ブチャラティは建物の前に立った時、中からメロディが奏でられている事に気づいた。
それは切なく寂しい響きを持ち、同時に温かい優しさに満ちている。
預かった鍵で中に入り、教えられた部屋をノックした。


「名前、入っても良いか?」

メロディは止まったのに、返事はない。

「名前?」


眠っているのだろうか。
妙な胸騒ぎにドアを開くと、スワローが名前の隣に立ってゆっくりとこちらを振り向いた。

「ブチャラティ、名前ニ近ヅカナイデ下サイ」

「何?」

ぞわぞわと身体を這うような感覚に、ブチャラティは慌てて一歩下がった。
スワローの読めない表情が、いつもより悲し気に見えた。













名前が目を覚ますと、一人で廃屋に座っていた。
埃っぽい室内に、どんよりした空気。
そこがどこなのか、直ぐに思い出す事が出来た。

長く、それはとても長く、恐ろしいほどに幸福な夢を見ていた気がする。


「目を…覚ましてしまった」

現実は暗闇に一人。
いや、もしかしたら三人と言って良いのかも知れない。


「名前」

ジェラートが目覚めた名前に気づいて、そっと隣に現れた。
反対隣では、ソルベも名前に笑いかける。
二人とも二年前から魂だけになってしまっていた。


「みんなを助ける事が出来た夢を見ちゃった。正夢になるかも」

名前は幸せそうに微笑み、けれどその笑みに含まれる悲しみに二人は気づいていた。
そっと名前に伸ばした手は、柔らかな頬をすり抜ける。
僅かに温もりが感じられ、名前の存在を確かに伝えるのに触れる事は出来ない。


「リゾットは元気だったか?」

「…うん」

目を閉じれば、リゾットに抱き締められた時の体温と息づかいが蘇る。
規則正しい心音が重なり、何とも言えない安心感が名前を満たした。


「なんだ名前、顔赤いぜ?」

「ん?まさか夢でリゾットに何かされたんじゃねぇだろうな?」


「ち、違っ!!」

「怪しいな、ソルベ」
「あぁ、名前も存外やらしいな」

クスクスと二人が笑い、名前は頬を膨らませた。

「……あのね、ブチャラティも生きてて、みんな仲間になってる夢だったよ」

「……名前」

あり得ない。
そう言おうとしてジェラートは口をつぐんだ。
夢を壊す必要はない。
せめて夢の中くらい幸福であればいい。

名前がこれから向かうのは地獄にも似た現実。仲間の死を確かめる旅になるかも知れないのだから。


「ん、ホルマジオが出かけるみたい」

「…何か掴んだかな」


名前は自分の指にくくりつけたホルマジオと自分を繋ぐ糸を見つめながら、白んだ朝の街を歩き始めた。
ホルマジオは何かを探しているのか、街をうろうろと行ったり来たりしている。
ジェラートが、「情報を集めてるんだろう」と説明してくれた。

