「名前、起きろ」
リゾットに揺すられて、名前はまだ重い目を擦って頭を上げた。
「今何時…?」
「4時だな」
「朝早い」の宣言通りと言えばそれまでだが、まだ暗い街を見て名前はもう一度目を擦った。
「…眠い」
まだひんやりとした空気の中、名前はベッドから降りて顔を洗う。
行き先も目的も言わないリゾットをチラリと伺ってみるものの、淡々と支度をしている彼から何かを読み取る事は出来ない。
「用意出来たか?」
「もう少し」
バタバタと駆け回り、必要そうなものを鞄に詰め込む。大荷物になりそうなその行動は、リゾットが笑ってストップをかけるまで続いた。
「これは必要ない」
目覚まし時計を掴む手を掴んだリゾットは、バックを奪って名前の腰に手を当てる。
「ほら、行くぞ」
落ち着いた様子のリゾットに名前は頬を染めて頷き、大人しくリゾットのリードに従って家を出た。
「「遅い」」
「すまん」
車の中から覗いて声を揃えるソルベとジェラートに、リゾットは肩をすくめて答える。
「一緒に行くの?」
名前の質問に、ソルベが「まさかだろ」と笑った。
今日は二人とも仕事らしい。
駅まで送る役割を買って出てくれたのだとリゾットが説明してくれて、名前は待たせた事を謝った。
「どうせ荷物の支度に時間がかかったんだろ?」
ジェラートの鋭い指摘に返す言葉もない。
ソルベの(ギアッチョよりは)安全運転で駅に着くと、ジェラートは小さな紙袋からストールを出して名前に巻いてくれた。
二人からのプレゼントらしい。
「海風はまだ寒いぜ。風邪ひくなよ」
二人にハグとキスで見送られ、チケットを買ったリゾットと手を繋いで列車に乗り込む。
途中、「気をつけてね」と母親らしき人に見送られる少女を見つけ、「さっきのジェラートみたい」と呟いた名前にリゾットは小さく吹き出した。
名前に出来た新しい両親は、ずいぶん手強そうだ。
「まだどこに行くか教えてくれないの?」
「すぐ分かる」
隣に腰かけたリゾットを覗き込んでいた名前も、諦めたようにバックからチョコレートを取り出した。
「パンを食べるんだろ?」
「うん」
そう言いながら、名前はカラフルなチョコレートを一つ口に含む。
止めても聞きそうにない様子に、リゾットは諦めて窓の外を見た。朝の訪れに白んだ空は晴天で、どうやら今日は一日晴れそうだ。
添乗員から新聞とパンとコーヒーを買って、流れる景色を眺めながら朝食を取り、列車から降りてタクシーに乗った。
「空港まで」
「空港!?」
行き先を知らない名前は目を丸くした。
遠出とは聞いていたが、飛行機に乗るような遠出だとは考えもしなかった。
ジェラートが「海風は冷える」と言っていたのを、今更ながらに思い出して眉を寄せた。
「パスポートは持ってないけど?」
「奇遇だな。オレも持ってない」
一応国内ではあるらしい。
茶化すリゾットに手を引かれて空港を進み、小さな国内線の飛行機に乗り込んだ。
「シチリア?」
「…あぁ」
ようやく行き先を知った名前は首を傾げた。
不思議そうに眉をよせる名前に、リゾットは薄い笑みを浮かべた。
「オレの故郷だ」
「え…」
名前にとってのリゾットはあの家に住んでいるのが当たり前で、それより前の事を考えた事など一度もなかった。
「もう二度と行くことはないと思っていたんだが…」
そう言ってリゾットは優しい笑みを浮かべる。
いつからこんなに優しい笑みを浮かべる人になっていただろうか。
出逢った頃のリゾットは、ほとんど表情の変わらない人だった。
無表情で無慈悲。
顔色一つ変えずに人を殺す人。
「リゾット、変わったね」
「なんだ、藪から棒に…。まぁ、確かに変わったが」
気恥ずかしげに眉を寄せたリゾットは、フゥとため息をついて深く腰掛け直す。
長い脚をゆったり組んでその上に乗せた手を眺めながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「変わったな…何もかも。お前がオレを光の下へ引きずり出したんだ」
