「ここ、どこ…」
名前が微睡みから覚めると、見知らぬ部屋のベッドに横たわっていた。
起き上がろうと力を入れると、頭の中に鉛でも入っているんじゃないかと思う程の痛みと重さで再びベッドへ倒れ込んだ。
「頭痛い…」
グラグラ世界が揺れて、不安からシーツをギュッと握りしめる。
「起きたか」
不意に耳に届いた声に目を見張ると、部屋の入り口にリゾットが立っていた。
正確には、一つの部屋をメタリカで区切った…名前のスペースの入り口である。
それを思い出した名前は、ベッドから手を出してリゾットへ伸ばす。
「リゾット、頭痛い…」
寝起きで声が出ず、掠れた声で名前がリゾットを呼ぶ。
リゾットは少し考えて、何も言わないまま部屋を出た。
「あ…」
(どうしよう…)
何か気に障っただろうかと不安になる名前の目の前に、水が入ったグラスが差し出された。
「飲め」
普段から口数少ないリゾットが、感情の読めない目で名前を見る。
リゾットが怒っていない事を察した名前は、酷い頭痛を推して起き上がると冷たい水をコクコクと飲み干した。
「ありがとう」
幾分か楽になった名前の頭に、ふと疑問が浮かぶ。
(そう言えば、昨日はどうやって寝たんだっけ…)
名前は皆と楽しく夕飯を食べて、ワインを数杯飲んだ所までしか記憶にない事に気づいた。
と、リゾットが突然ベッド脇に腰掛けて名前の頬に手を添える。
他事を考えていた名前は、突然触れるリゾットの冷たい手に体を強ばらせた。
心臓が飛びはね、煩く鳴る。
「熱はないようだな」
「へ?」
状況が読み込めずに呆ける名前に、リゾットはため息を小さく吐いた。
「確か、前も空腹が限界の状態で食べ過ぎて吐いたな」
「前も」と言うフレーズに、名前は嫌な予感がしてリゾットが目を反らす。
「初めてであんだけ飲めば、普通に吐くだろうな」
「ごめんなさい!!」
自力でベッドに行った覚えもなければ、服を着替えた覚えもない名前はただ平謝りするしかない。
(…服も着替えた覚えが…ない……?)
名前は自分の血がサァッと引くのを感じた。
「私…服………」
何を言いたいのか察したリゾットが、ジッと名前を見て「見てないから安心しろ」とだけ告げる。
名前にはそれがまるで、死刑宣告のように絶望的な響きを持っているように聞こえた。
さっき確かに引いた血の気が、今度は勢いよく登って顔を火照らす。
「しかしお前を見てると…」
名前はゴクリと喉を鳴らす。
「まるで子守りでもしてる気分になってくるな」
フッと笑うリゾットに、名前は心で「適度な飲酒の学習」を誓った。
「二日酔いだって?」
ホルマジオがカラカラ笑うのを、名前は恨めしげに睨む。
「ホルマジオがどんどん勧めたくせに、何でホルマジオは平気なの?」
名前の言葉きホルマジオは「馴れだな」と言うのだから、名前はますますブスッと膨れた。
「これ、二日酔いに効くぜ」
イルーゾォが差し出した薬をありがたく頂戴して、名前は「よし!」と気合いを入れる。
「あ?何かすんのか?便所か?」
「仕事するんだよ」
当然のように答える名前に、ホルマジオとイルーゾォは信じられないと首を振る。
「あんなにべろんべろんに酔っぱらってた奴が、翌日に動き回れねーだろ」
ホルマジオの言葉に頷いたイルーゾォが続ける。
「今日は休んだら?」
なんて優しいギャング達なんだろう。
名前は苦笑いで返した。
「大丈夫!!ゆっくりやるし」
素早くエプロンを身につけた名前は、若干青い顔で箒を手に廊下に出て行ってしまった。
暗殺チームの目立たないようにという特性上、小さな建物を全員で借りて使っているので当然建物の全てを自分たちで清掃しなくてはならない。
そもそも住居用でない建物を無理矢理住まいにしている為に、まるで学生寮状態である。
それが誰一人として廊下まで掃除しようとしないので、溜まった埃はきっと暗殺チームの歴史と同じくらい長い間放置され、大きな塊へと成長してしまっていた。
「気になってたんだよね…」
そもそも家事全般をこなしていた身としては、これを黙認する事など到底出来ない。
綺麗好きでなくても、こんなに汚いのは辛いだろう。
腕捲りをして箒を握る手に力を込める。
「子守りなんて…絶対嫌」
リゾットがどんな気持ちでそれを言ったにしろ、今の自分は明らかにお荷物である。
せめて出来る事をしなければ。
名前が固く絞った雑巾を箒に引っ掛け、天井をせっせと掃いていると、ホルマジオは「仕方ない」と名前にマスクを差し出した。
「そんなのあったの?」
「頭から埃被りやがって…。病気になりそうだな。
早くマスクしろ」
素直に受け取った名前は、笑顔でお礼を言ってマスクを付ける。
ホルマジオとイルーゾォは各々でマスクを付けて、名前から雑巾や箒を受け取ると、記憶上初めての「共同スペースの掃除」を始めた。
歴史を重ねてきた汚い廊下の掃除には、三人がかりで二時間以上を費やした。
「……凄いな」
ホルマジオは目前の光景に、素直に舌を巻いていた。
くたくたになって座り込んだイルーゾォも、「こんな色の床だったのか」と驚きを隠せない。
大きなごみ袋を何個も積み上げ、綺麗になった廊下を眺めた名前は驚く2人の隣で満足気に笑った。
「うん、綺麗きれい!!」
「名前は何でそんなに元気なんだ」
灰色だった壁は、実は白かった。
名前がイルーゾォに頼んで買ってきてもらった洗剤で壁や床を磨き、「二日酔いなんて何のその」と働き続けた結果、暗殺チームの全員が初めて見るような綺麗な状態へと変化していた。
「イルーゾォがくれた薬が効いたんだよ!もう平気だもん」
「「疲れた…」」
綺麗になった廊下を眺めて勝ち誇る名前を、ホルマジオとイルーゾォはやはり子どもを見るような目で見ていた。
「無邪気だな」
それこそが名前を子どもの様に見せている原因だという事を、名前は知る由もない。
「働いたらお腹空いちゃった。何か作るね」
クルクルと表情を変えて忙しく働く名前は、自分達が暗殺者だと知ったらどんな顔をするのだろう。
ホルマジオとイルーゾォは名前が入っていった扉をしばらく黙ったまま見つめていた。
「あいつ、軟禁されてるの忘れてねーか?」
ホルマジオの言葉に「オレが忘れそうだ」とイルーゾォが返し、二人で顔を見合わせて「確かに」と笑った。
「早く入っておいでよ!!ホルマジオ、イルーゾォ!もうお腹ペコペコ!!」
名前が屈託なく笑い、「やっぱり忘れてるな」と二人は笑い返して立ち上がった。
名前と暮らして…。
それぞれが…
光の中に戻れるような幻想を見る。
ゆっくりと、ぬるま湯に浸かって抜け出せなくなるように。
それを誰も拒まない。