スタスタと歩くリゾットを、彼よりコンパスの小さな名前は小走りで追いかける。


「リゾット」


何度呼んでも振り返らないリゾットに、名前はあんなに楽しかった気持ちが萎んでいくのを感じた。


「飯にしよう」

やっとリゾットが口を開いた時には、既に日が傾きかけていた。
リゾットは小さな店を選んで入り、メニューから適当にいつくか注文をする。

テーブルに料理が運ばれてくるまで、二人は一言も喋らなかった。






「リゾット…任務って何?」

出された料理に手をつけず、名前は悲しげに言葉を紡ぐ。


「名前、お前を解放する。今まで悪かったな」


リゾットの言葉に、名前は(あぁ、やっぱり)と心の中で呟いた。
そうなんだろうと、覚悟はしていた。
けれど、イメージをするのと実際に言われるとでは、雲泥の差だった。
思考が止まり、言葉が鉛のように冷たく重たくのし掛かる。


「分かった。

…リゾット、最後に一つだけワガママを言ってもいい?」


すんなり納得する様子に驚いたリゾットは、名前の言葉に険しい顔をした。


「最後だから、そんな恐い顔しないで?
それが私のお願い」


そう言って笑う名前に、リゾットはハッと目を見張った。
リゾットは気づいたのだ、名前がこの日を既に覚悟していた事に。
そして、その上で名前はリゾットが辛そうにするのが嫌だと言っている事に。
守らなければと思った少女は、リゾットが考えるよりずっと強く優しかった。



「…すまない」

「あーもう、謝るのもダメ!」

「すま…むっ……」


反射的に謝りかけて口をつぐむリゾットに、名前は声を上げて笑った。

ようやく穏やかさを取り戻したテーブルで、二人はやっと食事に手をつけた。




「美味しい!!リゾット、これも食べてみて!」

「あぁ。
おいおい、慌てて喉に詰めるなよ」


美味しいおいしいと喜ぶ名前に、リゾットは水を差し出す。


「夜は長い。ゆっくり食え」


リゾットの言葉は、暗に朝が別れの時だと伝える。
名前はそれに気づいたけれど、ただ「うん」と笑った。
「淋しい」とか「行かないで」と泣けるほど、名前はねだり上手じゃなかった。




「ご馳走さま」

リゾットが選んだ店の料理は、どれもこれも本当に美味しかった。
名前がトイレに立った間に会計は済まされていて、席に戻ったら「出よう」とリゾットに手を差し出された。
今度は無理矢理でないリードに、名前は少し照れてはにかむ。



夜の街は、まだまだ眠らないと言うようにどことなく賑わいを見せる。
酔っ払った人達が陽気に歌うのを、名前は楽しそうに見つめながら歩いた。


「寒…夜なのにみんな楽しそう」

「今日は少し冷えるな」

リゾットがブルッと震える自分より細い肩を引き寄せると、名前は耳まで赤くなった。


出来るなら…許されるなら、名前を閉じ込めてしまいたい。イルーゾォの能力は、それを容易く実現させられるだろう。
リゾットは、今日何度ともなくそんな事を考えている自分を鼻で笑った。


(暗殺チームのリーダーが、何てザマだ…)


名前はリゾットが率いるチームを、暗殺チームだと知らない。
知らないはずだ。

そんな彼女が、真実を知ったらどうなるだろう。
リゾットは今まで封印していた自分の心が、信じられないくらいに臆病だった事に自嘲の笑みを浮かべた。



見晴らしの良い高台にあるホテルに入って、受付でキーを受け取った。

「どうせなら今まで経験したことがないくらい贅沢をさせてやろう」とメンバーで決めて、ホルマジオとプロシュートが選んだ。



「リゾット」


リゾットが先立って部屋に入るなり、名前はリゾットを呼んだ。
その声に振り返ろうとすると、背中に小さな衝撃が走ってリゾットは動くのを止めた。
後ろから回された自分の手より小さなそれが、リゾットの服を固く握り締める。


「……」

謝るなと言われたのに、謝罪の言葉しか浮かばないリゾットは黙って自分の手を重ねた。
笑って強がっていても、不安や緊張はやはりあるのだろう。名前の手は冷たかった。

「…リゾットの手、温かい…」

「そうか」


背中越しに名前が頷くのを感じる。
泣けばいいのに…リゾットはそう思った。
リゾットが居場所を与えて、散々甘やかせて居場所を奪うのだから泣いて責めればいいのに。
そうすれば、リゾットもスッキリするだろう。
今はひたすら、泣かない名前が痛々しい。
泣きわめかれるよりも黙って耐える名前の姿の方が、リゾットの胸を深く抉った。




「…リゾット」

「何だ…」

「何でもない」と呟いた名前は、声には出さずにリゾットへの気持ちを口にする。

ー好き。リゾットが好き。

自覚したばかりの感情は、自覚してしまったが為に膨れ上がって抑えられない。
けれど、今はそれを口に出来ないのも分かってる。
私には、やらなければならない事がある。名前はそっと深呼吸をして、リゾットの服から手をほどいた。そして窓へと駆け寄り、笑顔を作って振り返る。


