『…おね……い、…ないで』
(…誰…だ?)
暗闇の中で、泣いて引き止める子どもの声が聞こえた気がした。
振り向いてみても、一寸先も見えない闇で足を踏み出すことも出来ない。
『…き…』
(何言ってるんだ?…聞こえない)
『…にき』
「兄貴ぃ!」
「…るせぇ!!!!」
耳をつん裂くような声に叩き起こされ、反射的にその声の主の首もとをひっ掴むと、ペッシが苦しげに涙目になっていた。そこで初めて、今までは夢を見ていたのだと気づいた。
「うわぁ…ごめんよ兄貴!で、でも…もう兄貴に言われた時間だから」
「あ?…あぁ、そうだったか…」
チラリと壁の時計を見れば、確かにペッシに言ってあった時間。
オレが目覚ましで起きれなかった時の、最終期限。
さすがに起きなければヤバい、午前10時だった。
「朝飯食いっぱぐれたか…」
「あ、それなら今日は兄貴の好きなサーモンのキッシュだから持って行けって預かってるぜ!」
「…そうか」
「あれ、兄貴…なんか元気ないのかい?」
「寝起きだからこんなもんだ。着替えるから取りあえず外で待っててくれペッシ」
心配そうに振り返りながらペッシが出て行くのを見送って、ベッドに座ると頭を抱えた。
ぐるぐると気持ちの悪いドス黒い物が渦を巻くような、何かとてつもなく恐ろしいものが自分を満たすような気分。何より、何故そんな気分になるのか理解できない不可解さ。
ただ分かるのは、疲れていると言うことだけ。
近頃は、チームの全員がどんどん疲弊していく一方だった。
それでも何とか纏まっているのは、リゾットが天然なりにうまく立ち回っているのと、そのリゾットが拾ってきた女が居るからだろう。
まるで家族と接するように笑う少女に、どこか救われていた。なにも知らず、無邪気に笑う少女を中心にしている時だけ、仕事や状況を考えずに居られる。
首輪をはめられた、自分達の状況を。
「名前は…どうしてるかな」
本職とやらで、頑張っているだろうか。
そう言えば、本職が何なのか聞くのを忘れてしまった。いや、聞かなくて良かった。
聞いたらきっと、ずっと気にしてしまう。
別れを告げた男が影をちらつかせるワケにはいかない。元気ならばそれで良い。
素早くスーツに着替え、髪を結う。
気持ちを切り替えると、急に腹が減った気がするのは何故だろう。
「ペッシ、オレのキッシュどこだ?ペッシ!」
「兄貴、ここだよ」
「お、温めてあるじゃねぇか!気が利いたな、ペッシ!」
ホカホカに温められた遅めの朝食にありつこうとしたオレに、タイミングを見計らったように一件のメールが届いた。
無言で読んで、急に味のしなくなったキッシュを腹の中に流し込む。
ーボスに娘が居るという情報を掴んだ。
ゆっくりと、だが急速に、事態はオレ達を飲み込もうとしていた。