世界よ、逆流しろ


12-1



〜第12話〜
悲しい別れ



 ――こっちだ――

 真っ暗闇の中で、誰かの声が聞こえる。とても懐かしく感じる声だ。聞いているだけで、とても安心する。胸が熱くなって溶けそうだ。
 再び、闇の中に響いた。わたしをどこからか呼ぶ声が。その声に応えたいのに、肝心のわたしの声は、闇の中に響かない。まるで、この場にはそぐわないと、拒絶されているかのように、張り裂けんばかりの想いを乗せて叫んでいるのに虚しく響くのは無音ばかり。

 ――幸子――

 また、また聞こえた。急くようにわたしを呼ぶ声が。
 走った。
 走る《足》があるのか分からないがわたしは走った。
 光が見える。
 不思議な黄金色の光だ。
 あそこまで行かなくては――本能的にそう感じた。
 腕を精一杯伸ばす。光に届くように、光を掴むように。
 光は、わたしの目の前で弾けた。


 * * *


「ラッキー!」
「っ!」

 幸子は声によって意識を強制的に覚醒させられる。顔を上げると、花京院とポルナレフが彼女の顔を覗き込んでいた。

「難しい顔でグッスリだったけどよ、大丈夫か?」
「え……」
「怖い夢でも見たのかい?」
「あ、いや……」

 ふるふると首を横に振ると、二人は「そうか」と安心したように微笑した。

「カルカッタに着くぜ。ジョースターさんが用意しとけとよ」
「え、あ、もっもう? ごめんなさいついうたた寝してて」

 わたわたと慌てながら身支度を始める幸子。耳を仄かに桃色に染めてあーでもないこーでもないと言いながら準備をする姿はおっちょこちょいと呼べる。その様子を見ていたポルナレフは、口元を押さえるとプルプル肩を震わせる。異変に気付いた花京院は彼を心配するのだが――

「おれ、今物凄くラッキーの頭を撫でまわしたい。めちゃくちゃ可愛い……いいよな花京院ッ、いいよな!? だってあんなに可愛いんだからな!」
「落ち着けポルナレフ。その怪しいすぎる動きをする手を下げろ。僕の《ハイエロファント》の《エメラルド》が唸りを上げるぞ」

 《タワー・オブ・グレー》との戦いのときに見た事あるような構えを取る花京院と、ワキワキと堪えきれない感情を顕著に表す両手を構えるポルナレフは言葉を交互に交わすも視線は未だ幸子に向いたままであった。
 どこか、バカげた雰囲気を作り出す三人を微笑ましそうにアヴドゥルが眺め、承太郎はばかばかしい、と呆れ、ジョセフは兎に角笑った。

 シンガポールを出発し、列車でインドのカルカッタへと向かう一行。もうそろそろ到着する。すると、ジョセフは苦い笑いを浮かべながらアヴドゥルにこう尋ねた。

「インドという国は乞食とか泥棒ばかりいてカレーばかり食べていて、熱病かなんかにすぐにでもかかりそうなイメージがある」

 ジョセフは、インドへ行くのは初めてなので、そんな偏見にも似たイメージを持っていた。それは承太郎や花京院、ポルナレフも同じなようで、一様に苦い顔をしている。ただ唯一、幸子はどんな国風なのかを楽しみにしていた。彼女は意外と冒険好きなのやもしれない。
 インドをよく知るアヴドゥルは、至って落ち着いた声音で皆に言い聞かせるかのように言う。ソレは歪んだ情報だ、と。

「心配ないです。みんな、素朴な国民のいい国です。私が保証しますよ」

 アヴドゥルが大丈夫と言うのならば大丈夫なのだろう、と完全にアヴドゥルを信頼しきっている幸子はなんの躊躇いもナシに思った。そんな彼女が、自身の認識が甘かったと悟るのはもう数十分後であった――