「スっゴい眺め!」

街に灯る明かりが、夜の闇をキラキラと照らす。
それはさながら、闇に光る宝石のようだった。
リゾットは頷いて自らも窓辺へ近づいて、その景色を見下ろした。


「綺麗だな…」


目を細めて景色を眺めるリゾットに、名前はそっと微笑んだ。


「いつか、またここに来たいな」



名前の言う『いつか』に自分が居ないのかと思うと、リゾットの心に重く影を落とす。
名前が誰のものにもならなければいいなどという願いは、酷く傲慢で自分勝手だ。
頭で分かっていても、心はそれを拒絶する。

こんなに荒れた気持ちになるならば、二人にならなければ良かったとまで思った。



『リーダーに任せる』

プロシュートがそう言って、他のメンバーは頷いた。
ボスの目に止まらない様に、名前を送り出すのは少人数にしようと提案した時の事だった。

からかわれているなら断っただろうが、全員が真剣な眼差しでリゾットを見ていた。


メンバーの誰もが、リゾットの気持ちにも名前の気持ちにも気付いていた。
当人達だけが、いつまでも互いのそれに気づいていない事も気づいていた。

そして、もう言える状況でなくなってしまったことにも。



「リゾット…朝まではリゾットもここに居るんだよね?」

名前が夜の闇を見下ろしたままポツリと言うのを、リゾットは名前を抱きしめたい衝動に耐えて「あぁ」と答えた。









それからソファーに腰かけた二人は、とりとめのない下らない話をした。

昨日の洗濯物が急な雨に降られて少し濡れただとか、今日のテレビでアナウンサーがどうだったとか、そんな話ばかりを選んだ。

いつもは途中からウトウトし出す名前も、今日は眠らずに話を続ける。



「寝なくて大丈夫か?」


リゾットが心配してそう言っても、名前は「眠くない」と首を振る。


「そうか、うちのとは違って、ふかふかなベッドらしいんだがな」

リゾットがわざとそう言って「残念だ」と肩を竦めると、名前はスクッと立ち上がってベッドにダイブした。
一番最初にプロシュートが「子どもみたいだった」と溢していたのを思い出してたリゾットは、それを見て堪え切れずに笑った。


「わっ!ふっかふか!!リゾットもおいでよ!」


子どものようにはしゃぐ名前に「オレはシャワーを浴びる」と告げて、着替えを手に名前に背を向けた。
後ろから聞こえた名前の返事は、既に眠気と戦っているようだった。


「寝てるだろうな」とリゾットが予想した通り、リゾットが部屋に戻った時には名前は眠っていた。

ホルマジオとプロシュートの策略だろう。
部屋にはキングサイズのダブルベッドしかなかったので、リゾットとしては寝ていてくれた方がありがたい。


そっと名前の横に潜り込んだリゾットは、閉じられた名前の瞼に触れた。

ピクリと痙攣するように動いた瞼から、指をそろそろと重力に従って下へと這わす。

余程疲れていたのか身動ぎ一つしない名前の唇に、指をそっと乗せた。
規則的に繰り返される呼吸が、リゾットの指をくすぐる。


ー愛しい。


まさかこんな気持ちにさせられるとは思わなかった。
自分の中にそんな感情があるとも思っていなかった。


けれど、名前への気持ちはたった三文字の、その言葉に尽きる。

自分の中の、暗く重たい闇をただ優しく照らす名前が誰より愛しかった。

それでも、リゾットは無情にも訪れる朝にはこの部屋を名前を残して出る。
闇を照らす痛みを抱えて、チームへと帰ることを決めていた。
何度もさよならを心で唱えながら、リゾットは眠る名前を見つめていた。








小鳥の囀ずる声だけが響く早朝。
リゾットはベッドを抜け出して荷造りをした。


「リゾット…」

予想だにしなかった声に、リゾットは慌てて振り返る。


「ありがとう。
楽しかった。
すごく幸せだった…本当だよ?」


ベッドで横になったまま、名前はリゾットへ繰り返し繰り返し感謝の言葉を告げる。
その声は今にも泣きそうだった。

「皆にも、グラッツェって…伝えて、くれる?」

「っ…名前!!」

リゾットは沸き上がる衝動を抑えられず、ベッドへ駆け寄って名前を抱きしめた。

「名前、すまない…。楽しかったのはオレらだ。お前を直ぐに解放出来なかったのは…オレなんだ…」

「……リゾット、キスして?」


名前の言葉に、カッと頭の芯が甘く痺れる。
きつく名前を抱きしめたまま噛み付くようにキスをした。
何度も何度も角度を変えてキスをして、名残惜しそうにゆっくりと離れた二人の目には涙が滲んでいた。


リゾットは黙ったまま後ずさるように名前から離れ、苦しみに顔を歪ませてやっとの思いで言葉を押し出すと、素早く扉を開けて出て行ってしまった。


名前はぼんやりとリゾットが出ていった扉を眺め、彼が残した言葉を何度も頭で反芻していた。

『さようなら』




それはあまりにも悲しい響きで、名前は久しぶりに頬を悲しみの涙で濡らした。


「私は…みんなとずっと一緒だよ」

名前の呟きは、一人には広すぎる部屋にじんわり広がって消えた。


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