世界よ、逆流しろ


10-3



 破けた胸から露わになる透き通るような白い肌、羞恥心で朱に染まる頬、悔しさで滲む涙――
 相手が超ド級のスケベなサルでなくても、男ならばそそられるような格好である。
 フンス、フンス、と鼻息荒くオラウータンは再びにじり寄る。彼の上司からの言いつけで「手は出すな」とあったのだが、それすらもとうに彼の本能の塊である頭から彼方へぶっ飛ばしてしまっていた。

「こっ来ないでェ――――ッ!」

 幸子の悲痛な叫びに被せるようにしてオラウータンは雄叫びを上げ、身動きの取れない彼女に飛び掛かろうとした――と、その時だった。

「おい」

 不意に背後から声をかけられ、オラウータンは反射的に振り返った。瞬間、彼の脳天に大きな錠前が振り落とされた。金属と骨が軋み合う鈍い音が嫌に耳に着いた。

「空条くんっ!」

 そう、幸子とオラウータンの前に唐突に姿を現したのは、錠前を持った空条承太郎であった。彼は、いたってクールな態度で「てめーの錠前だぜ、これは!」と持ってきた錠前を、頭を抱えて痛みに悶えるオラウータンに向けて放り投げた。
 突然の承太郎の登場に驚いていると、「オラッ!」という掛け声とともに突然体の自由がきくようになった。彼女が顔をあげると、そこには承太郎のスタンドである《星の白金》がおり、幸子を無表情で見下ろしていた。彼が彼女や彼女のスタンドの手足を縛るパイプを破壊してくれたようだ。

「あ、ありが……」
「さっさと服を元に戻しな、丸見えだぜ」
「――っ! わ、わ、分かってるよ!」

 お礼を途中で遮られた幸子は顔を茹蛸のように真っ赤に染めたのち、ヤケクソに承太郎へ声を張り上げると、制服のポケットに入っていたハンカチで慎ましやかな谷間にあるオラウータンの涎を乱暴に拭い、服を破られる前まで元に戻した。
 彼女は、ごほん、と咳払いして気を取り直す。

「空条くん、このオラウータンがもしかすると!」
「ああ……おめーの予想は大当たりだったっつーことだな。このエテ公、ただのエテ公じゃあねえ!」

 オラウータンは、蹴りを食らわそうと承太郎の顔面を狙って毛むくじゃらの太い足を勢いよく振り被る。普通ならばパニックになるところを、承太郎は冷静に己のスタンドである《星の白金》を出して蹴りを防いだ。しかし、オラウータンが目配せした扇風機が独りでに外れ、承太郎目がけて落ちてくる。
 承太郎は辛うじて脳天直撃を免れたものの、肩に深々とプロペラが突き刺さってしまった。

「くそ、《スタンド》の像はどこだ!? なぜ見えないのだ!?」
「く、空条くん! プロペラがッ」

 幸子の声で承太郎は、自分の方に突き刺さる扇風機のプロペラに異変が起きていることに気づく。鋼のプロペラが、熱して圧力を加えられてもいないのに、ひとりでにぐにゃりとまるでシリコンのように曲がるではないか。極限まで反り返ったプロペラは、勢いよく承太郎の頬をビンタする。その拍子に、プロペラは彼の肩からすっぽ抜けたのだが、ビンタの勢いがあり過ぎたのか、195センチもある彼の体が吹っ飛んだ。さらに、その先には、窓ガラスが独りでに割れて破片が承太郎目がけて飛んでくる。じつは、幸子も同じ攻撃を受けたのだが、彼女が冷静にどこのガラスだったのか見れる精神状態ではなかったと、ここで明かしておこう。
 またしても、スタンドが見えぬのに襲いかかる不可解な攻撃。しかし、承太郎の《星の白金》はたった右手だけで襲いかかるガラス片を全て指に挟んで取ってしまった。さすがは弾丸をも掴む程の精確で俊敏な動きとパワーを兼ね備えたスタンドである。さらに、その受け止めたガラス片を指に挟んだまま拳を作ると《星の白金》はエテ公向けて振り被る。
 顔面へと勢いよく叩き込んだかに思われたが、なんとオラウータンはズブズブと壁の中へとめり込んで彼の攻撃を無力化してしまった。壁にまるで飲み込まれていくような光景に、幸子も承太郎も目を見張る。彼らが茫然と驚いている内に、エテ公は消えて行った。どうやら、こうして逃げ惑う幸子を先回りしていたらしい。

