世界よ、逆流しろ


4-4



 硬い感触と息の詰まるような感覚で徐に目を覚ました幸子。彼女の目に飛び込んできたものは――闇だった。微かに漏れる光から、埃の舞う今の場所の様子が少しだけうかがえた。
 けたたましいエンジン音が聞こえる事から、なにか車のようなものに乗せられているのだろう。そして、現在この押し込められている場所はトランクだ。もしここが車の中だとしたら、の話である。

(縛られてる……)

 意識が段々とはっきりして来ると、己の手足が縄できつく縛られていることに気が付いた。彼女は仕方なく、《クリア・エンプティ》を出して外の様子を伺おうと試みた。
 車だ。運転手が一人。それ以外はいない。トランクということは分かった。エジプトのどこかを走行しているらしく、トランクの外はメラメラと黄金色の光が辺りを焼いている。しかし――

(久しぶりの外なのに、どうしてこんなにも景色は灰色なのだろう)

 あの時見た、黄金色の光さえも、今は白いライトにしか見えない。緑の草草も、全て、灰色だ。唯一この灰色の世界で色味を持っていた男は、もうすでに彼女の傍にはいないだろう。いや、彼女があの場所を追い出されたのだ。
 何を目標に生きてゆけばいいのだろう。何を目的に生きてゆけばいいのだろう。何を頼りに生きてゆけばいいのだろう。もう家族も友人も知り合いもいない、この世界で、たった一人の何の取り柄もない女子高生が、どうやって生きてゆくのだろう。
 これから私は、どこへ連れてゆかれるのだろう。この広大な砂の大地に、一人、置いてけぼりにされてしまうのだろうか。

(もう、いい……)

 死んでも、いい。
 ほろり、と目元から熱い何かが流れ落ちる。持ち上がった瞼を、今度は徐に下ろしていった。

(あ……)

 キラリと光った物を反射的に《クリア・エンプティ》で掴み取る。そしてソレを自分の所まで引き寄せると彼女は《スタンド》でトランクの鍵を開け、そっと中へと持ち込んだ。
 鋭利な切っ先を縄に当てて一閃させる。ぱたりと縄が落ちて自由になった手で、彼女は次に足の縄を切った。次に、外の様子を再び《クリア・エンプティ》で確認した。――今なら、町が近い。
 トランクを再び開くと、彼女は走行中にも関わらず、そこから飛び降りた。危険な下車であったために、ゴロゴロと地面を転がる。砂だらけになって、擦り傷打撲だらけになって、それでも彼女は状態が落ち着くと立ち上がって、町に向かって走り出した。

(あれ、私なにやってんだろう)

 覚束ない足取りで息を切らし、傷だらけになっても、走り続けている。数メートル先の賑わう声が響く町へと、必死に足を動かしている。

「うがっ!?」

 甲高い音が聞こえたと思えば、右足に激痛が走った。見ると脹脛に弾奏がある。反射的に《クリア・エンプティ》で直し、彼女は走り続けた。振り返ると、車を運転していた男が銃口をこちらに向けて迫ってきている。

(どうして私、こんなに必死になって走ってるんだろう)

 もう生きる事を諦めたのだ。態々苦しい思いや痛い思いをして走らなくても、今立ち止まって捕まってしまえばいいではないか。殺してもらえばいいではないか。あの銃で、脳天を一発で打ち抜いて貰えばいいではないか。どうしてこんなにも、必死になって生きようとしているのだ。

「キャァア――――ッ!」

 悲鳴が上がったと思えば、発砲の際、巻き添えで一般人の何人かが撃たれる。幸子は「私の所為で」と罪悪感と焦燥感に駆られながら《クリア・エンプティ》で『治し』た。

(離れなきゃ、このままじゃあ町の人達に被害が広がっちゃう……!)

 人ごみに逃げればそれだけで逃げ切れる確率は上がるだろう。しかし、相手は犠牲を厭わないような輩だ。関係のない人間が傷つくのを、幸子は好まない。
 裏路地に入れる場所を探し始めた。急がなければ、と焦れば焦るほど呼吸が大きく乱れてゆく。

「あッ」
「おっと」

 人ごみをかき分けて縫うように走っていれば、眼前に突然一人の人間が現れた。

「ごめんなさいっ!」

 咄嗟に出た言葉はもう随分とご無沙汰だった日本語だった。今更ながら、母の母国語に愛着がわいたのか、それともこういう場面では日本語で言う事が多かったのか。相手が日本人である確率など、4割にも満たないにもかかわらず日本語をチョイスした彼女は、この緊迫とした状況下で混乱してしまっていたのだ。
 声からして男だった。それ以外は顔を上げなかった為に分からなかったが長身だという事だけ分かった。
 長身の男の顔などを確認もしないまま彼女はさっさと走っていった。

