―初めてリゾットが名前を連れて来た時の事を、今でもはっきり覚えている。

プロシュートはジリジリと燃える煙草の灰が長くなってきた事に気がつき、長く綺麗な人差し指と中指で挟んで灰皿にトンとそれを落とした。
短くなった煙草を再びくわえたプロシュートはソファーに横になったまま窓から空を仰ぐ。今日は一際天気がよく空も高い。きっと名前は洗濯物を干しながら歌でも歌っているのだろう。


「兄貴ぃ、名前が呼んでるぜ」

「んー・・・なんだって?」


よっこらせと立ち上がったプロシュートは、不自然な体勢のまま固まっていた腰をさすって部屋を出た。







―名前が連れて来られた日の事を覚えている。

いま思えば、あれは名前が無意識下で発動していたスタンドの能力の、その断片のせいだったのかもしれない。
名前を巡って色々な意見が出された。
イルーゾォの能力でどうにか鏡の中に閉じ込めておけないか。あるいは殺してしまうわけにはいかないのか。
そのどれもをリゾットが拒んだ時、俺達の中では様々な憶測が流れ始めた。

『あの冷血男が女を殺さずに匿うなんて、何かがあるに違いない』

『まさか惚れたとか?』

挙句の果てには家事を手伝わせるという、徹底した甘やかしっぷり。
誰も何も言わないはずはなかった。
その反対意見を取り押さえる側に回ることになるとは、思う由もなかったのだが・・・。


『名前と言うらしい』

子どもの様な、幼い顔をした女だった。いや、この時には“少女”だと思った。
メローネがリゾットをこそこそと冷やかすのを“仕方ない”と見過ごして、監視役に回された時には心底面倒だと思った。
やせ細り、生きているのか疑わしくなるほどに弱りきった身体を丸め、名前は窓際のソファーに座って震えていた。
恐いのかと思ったが、どうやら寒かったようだ。
寒さを感じるような季節ではなかったから、彼女がいかに弱っていたかが窺い知れる。
長い沈黙。何か妙な動きをすれば殺してやろうと思ったのだが、身じろぎ一つすることなくただ呼吸をしていた。
ペッシと三人でのその空間の中で、一つの違和感を感じた。


“眠くなりそうだ”


断っておくが、今までリゾットのような成功率を誇ってきたわけではないが、仕事中に眠くなった事なんか一度もない。それにも関わらず、名前と共にする空間の中で、俺は感じたことのない安らぎを感じていた。
腹さえ空いていなければ、きっとうとうとまどろんでしまっていただろう。
そんな奇妙な感覚の中で、俺の勘は名前を敵ではないと判断した。
とは言え、それは単なる勘。ホルマジオが同意してくれなければ、反対意見を押し込むことはしなかっただろう。


『根拠がない。危険に身を晒すより、早く殺してしまおうよ』

ソルベとジェラートはその一点張りだった。
この二人が最後の砦だと思い続けていたのに、名前の監視についた日にはあっさり陥落されていたのだから拍子抜けした。同時に名前の力に関する疑問も。
そして何より、自分達の中に起きつつある変化にも。



『名前の能力?』

ホルマジオは俺の顔を見て、あからさまに怪訝な顔をした。
俺の言葉を疑うように吟味し、ふざけているわけではない事を確認して『しらねーよ』と答えた。


『ホルマジオはどうして名前を信じることにしたんだ?』

『・・・簡単なことだよ――――』
















「名前、呼んだか?」

「うん、とってもおいしそうなドルチェを買ってきたから、お茶にしようと思って!!一緒にどう??」


プロシュートは名前が得意げに笑って掲げた、近所のパスティチェリアの箱を見て小さく吹き出した。
折角の休暇を、旦那になったリゾットと二人ではなく、わざわざ仲間と過ごすなんて相当な物好きだ。



「オーケー、我らがプリンチペッサ。それでは私めがカフェラッテを作らせていただきましょう」

「わーい、お願いします!プロシュートが作るカフェラッテは世界一だからね」
「あぁその通りだ、俺にも頼む」

「光栄ですって、テメー・・・いつから居たんだ」


ヌッと名前の背後に現れ、振り返る暇もなく名前を後ろから抱きしめるリゾットは驚く名前にチュッとキスを落として小さく笑った。
いちいち見せ付けてくるのは、わざとだ。名前が自分の女だと見せ付けて、周りを牽制しているのだろう。相変わらず名前が絡むと心の狭い奴だ。


「ずっと居たが?」

「テメーの分まで作る気はない。アンタはもう少し俺達に感謝すべきだ。労うべきだ!!」


フンとそっぽ向いたプロシュートは腕まくりをしながらキッチンに向かう。
仕事のために覚えたのは、何も暗殺だけではない。
潜入するために覚えたキッチン仕事、コーヒーの旨い淹れ方。体術に・・・夜の営みに関する技。そのどれもが重苦しい響きを持ってして自分の中に根付いていたのに、名前はその事を何も干渉しない。
自分達が闇の中に生きるものだと勝手に思い込んで作り上げていた壁は、名前の前では何の効果もなく、まるで全てが砂上の楼閣。
今まで汚してきた手を何のためらいもなく掴み、「過去は過去」と笑うような名前に、チームの誰もが少なからず救われてきた。


