先ほどから、名前は窓から街を見下ろしたまま動かない。


「名前」

余程自分の思考に耽っていたのか、肩を叩くとビクリと身体を強張らせたあげく「ななななな…」と動揺できちんと言葉に出来ない名前から、リゾットは慌てて手を離した。



事の発端は、先日の名前の発言にある。




リゾットと恋人になるより以前、名前とリゾットは高台にあるホテルに宿泊した。
互いに惹かれ合っていたものの、理由あってどちらからも踏み出せないまま、一度は別れを告げた。

その後、二人は悲しみを乗り越え、想いを通わせて晴れて恋人となった。
とはいえ、リゾットと名前に身体の関係はまだない。
リゾットは名前をとても大切にしていたし、何より邪魔が入ってそれ所ではない。同室で寝泊まりしているにも関わらず、二人きりになる事すら苦労する始末だ。

だからこそ、名前が深く意味を考えずにものを言ったところで、致し方ない事だ。


『リゾット聞いて!!
ジョルノにお給料貰ったの!!
前に行ったホテルに行きたいなー!もう一回あの夜景見たいよ』


つい先日の事だ。リゾットが帰宅するなり、名前は嬉しそうにはしゃいでそう言った。
それはもう、リゾットには降って湧いたチャンスに思えた。


(ホテル!?)

リゾットは心底驚き、僅かな期待に胸が高鳴る。
だがしかし、名前はどう見てもそんな意味を込めてリゾットを誘っていない。
純粋に夜景を楽しみにしている名前を、ジッと見つめたリゾットは考えた。
誘いに乗ったところで、この調子では名前に手は出せないだろう。二人きりで一夜を過ごしておきながら、「お預け」なんてかなりの拷問だ。

(でも、それでも…)

リゾットの脳裏に、別れを告げた朝が蘇る。
あの日…名前に別れを告げた朝。リゾットは目に涙を湛える名前を、一人残してホテルを去った。
断腸の思いで名前を突き放し、久々に頬を濡らす涙の冷たさを味わった。
その上、ボスの脅威から遠ざけるつもりのその行動が、名前をさらなる悲しみの中へ突き落とす結果になった。
文字通り「命の恩人」である最愛の恋人の望みに、どうして応えずにいられるだろうか。

リゾットは短く「いいぞ」と答え、心で溜め息をついた。


(無闇にベタベタしなけりゃ、無事にやり過ごせるだろ…)





しかし、そんなリゾットの目論見はあっさりと裏切られる事になる。

当日になると、名前が突然ギクシャクしていた。
手が触れただけで先ほどのように動揺して会話にならない。
頬を打たれた気分だった。
名前が自ら「恋人と外泊する意味」に気づくとは思えない。大方、誰かに宿泊の事を漏らして気づかされたんだろう。



「名前、見てみろ」


ギクシャクしたまま目を伏せる名前に、リゾットはわざと違う話題を振る。
窓を開けて、街から少し離れた明かりを指差した。


「あれがオレ達が住んでる家だ」

リゾットの狙い通り、名前はリゾットが指差す明かりを、幾分か明るい表情で見つめた。


「みんな起きてるかな」

「どうだろうな。ギアッチョとホルマジオと…プロシュートも起きてそうだな。イルーゾォは名前が居ないとさっさと部屋に入っちまうからな…寝てるだろ」

夜風が頬を撫で、名前が気持ち良さそうに目を細めた。
随分マシになった空気に、リゾットはホッと息をつく。


「ジョルノ達が住んでる場所も分かる?」

「あそこは周りに建物が多いからな…」


リゾットがそう言って考えながら、「あそこかな」と明かりがいくつか付いた場所を指差すと名前は舌を巻いた。
窓から身を乗りだし、目を細めて明かりを見つめる。


「すごい!リゾットよく分かるね」

「ようやく笑ったか」

嬉しくてつい口を突いて出た言葉に、ハッとした様子の名前はせっかく浮かべた笑みを消して眉を下げた。


「ごめんなさい」

言ってしまった後で「しまった」と思っても、今さらどうしようもない。
肩を落とす名前を、リゾットは誤魔化すわけでもなくただ諭す。


「何もしない。そんなに脅えるな」


何も出来ないと言った方が正しい。
何を話しても上の空になってしまうほど怯える名前に、さらに追い詰めるような真似はリゾットには出来なかった。



「それより、何か飲むか?」

せめて笑う名前と過ごしたい。
飯の味も覚えていられないような気まずい空気は、もう沢山だ。
気を取り直して冷蔵庫を開け、グラスを片手に飲み物を漁って名前に声をかける。
相変わらず落ち込んだまま何も答えない名前に、適当に飲み物をチョイスした。


(追い詰めないようにしていたつもりが、さっきのは失言だったか…)



動揺を悟られないようにグラスを差し出した手に、不意に名前の指が触れた。


「!!!!!」


ーパリーン


耳をつんざくような音がして、手を離れたグラスが床で弾けた。

緊張だか不安だか分からない…。
何にせよいつもは温かい名前の手が、今日は恐ろしく冷くなっていた。
それだけの事に、酷く動揺させられた。

「すまん」


頭が真っ白になり、身体中の血が逆流する。


(どこで間違えた?)