 * * *


 まるで、兄のように思っているアヴドゥルさんが言うことだがら、大丈夫なのだろうと思っていたわたしは、なんという考えなしだったのだろうか。彼の価値観とわたしの価値観、彼の基準とわたしの基準が、住むところが違えば大きく差異を生じるだなんて分かっていた癖に。
 目の前の喧噪に、どうにもわたしは現実逃避をしたがっていた。

 ――バクシーシ!(恵んでおくれよォ)――

 インドのカルカッタの地を踏んだわたし達を待っていたのは、多くの地元民が発する「バクシーシ!」という怒涛の切願(いや、でもかなり厚かましい態度だ)だった。いきなり歌いだしたり、いきなり妙なチラシを出しては来ないか勧誘してくる。
 刺すように降り注ぐ灼熱の太陽の下、わたし達は痩せこけた地元民たちに取り囲まれて、ひっきりなしに「恵み」を求め続けられる。あまりの人数の多さに、高身長である仲間たちの姿を見失いそうで怖かった。必死になってジョースターさんの袖を掴んで離れまいとしていると、不意にジョースターさんの綺麗な瞳と目が合う。すると、彼はわたしを安心させるためか、ニッコリと笑った。とてもチャーミングだった。

「なあなあ嬢ちゃんいい店紹介するよ。自給メッチャ高いね。危ないことさせないよ。とっても楽しいよ」
「これ、お肌にイイね。お買い得ね」
「手を握ったら400、膝枕500、とっても楽チン、儲かるよ」

 明らかに怪しい勧誘とセールスにわたしはもうタジタジである。更に、尋ねてくるのは子供よりも中年の男の人やちょっと若いお兄さん、おじいちゃんばかりで、わたしの心臓はひっきりなしにバックンバックンと太鼓を叩く様にわたしの胸を打ち、緊張を現していた。
 震える手でジョースターさんの裾を握っていると、不意に彼の裾が勢いよく引っ張られ、わたしの手からすり抜ける。どうやら、この喧噪に耐えかねてタクシーでホテルまで行こうとしたらしい。しかし、タクシーにはチップ欲しさに我先にとドアを開けようとする者達であふれ、更には車の前に牛が寝ておりタクシーを出せないでいた。牛は、インドでは神聖な生き物として扱われているので、どかしたり出来ないのである。

(ううっ、早くここから出たいっ……)

 花京院君は財布をすられ、ポルナレフは道端に落ちていた糞を踏んづけてしまい、空条君は小さな子供たちに取り囲まれて駄賃をねだられていた。わたしはと言えば、(多分だが)お尻を何度か触られている。こんな人ごみじゃあ仕方ないだろうけれど、女の子に些か失礼ではないだろうか。

(み、みんなが遠いっ!)

 色々な人に取り囲まれ押し合いへし合いしている内に、どうやらわたしは皆との距離が大分開いてしまっていたらしい。戻ろうにも人ごみをかき分けにくく、更に気持ちが逸っているせいか、足運びも悪い。

「う、うっ……」

 皆から離れていってしまう恐怖にかられる。
 やだ、置いて行かないでっ――涙が滲んできた。

「っ!」

 溢れてきそうになった涙を拭おうと腕をあげたら、その腕を思いきり引かれる。その後、ちょっと硬くてでも柔らかくて暖かいものにぶつかった。顔を上げると、怖い顔(たぶん本人は普通のつもりだろうけど)をした空条君がいらっしゃった。吃驚しすぎて涙が引っ込む。

(ということは、わたしがぶつかったのは、空条君の胸板ということ……)

 カッと耳が熱を持つ。顔はまだ平気だった。

「てめー、迷子になるんじゃねーよ。ちいせーんだから、ちゃんとじじいにしがみ付いてろ」
「ちいっ……わたしそこまで小さくないよッ。日本女性としては大きい方!」
「こん中じゃあガキを抜かせば一番ちいせーのはお前だラッキー」
「うっ……」