「私ももちろん手伝うから、上手な淹れ方教えてくれる?」

「si、オメーに頼まれたんじゃあ仕方ない」


エスコートするようにさりげなく腰に手を回し、名前を伴ってキッチンへと向かう。
後ろでリゾットが何かを言っているのを無視して並んでキッチンに立つと、「なんか久しぶりだね」と名前が呟いた。


「何がだ?」

「プロシュートとこうしてキッチンに立つこと」

「寂しくなったか?」

「そういうわけじゃないんだけど」


プロシュートのからかうような物言いに名前は眉を寄せて笑い、エスプレッソマシンに豆をセッティングしていく。始めこそもたついていたが、今ではずいぶん手馴れた様子で手際よく作業を進めている。


「みんなで居ることと、リゾットと二人で居るのは違うでしょう?」

「そりゃそうだ」

「皆とも、こうして喋ったり美味しいものを食べたりして楽しい時間を共有したいの。変?」

「いや・・・」


プロシュートはミルクをスチーマーで温め、名前が淹れたエスプレッソにゆっくり注ぐ。香りからして、もう名前には何も教える事がないほどに上達している。きっとプロシュートに頼んだのは、ここしばらくタイミングが合わずに顔を合わせらせずに居たからだろう。


「変じゃあない。お前はアイツにやるのが勿体無いくらいいい女だ。いつでも会いに来い」

「グラッツェ、プロシュートったら上手なんだから」


上手になったのは名前の方だ。ずいぶん口説き文句のかわし方が上手くなっている。
いったい誰にそんなに鍛えられたんだかと鼻で笑い、淹れたばかりのカフェラッテと、自分用のエスプレッソ。あと、仕方なく淹れたリゾットのエスプレッソを持ってダイニングへと戻ると、いつの間にかメンバーが勢ぞろいしていた。
暇人め、と悪態をついてエスプレッソを作り足し、いつぞやのように全員が揃って賑々しいシエスタが始まる。


「名前、エスプレッソ淹れるの上手くなったな」

「え!?本当??グラツィエ!!!皆が練習に付き合ってくれるからだよ」

「いや、これは店が出来るんじゃあないか?」


最初こそ名前を生かしたまま軟禁する事を嫌がっていたソルベとジェラートも、今では名前の最も親しい仲間ポジションをモノにしている。いや、両親ポジションだろうか・・・。


「カフェー!?それはどうだろう・・・」

「駄目だ。そんな事をしたら名前に悪い虫が付きかねん」

「リゾットが一番“悪い虫”なんじゃあないの?」

「お?イルーゾォ。言うようになったなぁ!!!」


ムッと目を細めるリゾットにも、イルーゾォは顔色一つ変えずにいる。段々たくましく図太くなっている気がするが、メローネが爆笑しているのだから、そう見えているのはプロシュートだけではないのだろう。


「いや、俺も名前はもっと危機感持つべきだと思うぜ。こないだもちゃらちゃらした頭軽そうな奴らをご丁寧に道案内してやがってよぉ・・・」

「そうか。モンタージュでも作るか」

「おいおい、一々殺してたら男がイタリアから消えちまうぜ」


リゾットの性質の悪い冗談に(冗談だと信じたい)ホルマジオが呆れたように肩を竦めた。しかし、それは暗に“名前に声をかけないイタリアーノはいない”と言っているようなもんだ。
リゾットが眉を寄せて空気を淀ませ、それに気付いたペッシが慌てて「名前、このドルチェすごく旨いよ」と場を和ませる。
ペッシのギャングとしての成長はまずまずなのだが、どうやら空気を読む能力だけは異常に鍛えられたようだ。涙ぐましい・・・。


「そういやぁ・・・」


プロシュートがそう話を切り出し、振り向いた面々をぐるりと見渡して意地悪く口の端を持ち上げた。



「“賭け”は俺とホルマジオの勝ちだな。異論はあるめーよ」


一同がキョトンとしたまま目を瞬かせ、何の賭けか思い出す時間をたっぷり要して「今更そんな賭けは無効だぁぁぁああ!!!!」と怒涛の猛抗議が家を揺らした。





『そりゃお前、簡単なことだよ。俺達に幸福という改革が起きるか“賭けて”みたくなったんだよ』

『意外とメルヘンな夢を持ってんだな』

『ばーか、平凡なって言えよ。あのリゾットが連れて来た女が、俺達をどこまで変えてしまうか・・・暇つぶしにはなりそうな賭けだろう?』

『いいな、乗った。俺は改革が起きる方に賭けるぜ』

『あ?それじゃあ賭けになんねーよ』

『リゾット以外の全員巻き込めば、大金が動く賭けになるぜ』

『そりゃあ良い、勝って祝杯でもあげようぜ』










―名前が来た日は、俺達のメルヘンな・・・平凡な夢が始まった日だった。


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