「何か…私が凄く乱暴な事したみたいじゃない?」
「どうだろうな」
ニヤリと笑うリゾットに名前が反論しかけた所で、到着のアナウンスが流れた。
窓から覗けば、目下には既にシチリアの島が広がる。
青い海に広大な自然と美しい町並みが広がるシチリアを眺めて、名前はポツリと呟いた。
「リゾットの故郷…」
そう意識して見れば、ひたすら美しいだけの景色に愛しさが加わる。
名前は胸を締め付けるような切なさから、リゾットの手を握る指に力を込めた。
「わぁっ!!」
リゾットは目を細めて、目に移る物の全てに感嘆の声をあげる名前を見た。
彩り鮮やかなデザインの皿や細かな細工の小物。美しい教会に劇場。
名前が感動する様を見ながら、改めて故郷の良さに気づかされるようだった。
(オレは何を見てたんだろうな…)
リゾットは内心で嘲笑して、名前の手をひいて歩く。
「……リゾット?」
不意に呼ばれて振り返ると、一人の青年が目を丸くしていた。
まだこの街で暮らしていた頃に仲良くしていた少年の面影を男の中に見て、リゾットは顔を強ばらせた。
そんなリゾットに構う様子もなく、青年は笑って話しかける。
「やっぱり!!元気そうだな。…その子は?」
リゾットは、背後を覗き込む青年につられて視線を後ろへと向ける。
戸惑うようにリゾットを見上げる名前を、青年は「彼女か?」と冷やかした。
「あぁ」
「名前です。初めまして」
「マジにか?…リゾットに年下彼女かよ」
照れくさそうに挨拶する名前を見て、信じられないと目を瞬かせる旧友にリゾットは苦笑いを溢した。
「せっかくだしウチに寄って行かないか?」
「いや、遠慮しておく。行きたい所があるんだ」
誘いを断ると、青年は「それなら」と手に持っていた紙袋を差し出した。
「丁度、さっき食べようと思って買ったんだ。どうせろくに案内もせずに歩いてるんだろ」
ククッと笑う彼がそう言って、リゾットは通りがかりに見た店や建物も素通りして来た事に気づいた。
「彼女に食わしてやれよ」
紙袋を覗くと、シチリア銘菓のカンノーロが入っていた。
生クリームたっぷりで、名前が好きそうだ。
「グラッツェ、ザバイオーネ」
「なんだ、覚えてたのか。忘れてるのかと思ったぜ」
名前を呼ばれて再び目を丸くしたザバイオーネに、リゾットは肩を竦めた。
忘れていたわけではない。
過去の自分を含めた全てを、"忘れたかった"のだ。
そんな事を言えるわけもなく、濁すリゾットにザバイオーネは少し寂しげに笑った。
「まぁいい…生きてたんだからな。また帰って来いよ」
「あぁ、考えとく」
手を振ってザバイオーネと別れ、リゾットは再び名前の手をひいて歩き出す。
「あいつは…ザバイオーネは近所に住んでたんだ。いい奴だよ」
「へぇ…」
リゾットはとつとつと昔話をし始め、名前は聞き漏らすまいと耳をすませる。
「オレは昔から、あまり人付き合いが得意じゃなかったが…アイツは友人も多かった」
確かにそんな感じだった。名前は人なつっこく笑うザバイオーネを思い出して頷いた。
「オレは昔から他人に無関心だったから……仲が良かったと言うより、引っ張り回されてたと言った方が正しい気もするな」
リゾットは薄く笑いながら、街を外れて細い山道へと入っていく。
比較的歩きやすい靴で来て良かったと胸を撫で下ろし、鬱蒼とした獣道へ踏み込んだ。
「前に…"死んだいとこの子どもを思い出す"って話しただろう?」
「うん」
「その子にも多分…関心なんかなかったんだ」
息が上がってきた名前に気づいて、リゾットは歩くペースを落とした。
「死んだら、人はただの物質になる。冷たくなったその子を見てそう思った」
リゾットは名前に話ながら、昔の自分を鮮明に思い出していた。
