「名前」

洗濯物を取り込む名前は、不意に呼ばれて辺りを見渡した。
木の幹にもたれるように立っていたプロシュートが、名前を拱く。


「これ、畳んでてくれる?」

「うん、分かった」


乾いた衣類を少年に預けて、名前はプロシュートへと駆け寄った。
天気の良い日の事だった。
明るく刺す日差しの木の下で、プロシュートは木漏れ日を浴びて自前のブロンドがキラキラ眩しい。
名前が駆け寄るのを確認したプロシュートは、咥えていたタバコを携帯灰皿にねじ込んだ。


「なに?プロシュート」

プロシュートは少年が家に入るのを見届け、名前に視線を移す。
どうやら楽しい話ではないらしい。
名前は表情を曇らせて、プロシュートが話を切り出すのを待った。


「名前、本当にこのままで良いのか?」

「……何が?」


笑って誤魔化そうとして、声が震えてしまった。
その動揺に気づかないプロシュートではない。
名前に「茶化すな」と告げるプロシュートは、切なげに眉を寄せていた。
まるで自分のことのように、名前とリゾットの事を案じている彼の、優しさの現われだった。


「本当に、リゾットが戻らなくても良いのかよ」

「…良いよ。そう、思ってる。…それが、もしかしたらリゾットには、その方が幸せかもって…思ってる」

「本気で言ってるのか?それで、お前はそれで良いのか?」


分からない。
何が正しくて、何が幸せで、どうするべきなのか。
分かるのは、少年は今をとても幸せに生きている事だけ。
愛する人は、ここには居ないという事だけ。


「アイツが、どんどん大人になって、お前がよく知るリゾットになっていくのを見ていて、お前は平気なのか?」

「…」

「アイツが、他の女に惚れないとも限らないんだぜ!?なんたって、お前と乗り越えた苦労も、全部消されちまってるんだからな」

「分かってるよ」


分かっている。
この先に、絶対など無い。
想いを繋ぎとめるものは何も無い。
そういうことなのだ。
思い出を失うということは。
積み上げてきた想いも、記憶も、築きあげてきた絆も、全てを失った。
リセットされた彼が、別人に恋をしたっておかしくなんか無い。
俯く名前に、プロシュートは大きなため息をついた。
心配してくれる彼を落胆させたのかと慌てて顔を上げた名前の首元を、プロシュートが勢い良く掴みあげた。
力強くねじあげられ、息が一瞬詰まる。


「名前、お前の気持ちはそんなもんなのか?」

「な…」

「お前の、リゾットへの気持ちはそんなもんなのかよ!?」


プロシュートに怒鳴られるのは初めてだった。
今回は怒鳴られてばかりだ。
この前はジェラートに怒鳴られた。
同じように襟元を掴みあげられた。
ジェラートのようにがくがくと揺さぶらない分、プロシュートの怒った顔がはっきり見える。


「だって…リゾットは苦しんでたんだよ!?
自分の罪に苦しんで、少しずつ自分を押し殺すようになって…十分苦しんだじゃない!!!思い出させるなんて…酷過ぎる」


そうだ。
リゾットはいつも苦しんでいた。
忘れるなんてことは選択せず、自分の犯している罪に真っ直ぐ向き合っていた。
視線を逸らさず、息絶えるターゲットを見つめ、自分が殺した人間を惜しむ人がいることも、自分を恨む人間がいることも理解していた。
それでも、そうせずには生きていけない自分のことも、十分理解していた。



「オレが言ってんのはそんなことじゃあないぜ、名前。
お前はアイツを分かっていない。

オレ達のことも、自分のことも。
だからお前は自分を軽んじる。いざとなったら自分の命を懸ければ良いと思ってる」


プロシュートの腕を掴んでいた名前の手が、力なくだらりと降ろされて、プロシュートは両手を離した。
全身から力が抜けたように、ただ棒立ちになった名前の頬にプロシュートの掌が触れた。
彼がペッシによくそうするようにこつんと額を当て、名前の伏せられた目を見つめて諭すように言葉を紡ぐ。



「名前、オレも、リゾットも他の奴らも。オレ達はみんなお前に救われたと思っている。命の話じゃあない。心の問題だ。

組織の最も汚い部分を担うオレ達は、心を病んでた。どっかしら自分の命に投げやりだった」


事実、いつ死んでも良いと思っていた。
希薄な人間関係しか築けず、表面だけの付き合い。
仲間内ですら仲が良いとは到底言えず、互いをゴミ溜めに捨てられた同類程度に思っていた。


「それがある日から変化した。
リゾットがお前を拾ってきた、あの日から…。
汚い仕事ばかりをこなすオレ達を、お前は家族や親しい友人のように扱った。
お前には大したことではなかっただろうが、オレ達には忘れかけていた日常と平凡さを思い出すきっかけになる、重要な事だった」


覚えているだろうか。
名前が最初にアジトに連れられてきた時のこと。
空腹で弱りきった名前は、今にも死にそうになっていた。
プロシュートとペッシが食べ物を与えると、極限まですきっ腹だった名前は勢い良く詰め込んだ食べ物を全部もどした。
おかげさまで、プロシュートはその後始末をペッシとしたあと、名前の着替えと下着を買いに行かされるはめになったのだ。
買出しに行ったときの店員の目が痛くて、暗殺任務よりも疲れたもんだ。


「お前は最初から、オレ達ばかり気にかけて…最初から謝りっぱなしだったよな」


買い出した物を渡した時も、粥を作って食べさせた時も、名前はずっと弱りきった体に鞭打つように何度も何度も謝っていた。
彼女の生きていた環境が劣悪だったことも、それを見れば火を見るよりも明らかだった。


「オレ達はあれから、色んな事を思い出す事ができた。
仲間の結束も強くなった。
オレ達が投げやりに捨ててしまった平凡さを、お前がオレ達に持ってきてくれたんだ。普通の幸せを、思い出させたのはお前だった」


仲間がいる幸せ。
苦しみながらも、生きている幸せ。
そんな当たり前すぎて見えなくなっていた幸せを、名前が思い出させてくれた。
もちろん、彼女にそんなつもりが無いことは分かっている。
名前の睫毛が濡れるのを、プロシュートは見ていた。
自分達よりもずっと小さな体で、彼女はすぐに全てを抱え込む。
苦しみも、悲しみも。それ以外のことなら誰とでも共有してしまうくせに、名前はいつも負の感情を自分の中に押し込める。



「名前、オレ達はお前を守りたい」

「…っ、…」

「リゾットも、苦しみから逃れる事を望んだりしない。
全てを抱えたまま、それを知って尚普通に接してくれるお前に救われて、十分すぎるほど幸せだった。
お前が苦しむ選択を、アイツなら絶対にさせたくないと思うはずだ」


ぼろぼろと涙をこぼす名前を、プロシュートはそっと抱きしめた。
名前の考えが分からないわけではない。
傷付けようと思ってそんなことを言っているわけでもない。
これは、決めたことだった。
名前を守る最善の策として、皆で決めたことだった。



「諦めるな。名前、お前が幸せになることも諦めないでくれ」


踵を返してプロシュートが立ち去ると、そこには名前の嗚咽だけが響いていた。


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