世界よ、逆流しろ
果たされぬ約束
薄暗い廊下を、小さな光源を頼りにしながら歩くのは、戸軽幸子。長い髪の毛は闇に吸い込まれてしまいそうなほど黒く艶やかで、小さな光をも逃さない青い瞳は深海のように深い色をしている。
夜も遅く、すでに寝ている時間帯にもかかわらずどこへ向かっているのやら。
角を一つ曲がって彼女が行き着いたさきは、とある部屋。彼女はコンコン、と数回ノックして呼びかける。
「DIO?」
部屋の主の名を呼ぶも、返事はない。それでも彼女は部屋に入った。以前、返事がなかったので引き返したら「読書をしていて気づかなかった。返事がなくともはいっていい」と仏頂面で言われてしまったからである。
控え目に、「入るよ?」と呟いてから幸子は部屋の戸を開けて中へ踏み入った。
「DIOぉー……」
部屋を見渡しても、彼の姿はなく。あるのは洒落たスタンドライトの温かな光のみ。つけっぱなしのようだ。
部屋で待っていればいいのかと、彼女は扉を閉じてソファに歩み寄った。そして、暇つぶしに、机に置いてあった本を手に取ると開く。ドイツ語のようだった。ドイツ語は得意でないのか、彼女は渋い顔をしたのち本を閉じて元も場所へ戻す。
「……遅いなぁ」
そわそわと落ち着かない。なんだか、妙な予感がするのである。
落ち着きなく宙へ視線を彷徨わせ始めた頃、不意に鈴のような音が部屋にこだました。静寂の中に唐突に落ちたその音に、当然の如く幸子はビクゥッ、と体を飛び上がらせた。
なにごとか、とあたりをキョロキョロ見渡して、目にとまったのはひとつの電話。黒光りしたそれに近づくと、明らかにどこからかかかって来ている様で――
「ど、どうしよう……DIOの部屋のだから、DIOに来ているよね……でも、今本人いないし……」
居留守をすることに罪悪感があった幸子は、様々な葛藤のすえ、電話に出ることにした。震える受話器をそっと手に取って、恐る恐る耳に当てる。
「もっもしもし、DIOの館です……」
「……ぷっ」
ふと、彼女のもとに届いた声は確かな失笑。電話の向こうにいる人間は、クスクスと含み笑いをしたままで次の言葉が出て来ない。
幸子は戸惑った。
「あ、あの……」
「あ、ああ、ごめんごめん……君の対応が予想外だったから、ついね」
「はあ……」
声からして若い男のようだった。同い年か、ちょっと若いくらい。歳の近い相手と話すのは久々だったためか、幸子はしばしの感動を覚えた。
「君の、名前は?」
「あ、私の名前は戸軽幸子、日本人です」
「サチコ? ちょっと発音しにくいね……日本人にしては英語を流暢に話しているけれど」
「父がアメリカ人で、殆どの会話が英語だったからです」
「へぇ。そうすると、ハーフかい?」
「はい……ええっと、あの、貴方の、お名前は?」
「ああ、まだ自己紹介がまだだったね。僕の名前はプッチ……エリンコ・プッチだ」
「プッチさん、ですね……」
男の名はプッチ。アメリカ人だそうだ。
「あ、の、ごめんなさい、DIOは今は部屋におりません……その、いつ戻るのかも私は把握してませんので……」
「……ああ、なるほどね、全く……ちょっと意地悪過ぎないか?」
「えっ?」
問われたことが分からず、聞き返す。彼はなにかに気づいているようだが、幸子には彼が何に気づいているのかすら把握できずにいた。
「あ、ああ。すまない、こちらの話さ」
「さっ左様でしたか」
「ふふ、君はとても堅苦しい話し方をするんだな」
「あ、ごっごめんなさい」
「いや、謝ることじゃあないさ……ただ、そうだね、もう少し砕けてもいいかな。歳も近いんだしね」
「そ、そう、だね」
「そうそう、その調子」
穏やかな口調や言葉は、しだいに幸子の緊張を解きほぐしていった。不思議な力のある声だった。
「DIOはまだ戻らないから、伝言があるなら伝えておくけれど……」
「ああ、うん……そうだな……今は、君と話をしたいな」
「……へ?」
電話の奥でプッチが発した言葉を理解するのに、幸子は数秒を有した。
プッチは、用があった筈のDIOではなく、幸子と会話をしたい、と言ったのだ。
突然の申し出に狼狽していると、更に「ダメかい?」と少し気落ちしたような声音の声が鼓膜を震わせる。そんな声をされてしまえば、もう彼女に断る余地など残されていない。苦笑を浮かべながら、「ダメじゃないです」と答えると、プッチの声も心なしか嬉しそうな色をした。
