世界よ、逆流しろ


11-2



 幸子は目を見張る。目の前の光景が信じられないとでもいいたげに。口を開けたり閉じたり、パクパクとさせるも肝心の言葉は出て来ることがなかった。
 目の前にあるのは、ナイフを振り被ったまま動かない女の姿がある。彼女はフードの闇の中で血走る目を幸子に降り注いでいるも、いっこうに動く気配が感じられなかった。
 状況が分からない。幸子はあたりを見回す。すると、なんと女の後ろ、数メートル先にある血だまりを見て驚愕に顔を歪めるボーイが立ったまま動かずにいた。

(どういうこと? まるで時間が止まったようにみんな動かない……)

 分からない、と頭を悩ませながらも幸子はズルリズルリと体を引きずりながら女の傍から離れる。それから、立ち上がると鮮血を流し続ける脇腹を押さえて走り出した。角を曲がり、目指すのはジョセフや承太郎のいる部屋。必死になって、彼女は走る。しかし、その行く手を阻むように、鉢植えの影から黒い物が飛び出し、いっぱいに幕を張った。
 幸子は部屋に向かうことを早々に諦めて別の通路を走る。

(もう追いつかれた! はやく、はやく逃げないとっ)

 ゼイゼイと息を切らせて逃げるが、目の前にはもう道はなく、あったのは壁。後ろからは鬼の形相で迫る女。
 退路は断たれた。
 女も幸子も共々肩で息をしながらお互いを睨む。

(あれは《クリア・エンプティ》の能力?)

 傍に佇む無表情な存在に、チラリと視線を投げると、《彼》も彼女を見下ろしていた。《彼》が口を開いて語ることはない。けれども、何かを訴えようとする目を見て、幸子は全てを理解した。あの不可思議な現象は、自分のスタンドが引き起こしたことなのだと、どんな原理で起こるのかも、全て理解した。
 幸子の《クリア・エンプティ》の能力は、《対象の時間を戻す》ことである。もし、その《戻す》行為をこの世に流れる時間と同じ時間でしたら、事実上プラスマイナスゼロ、つまり――

(わたし以外全てが止まる……)

 幸子だけが動くことのできる《世界》が完成するのだ。

「手間取らせやがって、小娘がッ……」

 今度こそ殺そうと、女が影を伸ばし、同時にナイフを振り被った――その時だった。女の後方から、何かが飛んでくる。それは照明の光を浴びてキラリと輝きを放ちながら女に迫る。女は、咄嗟に影を伸ばしてガードすると、そのまま飛んできた物体を床にたたきつけた。それは、黒くコーティングされたフライパンだった。
 女が振り返り、幸子が見た、フライパンを投げた人物、その《男》とは、銀の髪を天に向かうようにして固めた独特の髪型をする奴だった。

「ポルナレフ!」

 幸子が名を呼ぶと、彼はニヤリと微笑する。

「いつまで経っても戻らねえお前を心配してあの少女が伝えに来たぜ」

 ポルナレフは言った。幸子がトイレに行ったきり(実は恥ずかしくて出てっただけ)いつまでも戻ってこないことを心配した同室の少女が、ジョセフとアヴドゥルが腰を置く部屋に駆け込んできたのだそうだ。普通ではないと判断したジョセフは、承太郎たちと共に幸子を探してくれていたという。
 助けが来たことに安心したのか、彼女はジワリと海のように青い瞳を潤ませた。しかし、その目はすぐさま驚愕に目を見開くことになる。
 彼女は、ポルナレフの背後に迫る《影》に気づいたのだ。

「《クリア・エンプティ》! 時を、止めてェ――――ッ!」

 叫んだと当時に、全ての喧噪が掻き消え、誰もが微動だにしなくなる。
 時が止まったのだ。幸子意外、全ての時が止まったのだ。幸子は動きのトロい体に鞭打ってポルナレフに駆け寄ると、その勢いのまま彼にタックルをかました。彼の体と共に床に倒れると同時に、時は動き出した。

「あ、あれ? お前、さっきまであそこに……」

 時が止まった世界でのことは、他の人間にしてみれば一瞬のこと。いや、殆どなかったことと等しい。だから、ポルナレフは驚いた。怪我をしている少女が、誰の目にも止まらぬ速さで自分の目の前にやってきたように感じたから。
 怪我の割には案外ピンピンしているなぁ、なんて感心しながら立ち上がった彼は、ナイフを構える女に向き直った。

「なかなか鋭い殺気をしているな、女……」
「その小娘をよこせ、裏切者のポルナレフ……まずは小娘から、そして、次にお前を始末してやる」
「ほぉ……出来るかな?」
「ふん、自惚れ屋のお前など、わたしのスタンドの前では取るに足らぬものよ」
「気を付けてポルナレフ、彼女のスタンドは影から攻撃してくるッ」