毎日が酷く他人事で、指先に血が通わないような…何か冷たいモノが心臓に触れるような心地だった。
「古い風習に従うように復讐を果たし……一人になりたくてパッショーネに辿り着いたんだ」
「やかましい奴らとチームを組む羽目になって、一人にはなれなかったが」
そう言って笑うリゾットはどこか幸せそうに見えた。
「出逢った時の事を覚えてるか?」
ようやく立ち止まったリゾットは、名前を振り返ってた。
真っ直ぐ向けられる視線に、名前は頷いて答える。
「あの日もオレは、いつものように何の感傷を抱く事もなく仕事をしていた」
メタリカで…おそらく何が起きたか理解する暇もなく事切れたであろう男の事を思い出した。
血の海の中で、リゾットの瞳は氷よりも冷たかった。
「オレを変えたのはお前だ、名前」
立ち止まり、後一歩を踏み出さない名前をリゾットはソッと抱き寄せた。
強ばる身体が、名前の緊張をリゾットに伝える。
「闇に堕ちたオレにとって、お前は一筋の光だった」
リゾットの指が、名前の頬をそっと撫でる。
慈しむような視線に、名前の心臓が早鐘を打つ。
「監禁していたはずが、いつの間にか特別な存在になっていた…」
真っ赤になる名前に、リゾットは笑って踵を返して名前の手を引く。
後少しで頂上と言うところで立ち止まっていた二人は、程なく開けた場所に出た。
鬱々と影を落としていた木々を抜けた名前の視界いっぱいに、真っ青な海と空が広がる。
歩き続けて汗ばんだ肌に心地好い風が吹き抜け、二人の頬をサラサラと撫でた。
「っ…スゴい」
名前はその絶景に息を飲んだ。
今まで見たどんな景色よりも、どんな宝石やドレスよりも美しい。
筆舌にし難いその景色の迫力に、涙すら溢れそうだった。
「名前」
風に冷やされた名前の頬に触れるリゾットの指は、とても温かい。
「オレに、お前と一生を共にさせて欲しい」
「…ぇ?」
「オレと結婚してくれ」
時が止まったようだった。
景色を見た時には堪えれた涙が、今度は堪え切れずに溢れ落ちる。
「オレに命をくれたのは親なんだろう……だが、オレに心をくれたのは名前、お前だ。
もうお前を失う事に耐えられない」
リゾットは名前の涙をそっと拭った。
溢れ落ちる涙は、止まる事を忘れたように次々と溢れて名前の頬を滑り落ちる。
「愛してる…名前」
リゾットの両手が優しく頬を包み、唇がそっと名前のそれを塞ぐ。
触れるだけの、優しいキス。
「私が、…リゾットのお嫁さん?」
"お嫁さん"という表現が、なんとも名前らしい。
リゾットが笑って頷くと、名前はとうとう両手で顔を覆ってしまった。
ぽたぽたと落ちる涙が、地面で弾ける。
「どうしよう…っ、何て言えば良いか…」
しゃくりあげる名前を抱きしめ、リゾットは耳にキスをした。
「名前、"結婚する"と言ってくれ」
「…する…っリゾットと結婚する」
「名前」
リゾットはきつく名前を抱きしめたまま、深く深く口づけた。
熱い吐息が溢れ、名残惜しむようにゆっくりと離れたリゾットの唇が、今度は涙に濡れた名前の目に触れる。
「名前に一つ、隠していた事がある…」
小高い丘の上に、小さな家が建っていた。
家の隣には大きな木が優しい木漏れ日を家へと降り注がせる。
木漏れ日の心地好さに微睡んでいたネコが、家に近づく人物に気づいて屋根から飛び降りた。
「また屋根に居たのか」
足にすりよるネコに、リゾットは小さく笑みを溢した。
家のベルを鳴らすと、バタバタと走る音の後に大きく扉が開かれる。
「おかえりなさい!!」
エプロン姿で飛び出した名前を抱きしめ、リゾットはそっとキスをして微笑み返した。
「ただいま、名前」
「皆来てるよ」
「そうか」
「でね、リゾット…」
足元をスルリと通り抜けたネコに続き、二人は楽しげに話ながら家の中へと入って行った。
リゾットが名前に秘密で用意した小さな家は、連日笑い声が響いていた。
to RisottoU
完