「幸子は、今、幸せかい?」
「?」
唐突な話題に、言葉をなくす幸子。すると、電話の奥から「大丈夫かい?」だなんて声がかけられ、我に返る。
「そうですね……私は、幸せです」
よどみなく幸子は答えた。
「私の《幸せ》は、両親や友人と毎日喧嘩したり笑いあったり、ご近所さんと冗談言い合ったり、勉強に疲弊したり、そんな辺りまえな日常を送ることです」
「では、もしその《幸せ》が崩れ去れば、君は幸せじゃあなくなってしまうのでは?」
プッチの返しに、幸子は息をのむ。なにもかもを、見透かされているような気がしたのだ。そう、彼女の境遇を。それでも、幸子は続けた。
「もし、両親や友人たちの日常の中に《私》がいなくても、大切な人達が笑ってくれていれば、幸せです。あ、あと、ふかふかのベッドで惰眠をむさぼれたら最高ですね」
「ははッ……君はとてものんびり屋だ……そして、」
――とても、欲がない――
「修道女に向いてるんじゃあないかな」
嫌味な言い方に聞こえないのは、プッチゆえだろう。だからだろうか、幸子は「う〜ん」と唸って首を傾ぐことしかできなかった。
「ああ……すまない、君との話はとても楽しくてもう少し会話をしていたいのだけれど、どうやら主人がそれを許さないようだ」
「まあ……ちょっと意地悪な主人ですことで」
「ふふっ、本当だ」
二人で、プッチの言う《主人》のことでクスクスと含み笑いをする。すると、プッチが奥に誰かもう一人いるのか、その人物を宥めるような言葉をかけた。
「ねえ幸子」
「はい」
「近々、そちらに行くよ。あって色々と話してみたいんだ。DIOと一緒に、三人で話そう」
「そうですね。私もプッチさんと会って話したい」
「ふふ、じゃあ、約束だ」
「はい、約束です」
くすくす、と止まない笑み。二人はどちらからともなく、通話を切った。
どれくらい会話をしていたのだろう。長電話ほどではないが、それでも、DIOがその間戻って来てもおかしくはない。
「今日はなにか用事でも入っちゃったのかな……また明日、訪ねることにしよっと」
幸子はくるり、と踵を返すとDIOの部屋をあとにした。
* * *
電話を切ったプッチは、後ろのソファで悠々と足を組み読書にいそしむ一人の男を振り返った。その男こそ、幸子を自室に呼び、プッチが《主人》と比喩した人物、DIOその人であった。
「意地が悪いなあ……唐突に電話をかけてみろなんて言うからかけたら、さっき話していた《幸子》が出て来るじゃあないか。素直に僕と彼女に会話をさせてみたいと言えばいいものを」
「それでは芸がないだろう?」
ふん、と鼻を鳴らすDIOに、プッチはただ苦笑を浮かべた。
「彼女は、君の恋人かい?」
「恋人? そんなわけがなかろう。幸子はただ私の目的の《糧》、それだけよ」
「ふぅん」
――君が、彼女の名を呼ぶときの顔を一回鏡で見るといい――
そう言ってやりたかったが、面倒なことになりそうな雰囲気を感じ取ったのか、プッチは思ったことを胸にしまって立ち上がり、紅茶を入れ始めた。
(《幸子》と呼ぶとき、君の声に慈愛が含まれているのは、気のせいかな……?)
笑い出しそうになるのをこらえつつ、プッチは読み物に夢中な男を微笑ましげに見つめた。
(感じのいい女性だったな……)
会って話してみたいと思ったのは、本心だ。いつか、彼女とDIOを交えて色々な話題で話してみたい。きっと、静かな会話となるだろう。けれど三人は互いに熱い論議をかわすことになるはずだ。
想像でしかない少女の姿に、プッチは心を躍らせながら紅茶をカップに注ぐ。
(ああ、早く館に行きたいな)
しかし、彼女との口約束が果たされることは、なかった。
――――
あとがき
初プッチさん。
しかし、若い頃の彼が想像しにくく、口調も何だか安定しないことに……いやまあ、キャラの口調が安定しないのはいつものことなんですけれど、ねっ!
DIOさん、いくら面白そうだからって嘘ついちゃだめだよ。きっと夢主次の日もDIOがいなくてオロオロしてるよ。
安定のしょんぼりクオリティに全わたしが泣いた(なに)
更新日 2013.08.10(Sat)
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