名前とメローネがバールを出て、一時間ほどした深夜0時。

コツコツとヒールの音を響かせて、バールに一人の女が入っていく。
長い髪を靡かせ、真っ赤なルージュを引いた女は、バーテンダーにチラリと視線を送り、赤くなるバーテンダーに「モスコミュールを」と短く告げた。

週末だったこともあり、俄かにざわついていた店内も、女に見とれて静まり返る。
長いコートは前を全開にして、タイトなワンピースから覗く長い脚は、黒いレースが上品にあしらわれたタイツを文句無しに着こなしている。
カウンターの椅子に腰掛けて座った女は、チラリと店内を一瞥し、脚を組んでタバコの火を付けた。
脚を組んだ事で覗くガーターに、店内の男が生唾を飲む。
いやらしすぎない絶妙な加減が、女ですら息をのむ。


「モスコミュールです」

「グラッツェ」

バーテンダーからグラスとコースターを受け取った女は、コースターに電話番号書いてあるのを見てバーテンダーを呼び止めた。


「これは何?」

「それは…その」

ナンパだとはすぐに分かったが、女は鋭い視線でバーテンダーを睨みつける。


「私を誘うなんて、百年早いわ。もっもと、犬の様に従うつもりなら考えてあげるけど?」

高飛車に言葉だが、それでも引き下がりたくなる魅力を、女は兼ね備えている。
薄く笑った女の唇が綺麗に歪むのを、そこにいる全員が息をのんで見た。
バーテンダーが新世界の扉を開けかけた時、女はタバコを灰皿に押し付けて消すと、「冗談よ」と笑い、来た時のようにヒールの音を響かせて出て行った。










「50点かな」

「嘘!?何でよ!!!」


バールと言うのは恐ろしい場所である。
カフェ等と異なって薄暗い店内は、すっかり女王の姿に着せ替えられた名前が、耳まで真っ赤な事を隠してくれる。
脚が震えていることも然り。


「タバコの煙くらい吹き付けてやれよー」

不満だと眉を寄せるメローネに、名前は渋い顔をした。
実は火をつけただけで口をつけていない。


「タバコ美味しくないもん」

「モスコミュールも口付けてないし」

「モスコミュール好きじゃない」

目を逸らす名前をしばらく見つめて、メローネは「まぁ良いか」と呟いた。


「さっきのおんな男、お前を見て真っ赤になってたぜ!?相当悔しかっただろうな!!」

「本当!?」

「マジだって!!見てなかったのか!?」

「暗くて見えなかったんだもん!」

悔しがる様を見たくてこんな恥ずかしい格好をしているのに、店内を歩き回る勇気が出なかったのが残念だ。
さっきまでのセリフだって、メローネの台本と寸分違わぬものだし…。
バーテンダーがコースターに電話番号を書くなんてあり得ないと思ったが、本当に書いてあった時には驚きで声をあげそうだった。


「じゃあ、女王様。次はリゾットですね!」

嬉々として名前の手を引くメローネの言葉に、名前は目を丸くした。


「ちょっと、まっ…待ってよ!メローネ!!!そんなの無理よ!!!」

「大丈夫だって!今夜はアジトに泊まるんだろ?ミッチリ教えてやるからよ!」


全く名前の制止を聞かず、メローネは楽しそうに走り出す。
リゾットが今晩帰ってこないので、名前はアジトで一晩過ごすことになっていた。
有無を言わさないメローネに連れられ、かくして名前は女王としての稽古を受けることになった。










(…逃げたい。)

セリフが用意されている場合は良い。
ちょっと演劇みたいで楽しかった。
……とは言え、リゾットを相手取るとなると同じ様にはいかない。
名前はソファーに座り、リゾットの帰宅を待ちながら険しい表情をしていた。

本来なら、こんな事は断固断っていただろう名前は、メローネの説得にはいつも勝てない。口では彼のほうが何枚も上手だ。
「リゾットだって男なんだぜ?たまには違う刺激もなけりゃ、飽きるもんさ」なんて言われて、名前は再び恥ずかしくなるような露出の多いその服に腕を通したわけである。



「ただいま」

ガチャリと鍵を開け、リゾットが帰ってきた。
名前はびくりと跳ね上がり、ソファーに座り直す。こうなったらヤケだ。


「…名前?」

リビングでソファーに座る名前を見つけるなり、リゾットは怪訝な顔でいつもと様子の違う名前を覗いた。
出張帰りの大きな荷物を下ろしたリゾットは、部屋を見渡して再び名前に視線を戻す。
他に誰かが居る様子はないが、明らかに自分で選んだのではないであろう服を纏った名前の頬は赤い。


「り、リゾット!」

「ん?」

「今日は家事をしたくない気分なの」


夕食の事を言っているのだろうか。
キッチンを振り返ってみると、確かに何の用意もされていない。


「食べに行きたいわ!」

「そうか、すぐに支度する」

服を着替えたいのだろうか、荷物を抱えて二階に上がろうとするリゾットを、名前はしどろもどろになりながら引き止める。
今回の出張は、事務がメインのものだったはずだ。


「わた…、私を待たせるなんて、い…良い度胸ね」


ソファーから立ち上がって、名前はギュッとリゾットを睨む。
そんな不自然な様子をジッと見つめたリゾットは、「じゃあこのまま行こう」と名前に手を差し出した。


「手を繋いでも良いか?」

どうやら名前の様子から何かを察したらしい。
下手に出るリゾットの提案に一つ返事で頷きたいが、名前はあくまで冷静を装う。(全く装えていないのだが、名前全力の女王様である)


「仕方ないわね」

頬を染め抜いたままそっぽ向く名前の手を取り、リゾットはフッと笑って家を出た。
もう引き返せない。
名前はリゾットから顔を背けて、すでに半泣きになっていた。


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