 言い返せない。
 確かに、女子供を除けば対照的にわたしは一番小さいことになる。しかも、子供よりも大人の男の人の怪しいお店の勧誘が多かったため、彼らに埋もれてわたしが見えなくなってしまう。まさに、空条君の言った通りだ。それなのに、彼の言葉を素直に受け取れないわたしは、どこかひねくれているのだろうか。自分でもよく分からなかった。
 ぐいぐいと、空条君はわたしの腕を引っ張り、人ごみを遠慮なくかき分けて前へ前へと進む。

「さっさと行くぞ。どうやら適当な茶屋で休憩を取るらしい」
「うん。わかっ……ひゃっ!?」

 わたしは、吃驚して立ち止まり、後ろのスカートを押さえて背後を振り返った。奇声をあげてしまったのは仕方ない。なにせ、お尻を撫でられたのだからッ!

「いいい今、今、おしっお尻っ……!」
「……」
「わ、わたし、お財布もっててもお金入ってないんだからっ……! お尻触りながら探っても空っぽのお財布しか出て来ないんだからッ、意味ないんだからっ、触らないでよっ」
「……目的はそっちじゃあねーと思うぞ」
「……えっ?」

 思わず空条君を見上げると、「こいつ分かってねーな」みたいな呆れた表情でわたしを見下ろしていた。なんか悔しい。凄く馬鹿にされた気分でちょっと悔しい。でも実際分かってないみたいだから顔を膨らまして「不機嫌です」っていうことしか主張できない。
 ぶくぶく頬を膨らませていると、空条君の大きな手が伸びてきて、長い親指と人差し指でわたしの頬を両側から摘まんで押しつぶした。すると、「ブフェ」というマヌケな音が出た。空条君って人の顔を押しつぶすのが好きみたいだ。……あれ、この趣味ちょっと怖くない?

 しばしの立往生の後、わたし達は漸く一息つくことのできる一軒の茶屋に落ち着く。
 一つのテーブルを囲って、チャーイというインドの庶民的飲み物を飲む。紅茶と砂糖と生姜を牛乳で煮込んだもので、ぶくぶくと零れんばかりのあぶくがカップの中で膨らんでは弾ける。恐る恐る口を付けると、生姜の味は殆どせず、ミルクティーのような味わいだった。なかなかに濃厚かつ甘みの深い味に、わたしははんなりとした表情を浮かべた。インドの喧噪は苦手だが、チャーイはとても気に入った!

「ようは慣れですよ。慣れればこの国の懐の深さがわかります」
「なかなか気に入った、いい所だぜ」

 アヴドゥルさんは、インドは慣れだと語った。それに賛同したのか空条君がニヤリと笑って頷く。まあ確かに、日本人ってば適応能力が高いって言いますもんね。ジョースターさんはお孫さんである空条君の言葉に驚きを隠せないようだ。
 ポルナレフは、暫くチャーイを呑んでいたがふと立ち上がってトイレへと向かった。……ポルナレフって一生かかっても慣れそうにないよね。性格的に。
 わたしは、みんなの会話をしり目にちびちびとチャーイを呑む。へへへ、甘ァ〜〜くておいし〜〜っ。もし、この旅が無事に終わって聖子さんの所へ帰れたら、チャーイをご馳走しよっかな。上手くできるかは保証出来ないけど。

 ――ガシャーンッ!