「おい、オメーのスタンドは戦闘向きじゃあねえ。おれの傍に来い、なにかとてつもなくヤバい」 
「う、うん」

 素直に幸子はてこてこと承太郎の傍に寄った。彼女は自分の役目は仲間のサポートであると理解しているのか、《クリア・エンプティ》で彼の肩の傷を《治し》た。
 承太郎は、己の射程距離が近距離なためか、幸子の肩を抱いて自身の近くへ寄せた。彼なりに、守ろうとしているようだ。それを分かっているからか、幸子は何も言わず、大人しく彼に自ら引っ付いた。

「エテ公が壁に消えた。だが《スタンド使い》は確かにあのオラウータンだ……さっき奴にこの手で触った時、奴の生きた肉体から《スタンド》のエネルギーが出ているのを感じた」

 しかし、あのエテ公のスタンドが見えない。
 承太郎はタラリと冷や汗を頬に伝わせた。

「あ、あのさ……わたし、壁に貼り付けにされた時……あのとき、とてつもなく大きなエネルギーを感じたの。とても大きな《スタンド》エネルギーッ!」
「――!!……まさ、か……『もう見えている』としたら……」

 ごくり、と幸子は生唾を呑んだ。嫌な予感がして、あたりをサッと見渡す。

「スタンドは、この貨物船かッ!」

 彼らがその考えに到達したその時だった。獣の雄叫びが聞こえたと思えば、承太郎の体に幾多のパイプが伸びて絡まる。しまった、と思った時には既に遅く、彼はスタンドごと壁に縫い付けられてしまったのだった。
 承太郎と幸子の考えが正しければ、貨物船自体がスタンドという事になるが、この貨物船は水兵や密航少女の目にも見えている。圧倒的存在感もある。彼らのスタンドの常識は、一般人には見えず、実体はない。けれども、彼ら自身も体験しているとおり、彼らの乗る貨物船に触れることができて存在感もあった。

(一般人にも見えるほどのスタンドエネルギーがあるっていうの?)

 幸子は身を震わせた。彼らの乗る貨物船は、相当な大きさを持つ。つまり、それを操るにはそれ相応の巨大なエネルギーをあのスタンド使いのオラウータンは持っているということになる。その考えに至った幸子は、ごくり、と生唾を呑んだ。彼女のスタンドは純粋なパワーは成人女性並み程。とても壁に張り付けられた承太郎を引っ張り出すほどの力はない。ならば、今自由に動ける彼女があのオラウータンと戦わなければならないだろう。少なくとも、幸子自身はそう思っていた。
 たらり、と脂汗が彼女の額から頬へと伝い、床に落ちた。すると、それを合図に壁から何かが現れた。それは、先程のオラウータン。しかし、今度は衣類を身に纏っていた。制服と帽子を身に纏って、まるでこの船の船長でも言いたげにふんぞり返りながらパイプをふかしていた。気取った態度をとりながら、片手に収めていた大きな辞典を開き、ある単語を指さした。
 ――Strength(ストレングス)……1:Force(力), 2:Energy(元気), ......9:タロットで、8番目のカード。挑戦、強い意志、秘められた本能を暗示する。
 改めて自己紹介というわけらしい。

「Strength……なるほど、名前に違わぬパワーってわけね」

 オラウータンの名前は『フォーエバー』、スタンド名は《ストレングス》。
 フォーエバーは、パイプを咥えたままニヤリと笑うと辞書を放り投げて腕組みし、背筋を反らした。手には、ルービックキューブが握られており、ニタニタと幸子を見つめたままそれを弄りだした。
 承太郎が《星の白金》で近くにあったパイプを引っこ抜いて投げつけようとしたが、逆にそのパイプによって腕を縛られて壁に縫い付けられてしまう。それを見た幸子は覚悟を決めた。

(わたしが戦わなくては……でなきゃ、空条くんを助けられないッ)

 もう水兵のような犠牲者を出したくないのか、幸子の頭の中には逃げるという選択肢はなかった。

(考えろ。わたしの《クリア・エンプティ》の能力は対象になったものの時間を戻すことっ……なにか、考えなきゃっ)

 幸子が考えているうちに、キューブのすべての面を揃えることが出来たのか、フォーエバーはサル独特の高い声を上げて喜んだ。その後は、なんの躊躇もなしにキューブを握りつぶして粉々にしてしまう。まるで、「お前らなどこのキューブのように何も抵抗できずに潰されるのだ」と言いたげだった。
 粉々のキューブを捨て、今度こそフォーエバーは幸子へ迫る。幸子は、初めて遭遇したときとは違い、今度は怯えも逃げもせず、堂々と対峙した。気丈に両足で立つ彼女。だが、蒼い瞳は微かに不安で揺れているのを、承太郎は見逃さなかった。

(あ……)

 幸子は見た。承太郎が彼自身の制服の襟についているボタンを僅かに動く指で引き千切ったのを。彼は、千切ったボタンをそのままフォーエバーの頭にぶつけた。バシン、という音が廊下に響く。コンコロコロ、と転がるボタン。桜をあしらった校章がどこか華やかだった。