「OH!? 日本人?」

 男のそんな呟きを、必死に走る彼女の耳に届くことはなかった。


 * * *


 これでいい。これでいいのだ。
 最初から道具として利用するつもりだった。なぜなら、あのタイプの女――いや、老若男女問わず――このDIOにとって波長が合わない存在だった。
 全くの正反対だ。彼女は、まさに対局の存在だ。目指す理想にも、彼女の能力は真逆だった。だから、これでいい。あの男に、彼女の《スタンド》を取ってもらえばそれでいいのだ。
 だから、だから――

 ――こんなにも、胸を痛める必要などない。


 * * *


「抜けた……」

 漸く人ごみを抜け、彼女は人気の少ない路地をひた走る。まるで迷路のような道に四苦八苦しつつも足を止める事はなかった。

「あ……」

 走っていた彼女の足が、漸く止まった。彼女の見上げる先には、日本の平均女性よりも高い身長を持つ彼女の頭を優に越す壁が聳え立っていた。引き返そうとクルリと踵を返すと――

「漸く追いついたぜ、このクソアマァッ!」

 ギラギラと血走った目を幸子に向けた男が路地を塞いで立っていた。汗をだらだらと幸子以上に流している。

「よくも俺様の手を煩わせくれやがったなァ、この死にぞこないがッ。逃げたら生死は問わなくてもいいんだぜェ……さっきの傷がどうやって治っちまったのかは知らねえが、今度は治る暇もなく殺してやるよ」

 男は自分は殺し屋だと言う。DIOという男に破額の金で雇われたらしい。ある場所へと幸子の身柄を届ける事が仕事で、ただし、逃亡した場合は生死を問わず強制的に連れてゆく。

「DIOは、私を殺せと言ったの?」
「さあなァ。でも、執事からはそう聞いたぜェ」
「そう……」

 一人ぼっちになってしまった原因であるDIOにも見放され、もう彼女には何も残らないかった。
 灰色であった景色が、段々と黒ずんでゆくような気がした。

(なにやってんだかなァ、私……)

 あんなにも必死になってトランクから逃げ出して、あんなにも必死になって走って、あんなにも必死になって巻き添えになった人間たちの傷を『治し』ていって――いったい、何のためにもがいていたのだろう。DIOが気まぐれでも情けをかけてくれるとでも思っていたのだろうか。調和を乱したのは、彼女自身だというのに。
 幸子は深海のように深く、そして光の失った瞳で空を仰いだ。曇天でなく、青々とした快晴であるにも関わらず、彼女にはこれから雨でも降ってきてしまいそうなほど黒くなっているように思えた。

(なにも、見えない……なにも、ない……)

 カチリ、と男は手に持つ銃のハンマーを上げた。銃口は、幸子の眉間に向いている。

(どうして生きようとしたのだろう。どうしてあのトランクからでたのだろう……)

 あのときナイフを見つけなければ、あのとき目を覚まさなければ、あのとき《クリア・エンプティ》で外の様子を見なければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。

(あれ……)

 《黒い》空に、一つ、光る物が見えた気がした。月のように青々と冷たい光を落とすのではなく、一つ一つの光は小さいが力強く輝く小さな存在――星。

(ああ、そうだ)

 どうして逃げたのか、どうして生きようとしたのか。そんな事、決まっている。

「私が、《ここ》に生まれたからだ」

 男を見つめながら言う。男は彼女のそんな呟きを聞かずにトリガーに指をかけた。

「OH! MY! GOD!」

 暗殺者と幸子の声とは別の声が聞こえたと思えば、横から逞しく丸太の様な足が伸びてきて男の顔面をグシャグシャにしながら蹴り飛ばしてしまっていた。ぶっ飛ばされた男はそのまま壁に激突して気を失う。蹴りを入れた人物は、フン、と鼻を鳴らすと茫然とする幸子を振り返った。
 立派な白髪を頭と顎にたくわえ、歴戦の戦士とも思えるような体躯。190センチは優に超えているような身長は、腰を抜かしてへたり込みながら見上げる幸子の首が痛くなってしまうほど。

「大丈夫かね、御嬢さん?」

 黒に染まりつつあった灰色の世界が、また色鮮やかになった瞬間だった。


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