 幸子の忠告と同時に飛び出してきた黒い触手。それは真っ直ぐにポルナレフへと向かう。《銀の戦車》を構えた彼は、鋭いレイピアで黒い触手を刺そうとした。しかし、彼の攻撃は黒い触手をすり抜けてしまう。レイピアをすり抜けた触手は、そのまま突っ込むと、なんと彼の《影》に入り込んだではないか。
 触手が入った途端、身体の自由が効かなくなったポルナレフは、《戦車》の持つレイピアをポロリと落としてしまった。

「ラッキーッ、その剣で俺の影を刺せ!」
「え、で、でも」
「いいから、刺せ!」

 ポルナレフに促されるままに幸子の《クリア・エンプティ》はレイピアを取ると振り被って一気に彼の影に突き刺した。途端、激痛を訴える彼。肩の所から刺し傷が現れて血が流れる。彼女が刺した影と同じ位置だった。

「無駄よ。わたしの《シャドー・レイ》には物理的な攻撃は効かない。また、影に潜ませれば、影を攻撃されてもダメージが返るのは影の持ち主だけ……ふふふ、どう? 弱点なんかこれっぽっちもないでしょう?」

 たわわな房をこれでもかと見せつけるように自信満々で胸を張る女。彼女は自分の力に酔いしれながら愉快に笑った。恐怖に歪む顔を見たかった女は、ポルナレフの後ろで身を小さくしている幸子を覗き込んだ。しかし、彼女の期待とは裏腹に、幸子は恐怖も絶望も感じさせる表情をしていなかった。むしろ、深海のような群青色をした彼女の瞳は、静かなる闘志を燃やしていた。
 女は、話しに聞いていた印象と違う、と焦る。聞いた限りでは、幸子は酷く憶病でちょっとゆすれば直ぐに傾く意志の弱い人間だと思ったのだ。けれども、目の前にいる本人はどうだろうか。憶病者ならば、今のような顔をしないだろう。ちょっとゆすったくらいて意思を曲げるようなたまだろうか――いや、ない。
 女は初めて恐怖を抱いた。出血で顔が青い幸子の中になにか、底知れないものを感じたのだ。
 幸子は自身の《スタンド》である《クリア・エンプティ》を出す。ポルナレフが、お前じゃ無理だと叫ぶ中、彼女は静かに静かに立ち上がると言った。

「抵抗の出来ない人間を滅多打ちにすることはとてもフェアではない。けれど、わたしは弱い。弱い人間には弱い人間なりの闘い方がある。だから、わたしはあえてフェアじゃないのを選ぶよ」

 すう、と彼女の目が細くなった。

「《クリア・エンプティ》!」
「そいつを止めろ《シャドー・レイ》!」

 女は、幸子へ向かって触手を伸ばすが一歩及ばず。

「時は止まった」

 こつ、幸子は一歩を踏み出した。足もとの変形したフライパンを握ると、女の前に立つ。腹を怪我しているにもかかわらず、気丈に振舞う姿は、誰の目にも留まらない。

「ごめん」

 幸子はフライパンを振り上げた。


 * * *


 ポルナレフが気が付いた頃、すでに女は倒されていた。頭には大きなタンコブがいくつも作られており、近くには血にまみれたフライパンが転がっている。

「ポルナレフ、大丈夫!?」

 傷のあった場所に幸子が触れる。そこにはもう傷はなく、綺麗に治されていた。
 いつの間にやったのだろうか。まるで、狐に化かされたような気がするポルナレフは知らず知らうのうちに頬に自分の武骨な手を当て考えるが、彼には深い考えをする脳みそが積まれていないのか、すぐに己のこめかみをツン、と突いて「まァ、いっか〜」と終わらせてしまった。

「一応、傷を治したけれど、ほんとになんともない?」
「アンタも心配性な奴だなァ、平気平気」

 あんたが治しなんだろ。そう言って屈託なく笑うポルナレフの様子に、幸子は安堵したのか、強張っていた肩の力を抜き、ふにゃりと柔和な笑みを浮かべた。彼女の笑顔を見たポルナレフは、暫く硬直したのち、急にパシリ、と華奢な彼女の腕を取る。困惑する彼女に、今度は爽やかな笑みではなく下心まるだしなだらしのない笑みを浮かべる。

「いやぁー、嬉しいねえ。そんな心配してくれるとは」
「あ、え……」

 顔が蒼くなってゆく幸子には気づくことなく、ずずいと彼は顔を詰め寄らせる。太く逞しい彼のもう片方の腕は、細身の幸子の腰に回ると、そっとそこを撫ぜた。途端、幸子の顔が蒼くなったとおもえば一気に真っ赤になると涙を浮かべて手を振り上げた。

「いやァーッ」

 小さな悲鳴と共に、バシンッ!という音が廊下に響き渡ったのだった。


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