「そのボタンはてめーの《スタンド》じゃあねーぜ」

 ボタンを拾い上げたフォーエバーの眉間がピク、引くつく。しだいに、彼の眉間に青筋がいくつも立った。

「フン、怒るか? 確信した勝利の誇りに傷がついたというわけか?……いや! 傷はつかんね……エテ公に誇りなんぞねーからな」

 承太郎のこの言葉が引き金となった。ぷっつん、キレたフォーエバーは牙を剥き出しにして自慢の跳躍力で壁に張り付く彼に襲いかかった。幸子は息をのんだ。しかし、戦慄している彼女に対して、承太郎は至ってい冷静であった。

「そこんとこがやはりエテ公なんだな」

 承太郎の《星の白金》は腕に力を込めると、なにかを狙った角度で構える。

「傷つくのは……! てめーの脳天だ!」

 ぐん、と《星の白金》の指が伸びる。幸子が、海中で見た、《暗青の月》を倒した《流星指刺》だ。
 武骨な彼の指は、真っ直ぐにフォーエバーの持つ承太郎の投げたボタンへと向かってゆき、それを勢いよく弾いた。弾かれたボタンは一直線にフォーエバーの眉間にめり込む。余りの激痛に、フォーエバーは頭を押さえて悶えながら後ずさる。それを逃がすまいと、壁の拘束から抜け出した承太郎が《星の白金》を構えながら近づいた。恐怖したフォーエバーは、ブチブチと服のボタンを引き千切ると腹を見せる。
 恐怖した動物は、降伏のしるしとして己の腹を見せるという。フォーエバーは、承太郎に対して許してくれと切願しているようだ。それを把握した承太郎はしかし、首をふる。

「てめーは既に動物としてのルールの領域をはみ出した……だめだね」

 承太郎は許さなかった。抵抗も出来ない無力な一般人を惨殺したゲロ以下の行為を、サルでありながら人間の女に手を出そうとしたことを――承太郎の気高い精神は許さなかった。
 彼の《星の白金》は「オラァ!」という力強い雄叫びと共に、怒涛のラッシュをフォーエバーの全身にありったけ叩き込み、戦闘不能にしてしまった。

「空条くん! 怪我は!? どこかない!!?」
「どこもねーよ。それより、制服のボタンを直してくれねーか。こだわりの制服なんでね」
「ああうん勿論だよ! ところで怪我はないんだよね!?」
「……ああ」

 頻りに怪我のことを気にする幸子。彼女も見ていたように、肩以外は大したことない。それよりも承太郎は制服のボタンの方を直してほしかった。

「ごめん、わたし、全然戦えなかった」
「てめーのスタンドはもともと戦闘向きじゃあねーだろ。今更気に病むな」
「……うん。助けてくれてありがとう、助かったよ」

 幸子は力なく笑った。どこか安心したような表情に、承太郎はフン、と鼻を鳴らして帽子の鍔を下げた。

「ゆ、ゆがんでる! この船、ぐにゃぐにゃになってる」

 船(スタンド)を操作していたフォーエバーが倒されたことにより、能力が解除されつつあった。

「おい、たまげるのは後にしな。この船はもう沈むぞ……脱出するぜ。乗ってきたボートでな」
「うん……あ、おっ女の子呼んでくる!」

 幸子は、シャワーを浴びている少女を呼びに向かった。女の子は、丁度シャワーを浴びて着替え終えて出て来るところであった。歪む船に混乱していたようで、声をかけると直ぐに飛びついてきた。二人そろって出口に向かって走り出すと、フォーエバーと戦っていた場所に承太郎が立っていた。彼女達を待ってくれていたようだ。
 三人は、甲板に居たジョセフ達と合流し、崩壊する船から脱出した。

「し、信じられないわ。船の形がかわっていく……あんなにボロでちっちゃな船が今まで乗ってた船?」

 ボートのヘリで、女の子は身を乗り出して、沈みゆく船を見ながら言った。大きく立派な貨物船だったものは、みすぼらしい船に変わった。もともと、スタンド能力によってコーティングされただけのものだったのだ。スタンドの発動後と前とでは随分違い、それほどフォーエバーのスタンドパワーが強力であったということがありありと見せつけられる。
 ジョースター一行は、完全にフォーエバーのスタンドに圧倒されていた。もし、承太郎が気づいて行動していなければ、どうなっていた事やら……。ジョセフは、戦いの経験が豊富なだけに、予想が出来てしまったのか顔が青白くなった。

 彼らは、再び漂流することとなる。日本を出て、4日が経った――
 沈みゆく太陽を見送った後、彼らは運よく、救助信号をキャッチしてやってきた貨物船(今度こそ本物)に救助されたのだった。


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