「ネエロ行くよー」

店の商品を吟味していたリゾット少年は名前の声に慌てて振り返った。


「待って、お姉ちゃん」


やっぱりこの呼び方は恥ずかしい。
耳まで赤くなるのを感じながら、リゾットは名前のところへと急いで持っていたお菓子をかごの中に投げ込んだ。


「チョコレート?」

「うん」


少年が頷き、名前が笑う。
まずはどうしてこんな事になったのか。なぜ二人がお互いの呼び名を変えたのか。
そこのところを説明しなくてはならない。
時は昨日の夕食時まで遡る。


『その呼び方じゃあ危ないんじゃないか?』


ホルマジオの意見に、名前は動きを止めて振り返った。
リゾット少年が溢してしまったスープをふき取っていた手を止め、名前はホルマジオに『どの呼び方?』と問いかける。


『だってよぉ、リゾットはターゲットにされているはずだろう?他人にリゾットの居場所を知られないように、呼び方は変えておく必要があるんじゃないか?』

『なるほどなー!!確かに、リゾットが子どもの姿になってるなんて知られねーに越したことはない』


ジェラートが手を打って同意し、名前はそんなこと思いつきもしなかった様子で感心して『成る程』と呟く。
確かに、女がどこかに連絡を入れている様子を目撃したリゾット少年の話から考えても、女からの連絡が途絶えた今、女と少年の消息を追う者が現れることは想像に容易い。
となれば、不用意に名前を呼ぶのは確かに危険だ。


『じゃあ何て呼ぼうか』

『リゾットはネエロの名はあんまり知られてねーはずだから、それで良いんじゃあないか?』


ソルベの案に、名前が素直に頷く。


『じゃあ、突然現れたネエロ少年が、名前を何て呼ぶかだな』


それはなんと呼んでも何も問題がないのではないだろうか。
名前が首を傾げて口を開いたタイミングで、元気良く挙手する男が居た。


『お姉ちゃんが良い!!ディ・モールト、ディ・モールト良いじゃないか!!ネエロはリゾットの親戚ってことにすれば、お姉ちゃんって呼ぶのは実に自然だろう!?』


赤い顔で鼻を膨らませたメローネが興奮気味に話すのを、少年は実に冷めた目で見ていた。
やっぱりこのアイパッチ男は変態臭い。
誰も賛成しないだろうと高をくくり、少年は名前から台布巾を受け取ってテーブルを拭いた。
そもそもスープをこぼしたのだって、酔っ払ったプロシュートがペッシもろともこけそうになってぶつかったからだ。
全く、酔っ払いというやつは。
ムッとしながら台を拭いていたリゾット少年は、次の瞬間に布巾を手に固まった。


『それ良いね!!!』


嘘だと思いたいが、名前は『どうしよう!ちょっと兄弟が出来たみたいで嬉しい!』と照れくさそうに笑っている。
照れる名前と、冷やかす男達。メローネは両手を叩いて大喜びだ。
今更『嫌だ!!』なんて主張すれば、間違いなく白けるだろう。
目から鱗だとはしゃぐ名前がメローネに同意したことにより、そのリゾットだけが恥ずかしい仕様の作戦が採用されることになった。
思い出すだけで、最初に止めなかった自分に殺意が芽生えた。



「ネエロ、ちょっとお爺ちゃん呼んできてくれる?」


リゾット少年は頷き、“お爺ちゃん”を呼びに走った。
店の前でタバコを吸う老人に駆け寄り、「ジジィ」と声をかける。
金髪碧眼の、「若いときは素敵だったんでしょうね」と言われそうな容姿の老人が振り返り、リゾット少年を鬼のような形相で睨みつける。


「誰がジジィだ。テメーにジジィ呼ばわりされる筋合いはない!!」


確かにプロシュートなのだが、どう見ても今の彼は老人である。
最初に見たときは非常に驚いたが、「最近のギャングはこれくらい朝飯前」だと言われたので、十数年で時代は目まぐるしく変化したんだ。と妙に納得もした。
信じられない科学の進歩なのだろう。


「姉さんが呼んでる」

「ふん、“お姉ちゃん”って呼ぶんじゃないのか?」

「うるさい。どっちも同じだろ」

「残念だ。面白いのに」


畜生。
目を吊り上げて睨むリゾットを笑い飛ばし、プロシュートは杖をついて名前のところへと向かう。
しかし、見た目もさることながら、本当に歩き方や仕草までが老人のようだ。
ひとしきり感心して「すごいな」と呟いた少年は、プッと噴出す声に振り返った。
特に笑う人影もこっちを見ている人も居ない。
何より肩の近くで声が聞こえた気がしたのだが、そんなことは肩のりサイズの妖精でも居ない限り有り得ない。
頭を軽く振って、少年はプロシュートを追いかけた。



「毎日十人分になると買出しが大変だね」

「明日はメローネかギアッチョに行かせようぜ」


二人の会話を、リゾットは少し寂しい気持ちで聞いていた。
自分にとっては十年後の、何もかもが新しい世界なのだ。出歩いて楽しくないはずはない。
少年はその瞬間、ふとした違和感に気が付いた。


(楽しい…?)


退屈な世界。
産み落とされ、押し付けられた世界で、たかが買い物を楽しんでいるというのか。
世界に対して…自分に対して冷え切っていたはずの自分の中の僅かな変化に、少年は思わず立ち止まった。
十数年後の世界。
怪我から目を覚ました時には変わらずに見えていた世界が、今はどことなく眩しく見える。



「リゾ…ネエロ?」

「おまえなぁ…。おい、ネエロ!さっさと来い!!」


思わず「リゾット」と呼びかけた事を笑って誤魔化す名前を見て、少年は俯いて二人に駆け寄った。


「ん?どうかしたのか??」

「…なんでもない」


黙ったまま俯く少年に首を傾げた二人は、仕方なく再び帰路を歩き始めた。
名前は少年の様子をチラチラ気にかけるが、顔を上げたリゾット少年はもうなんでもない顔をしていた。


「そうだ、チョコレート食べる?」


袋の中からごそごそと取り出した、筒状のチョコレートを少年に手渡して笑った。
そんな名前を見て、少年は受け取ったチョコレートのビニールを剥がすと、カラフルな丸いチョコレートを取り出して名前に差し出す。


「あげる」

「良いの?」


受け取ったチョコレートを嬉しげに頬張る名前を、少年は目を細めて見ていた。
“何故だか分からない”が、彼女はそのチョコレートを好きな気がした。そして、どうやら間違いではなかったらしい。
なんと言うか、そのチョコレートをねだったのは自分が食べたかったと言うよりも、彼女に食べさせたかった。
きっと喜ぶだろうという予感と共に、その喜ぶ顔を見たかった気がした。



「オレにも一つくれよ」

「ジジィは糖尿になっちゃあいけないからよしとけよ」

「ふん、いけすかねー奴。なんか妙にオレに突っかかるなぁ」


そう言いながらも、老人姿のプロシュートは実に楽しげに二人を眺めている。
その視線が気に食わない。
少年はチョコレートを一つ口に含み、口から鼻に抜けるようなカカオの甘い香りを堪能しながら、名前の柔らかな手を取って家を目指した。
自分の中の変化が何なのか、家の隣の木に登って景色を眺めながら考えようと思っていた。


「リゾットがもう一度名前に惚れたら…あいつの記憶と時間は戻るんだろうか…」


老人がポツリと呟く声は、二人には聞こえなかった。


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