 ふうふうと、熱いチャーイに息を吹きかけていると、突如、ガラスが割れる音と共に怒号が聞こえてきた。ポルナレフの怒声だ。きっとトイレでなにかやらかしたのだろうと思ったけれど、そのトイレから飛び出してきた彼の剣呑な表情に、わたしを含めたジョースターさん達はただ事ではないと悟り、ポルナレフを追いかける。
 店の外に出て辺りをキョロキョロと見渡す彼の背に、なにがあったのかどうしたのか問いただすと、彼は、DIOの肉の芽で操られていたときにすら見せなかった剣を帯びた目で虚空を睨みつけながら言う。見つけた、と。

「承太郎! お前が聞いたという鏡を使うという《スタンド使い》が来た!」

 シンガポールにいた時、チケットの用意に出ていた空条君(と女の子)を襲った《イエロー・テンパラス》という《スタンド》を使う男に、空条君は勝利した際、聞いた。DIOの元に居る残りの《スタンド使い》のことを。その中で、両手とも右手の男(名をJ・ガイル)の《スタンド》が鏡を使うのだと男は白状したらしい。凄いな空条君。わたしなんて敵を倒すのに必死で残りの《スタンド使い》の情報を聞き出すなんて考えもしなかった。
 ポルナレフは、殴り合いとかの喧嘩をした事のないわたしにでも分かるほどにビンビンに殺気立っていた。そして彼はなんと、ジョースターさん達とは別行動を取らせてもらうという。自身の荷物を肩に担ぐと、彼は鋭い目のままジョースターさんを振り返って言う。

「妹の仇が近くにいると分かった以上、もうあの野郎が襲ってくるのを待ちはしねえぜ」

 敵の攻撃を受けるのは不利だし性に合わないという理由で、ポルナレフはわたし達と離れて敵を迎え撃つと言う。バカなことを、とわたしは思った。敵の正体もまだ性格に分かっていない段階での単体行動は完全に分が悪い。インドのように人が多く行き交い埃が舞うような土地ではもっと条件が厳しくなる。
 わたしは何としても、止めたいと思った。ほんの数日を共にしただけだが、ポルナレフが悪い人ではないことは分かっている。妹思いの人だということも、情にもろいというところも。

「これは、ミイラ取りがミイラになるな」

 ポルナレフを止める手立てはないかと考え込んでいるとき、不意に隣のアヴドゥルさんが呟いた。彼のいつもわたしに向けてくれる穏やかな光を宿す瞳は、今は剣呑な色をしている。彼は言った。別行動は許さないと。その言葉の裏には、ポルナレフが確実に殺されるという意味が含まれていた。それを感じ取ったポルナレフは、眉間に皺を寄せるとガンを飛ばして口のへの字にする。

「俺が負けるとでも?」
「ああ!」

 アヴドゥルさんはキッパリと言い切った。
 敵はポルナレフを一人にしたがっている、ソレが分からないのか。そうアヴドゥルさんが語気をいつもより強くして言うと、ポルナレフは暫しの沈黙ののち、こう言った。
 自分はDIOなど最初からどうでもいい。香港で復讐するために同行すると断った。それはジョースターさんや承太郎だって承知の筈だ。自分はもともと一人で戦っていた――彼の言葉を聞くとズキズキと胸が痛みだすのは、もうわたしが彼を仲間だと思っていたからだ。今までの旅の出来事は、なんだったのだろう、と虚しいからだ。
 アヴドゥルさんとポルナレフは互いにいがみ合いながら、ここが町のど真ん中だということも忘れて激高をぶつけ合う。アヴドゥルさんの、彼を心配する気持ちを乗せた言葉はしかし、ポルナレフには届かない。それどころか、ポルナレフはDIOから逃げたことに対して『腰抜け』となじった。
 わたしは、我慢できなくなっていた。尊敬するアヴドゥルさんを、『腰抜け』となじられたからなのと、ポルナレフの突き放す冷たい態度が気に食わなかった。
 男同士の喧嘩だとかそんなの女のわたしには分からない。だから、もう知らない。そう思った。……だから、なのだろう。

「ポルナレフっ、アヴドゥルさんは!」

 だから、きっと、これは――

「ラッキーてめーは黙ってな! 大して戦ってもいねーおまけにDIOのことを知ってて闘いもしねーで逃げ出したおめーはなッ」

 ――事故、だ。


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