(いつ恐がらせた?)


必死に平静を繕い、割れたグラスを素早く拾い集めた。
いくら考えても、名前の手が冷たい理由には行き着かない。


「…ケガしてないか?」


本来なら、グラスを拾い集めるより先に声をかけるべきだった。
そんな簡単な事も思い付かず、自分がいかに動転しているか思い知らされて苦い気分になる。

名前は名前で、慌てて引っ込めた手を握ったまま動かず、険しい視線は虚空をさ迷う。



「名前?どこか痛かったか?」


再び声をかけると、名前は勢い良くリゾットに飛び付いた。

反射的に仰け反ったリゾットにぎゅうとしがみつき、何度も「ごめんなさい」と繰り返す名前は涙声だった。


「もう嫌になった?」


―そんな訳がない。


それだけは分かるのに、名前が何を言わんとしているのか分からず狼狽えた。

「泊まりに行こう」と言った事を言っているとしたら、それはそんなに悪い事だろうか。


―オレは、名前が笑っていれば良いのに。

小さく震えながらしがみつく名前の頭を、リゾットはそっと撫でた。


「名前が深い意味を持たずに誘ったのは分かってたんだ。だから気にするな」

髪から肩へと手を滑らし、名前をゆっくりと自分から離す。
「何もしない」と言った以上、リゾットは本当に手を出さないつもりだったし、それで良いと思っていた。

しかし、涙目で…しかも上目遣いに見られれば、悲しい男の性が頭をもたげると言うもの。
反射的に目を反らしてしまうと、ポタリと名前の頬に涙が伝った。



「おい、マジに何もしないから…泣くな。な?」


そのリゾットの言葉に、名前は静かに首を振った。


「わたし…残念だったよ

リゾットが…何もしないって言って、残念だった…
自分勝手で…ごめんなさい。気を使ってくれてるの…気づけなくてごめんなさい」


「名前、何言って…」


混乱して喉が引きつり、声が上手く出せない。
名前を抱き締めるべきなのか、涙を拭うべきなのか…。そんな簡単な事すら考えられなくなっていた。



「私…リゾットとならどうなっても良いのに…」


名前が怯えているとばかり思っていたリゾットは、その言葉に瞠目した。
衝動的に名前を抱き抱え、ベッドへとその身体を押し倒す。


「……意味分かってるのか?」

涙を乱暴に拭ってリゾットを見つめる名前は、口を引き結んで真っ直ぐ視線を返す。


「分かってるよ

最初から嫌だったんじゃないよ。
どうすれば良いか、分からなかっただけ……。
リゾットの事、好きだから。私だって、リゾットの全部ほし」

その言葉の続きは、リゾットが呼吸ごと飲み込んだ。




「んっ…」


塞がれた唇から、熱い息が洩れる。
さっきまでとは全く違うギラギラしたリゾットの視線に射抜かれて、名前は肌がぞくりと粟立つのを感じた。
ペロリと唇を舐めて離れ、頭の芯が痺れる。


「名前…」

ほぅと息を吐き出すように名前を呼ばれ、切なくなってリゾットを両手で抱き締めるとシャンプーの良い香りが鼻を擽る。



「リゾット、好き…大好き」



以前は言いたくても言えなかった言葉が、今は言える。
その喜びに身体が震え、リゾットは打ち震える名前を抱き締めた。
欲求や切なさが入り乱れて沸き起こり、それに引き起こされる目眩に目を閉じる。




愛しい。
どうしようもない程に、名前が愛しい。


切ない程の気持ちと、忠誠の意を込めて名前の指にキスをした。


「名前…愛してる」


胸が押し潰されそうなほどに切ない想いをそっと名前の耳に落とすと、言葉と共に涙が零れそうになった。















「名前…」
「んー?」

シーツに潜り込んでぐったりと横たわる名前の髪をすいてやると、彼女は幸せそうに目を細めた。


―幸福。


今を言葉で表現するなら、これが一番しっくりくる。
平穏なんて無縁だったリゾットの生活に、幸福な時間が降り注ぐ。



「リゾット?」


抱きしめられたままシーツから頭だけ出した名前は、まじまじとリゾットを覗き込む。


「何だ」

そう言うリゾットはどこをどう見てもとても元暗殺チームのリーダーとは思えない、穏やかな笑顔を湛えていた。
伝わってくる規則正しい心音と温かな体温に、名前は日だまりに居るような心地好さを感じて微笑んだ。


「リゾット…私、幸せ」



リゾットはフッと笑っていつものように「そうか」と答える。

想いが繋がって尚「もっと」と互いを求めて身体を繋いだ二人は、けれど今の時間が一番幸せだと感じていた。

何でもない、ただ一緒にいるだけの時間。
寄り添い、見つめ合って笑い合い、そっと触れるだけのキスをするその時間。


「リゾット…」
「ん?」


「……何でもない」

「そうか」


リゾットは腕の中の愛しい重みを感じながら、穏やかな気持ちで名前と共に眠りについた。


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