誓いにも嘘はない。
夜だって……まぁそれなり。
だから、可能性はある。
あり得なくはない。
でも、考えた事はなかった。
(オレが親?)
明日死ぬやも知れぬ身でありながら、命を授かるなんて現実的でないように思えた。
ふと、さっきの子どもを思い出した。
リゾットを見た瞬間、恐怖に固まっていた子ども。
そんな風に、子どもに恐怖を与えるような自分が親になれるのか。
だが自分が不安だからといって、一方的に「堕ろせ」なんて言うことが許されるのだろうか。
リゾットと違って、名前は子どもの相手もそこそこ出来る。
以前、ショッピングモールで迷子になって泣いている子どもに遭遇した時、名前はその子どもを上手にあやしていた。
戸惑うリゾットに対して、名前は子どもに好意を持って接しているようにすら見えた。
もしもリゾットが「堕ろせ」と言ったら、きっと名前は悲しむのだろう。
(子どもが嫌いだというわけじゃない…ましてや、名前を悲しませたいわけでもない……)
結論は出そうなのに、踏ん切りはつかない。
ただ漠然と不安だった。
未知の事に、どう対処すべきか分からない。
(ジェラートやソルベに、何と相談したんだろうか…)
そもそも名前は「産みたい」と言うだろうか。
(………言うだろうな)
ため息を一つついたリゾットは、さっきの子どもが木の影からこちらを伺っているのに気づいた。
リゾットが気づいた事に気づいたのだろう。
子どもは小さな手を振る。
内心ギョッとしつつ手を上げて返すと、子どもは「グラッツェ」と笑った。
「………」
今度こそ走り去る子どもを見ながら、リゾットはもう一つため息をついて立ち上がった。
と、その時だった。
「リゾットー!!」
先ほどの子どもが走り去った方から、今度はジェラートが走ってきた。
その後から、ソルベと名前がリゾットに走り寄る。
「何で公園なんだよ…」
息切れしている所を見ると、ジェラートとソルベはずいぶん走り回ったようだ。
名前はさして息切れしていない。おそらく後から巻き込まれたのだろう。
「おかげで名前に事情を説明するハメになっちまったじゃねぇか」
「ソルベ、それは良いって!!それより、リゾット…さっきのオレらの話聞いてたか!?」
鬼気迫る勢いのジェラートに、リゾットは一つ頷いた。
「やっぱり。どっから聞いてた?」
「…子どもがどうとかって辺りだ」
チラリと名前を伺うと、猫を抱えた名前は少し緊張した様子で口を引き結ぶ。
ホルマジオのネコはすっかり名前になつき、近頃はよくネコを抱えている。ネコの癖にまるで犬のようだ。
「………どう思った?」
「それは…」
正直に、"ここで言いたくない"と思った。
多分これは繊細な問題だし、いくら名前に保護者のような気持ちを抱いている二人でも、この話題には首を突っ込んで欲しくない。
「名前が妊娠したと思ってねぇか?」
「……???
違うのか?」
困惑顔のリゾットに、名前はズイと猫を差し出した。
「妊娠したのは猫だよ!!」
頬に平手打ちを食らったような気分とはこの事だ。
赤ら顔の名前の背後で、ソルベとジェラートは笑いを堪えるのに必死だった。
「ホルマジオの猫、いつの間にか妊娠してて…
ねぇリゾット、子ども産まれたら飼っても良い?」
メスだった事も初耳だ。
言い出しにくかった事は、"飼っても良いか"という事だったらしい。
完全に拍子抜けだ。
と言うか…。
「ソイツもお前が飼ってるんだと思った」
「まぁ確かに、ホルマジオにはなついてないからな」
プッとソルベが吹き出し、猫がそれに同意するように「ニャア」と鳴いた。
ホルマジオが聞いてたらショックを受けただろう。
「なぁ、リゾット」
「なんだ」
リゾットを覗き込むソルベは、にんまりと笑みを浮かべる。
「真剣に悩んだんだな」
絶対にバカにしている。
間違いない。
メタリカを発現させたくなるのを抑えて睨んでも、ソルベとジェラートは肩を震わせて笑っていた。
「帰るぜ、名前」
「え、ちょっと…あ、チャオ、ソルベ、ジェラート!!
リゾット、待って!!」
慌ただしく帰る二人を眺めて、ソルベとジェラートは再び吹き出した。
自分達が撒いた種とはいえ、表情が乏しかった事など嘘だったんじゃないかと思うほどに、最近のリゾットはくるくると表情を変える。
それを見ているのは楽しくもあった。もちろん、本人は不本意だろうが。
「リゾット」
振り返ると、いつの間にかネコは名前の腕を降りて隣を歩いていた。本当に犬のようだ。
名前はリゾットの袖口をそっとつまんで、リゾットを伺う。
「驚いた?」
「…公園に行くまでの道のりを覚えていないくらいには驚いた」
ポツリと答えるリゾットに、名前は思わずうつ向いた。
顔が火照るのを止められない。
「……どう思った?」
照れくさくて恥ずかしくて、でも気になる。
「正直、分からない」
袖口を掴む名前の手を握って、リゾットは名前の顔を覗き込んだ。
名前の表情は、驚きに混ざって僅かに悲し気に見える。
「お前が決めて良い。オレには、産みの苦しみってやつを代わってやれないからな。だが……嫌だとは思わなかった」
疑いたくなるほど平穏な生活の中に、リゾットは確固たる居場所を得た。
この上ない、恐ろしい程の幸福に戸惑う事はあっても、それを拒絶するはずもない。
「そっか…」
玄関の鍵を開けながら、名前は恥ずかしさを紛らすようにフフと笑う。
「あれ?」
「どうした」
「鍵、締め忘れちゃった」
どうやら先は思いやられそうだ。
笑って誤魔化す名前と家へ入って、ドアを閉めるなり抱き締めた。
チュッとリップ音をたててキスをして、名前の頬が赤らむのを見ながらリゾットは小さく笑った。
「あぁ、でも…もう少し二人でいたいな」
自分も忘れるなと主張するように「ニャア」と鳴く声を聞きながら、リゾットはもう一度名前に口づけた。