ホルマジオと距離を維持したまま追いかけて歩く。
もう何時間も歩き続け、脚が棒のようになった頃だった。

「なぁ」

ふと呼び止められて振り返った名前は、驚きのあまりあげかけた声を必死に飲み込んだ。

「はい?」

「女の子が買う頬紅って、どこに売ってるか知らないか?」


ナランチャだった。
メモを片手に、店が分からないと頭を抱えているようだった。

「コイツがそんなものを買うって事は、ブチャラティチームが黒だな」ジェラートがそう呟く。


「あの店に売ってるよ」

「マジ?グラッツェ」

名前は走って行くナランチャの背中を見つめて、「どういたしまして」と小さく呟いた。

彼は私の大切な人達を殺すだろうか。
そんな悲しみが名前の心にゆっくり沈む。
まるで鉛の様に身体が重い。


「…っ」

込み上げるものを感じて、慌てて路地に逃げ込んだ。
胸を突き上げるような悲しみに咳き込み、朝かじったパンを吐いた。


「名前」

ソルベとジェラートが今にも泣きそうな顔をして、苦し気に咳き込んでもどす名前を見つめる。
死んでしまった二人には、名前の背中を擦る事も出来ない。


「えへへ…ごめん、汚いね」

そんな事気にするな。胸が押し潰されて、それすら言葉にならなかった。

「大丈夫だよ、行こう」

口元を拭い、店に入って水を購入した。
「何も食べずにいると、もどした時に胃液であちこちがやられちまう」と、ジェラートに口酸っぱく言われてチョコレートを購入した。

「メローネにもらったのはもう食べたのか?」

「これは一日一つまでなの!!」

自慢気に笑う名前に、「なんだそりゃ」とソルベが吹き出した。
口の中の酸っぱさを、チョコレートの甘さが消し去っていく。

ホルマジオがナランチャの車に忍び込むと、名前は建物の影に座って目を閉じた。
蘇るのは、みんなとの幸福な日々。
リゾットの優しいキスと、愛された夜。

「え?」


そんなわけはない。
あれは夢だった。
それなのに、名前の中にはまるで現実に起きた事のように鮮明だった。
リゾットとのキスだって、ホテルに置き去りにされた時のキスだけだ。
優しいキスというよりは、切なく悲しいキス。

「名前、どうした?」

震える名前を見つめる二人の視線は、自分をすり抜けて違うものを見ているようだった。



















「何が起きてるんですか?」

ジョルノに詰め寄られ、ブチャラティは苦い顔をした。
何が起きているのか説明して欲しいのはブチャラティも同じだ。
開けたドアから中を覗き込むと、名前が苦し気に短く息を吐いているのが見える。

「スワローの話では、名前の力が暴走しているそうだ」

「何だと?」

「リゾット、落ち着いて下さい。ブチャラティ、それで?」

片手で制されたリゾットはぐっと押し黙り、ブチャラティの言葉を待った。

「ボイアとの戦いで力をわざと暴走させた事に起因して、過去に縛られてしまっていたと言っていた」

「過去に?そんな事があり得るんですか?」

名前の能力は未知数過ぎて理解出来ない。
ジョルノの言葉に、ブチャラティとリゾットは分からないと首を振った。


「近づくと、能力の影響を受けるかもしれないらしくて…熱があるようなんだが、迂闊に近づく事も出来ん」

「目を覚ますのか?」

情けないほどに動揺しているのがわかる。
震える手でブチャラティを問い詰めると、彼はふぃと顔を背けた。

「…分からないそうだ。ずっと具合が悪かったはずだとスワローが言っていた」


目の前が暗く閉ざされたようだった。
足元にぽっかり穴が空いたような、どこまでも落ちて行くような感覚。
何を考えてどうすれば良いか。何一つとして浮かばない。


「……リゾット」

不意に呼ばれた声に顔をあげると、ずっと名前を覗き込んでいたスワローがこちらを向いていた。


「名前ハ恐怖ニ囚ワレテシマッタ。貴方ヲ失ッタ過去ニ」

眉を寄せるリゾットに、スワローは抑揚のない声で続ける。


「愛スレバ愛スルホドニ囚ワレ、恐レル。
アノ戦イデ、名前ハ自ラヲ犠牲ニスル選択ヲシタ。失ワナイ為ニ」

「……名前はそういう奴だ」

そうだ。
名前は何につけても自分を後回しにして、ツラい事があってもそれを打ち明けない。
それがリゾットには歯痒かった。


「強クナッタ私ノ力ハ、心ガ揺ラグト支エラレナイ」

「名前さんはここ一ヶ月ほどで急激に成長したから、力そのものが不安定なんでしょうか…」

冷静に分析するジョルノにも、意識のない名前に打てる手はない。
ブチャラティが「もう少し早く来ていれば」と悔やんだところで、どうする事も出来ないのだ。

「あんたのせいじゃない」

リゾットは一歩部屋に踏み込む。
身体を這い上がるような寒気に歯を食いしばり、目を細く開いて名前を見た。
目に見えない力で、押し出されるような圧力がかかって一歩が重い。


「オレが気づいていれば…」

ボイアとの戦いでわざとスタンドを暴走させた事。
その反動で名前に身心に負担がかかっていた事。
暗殺チームに拾われ、身勝手に捨てられた事。
死んでいく仲間を目撃し、冷たくなった仲間を運んだ事。
どれもが名前を傷つけ、けれど名前はそれを一人で抱えてきた。

ずっと隣に居たのに、名前がいつから具合を悪くしていたのか分からない。
過去に囚われ、蝕まれる心に名前一人で耐えさせていたのかと思うと、気づかなかった自分に腹が立って仕方ない。

「名前」

襲い来る圧力をはね除け、ようやく触れた名前の頬は熱い。
熱く荒い呼吸を繰り返し、苦し気に閉じられた睫毛を涙が濡らしていた。

ベッドの端に腰掛け、汗でくっついた前髪をわけてそっとキスをした。
唇で触れた肌の熱さに、涙が出そうだった。


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