世界よ、逆流しろ


3-3



 規則正しい寝息が聞こえる闇の中、ただ一つ、怪しく蠢く人影がゆらりと揺れた。それは確実に、部屋の持ち主の眠るベッドへと近づいて行った。頭まですっぽりと毛布を被った部屋の持ち主は、剣呑な雰囲気にまるで気が付いていない。寝息に合わせて上下する腹部に、影は狙いを定め、持っていたナイフを振り被ると、一気に振り落とした。
 不気味なうめき声を上げながら、影はナイフを何度も何度も毛布のふくらみに向かって突き立てた。しかし、彼は感触がおかしい事に気づき、もしやと布団をめくる。すると、中から――何も出て来なかった。

「やっぱり、部屋に潜んでいたんですね」
「ひッ!?」

 暗闇の中で、凛とした声が響く。闇の訪問者は、その声にびくりと肩を震わせて悲鳴を上げた。しゅぼっ、という気の抜ける音と共に、仄かに部屋を照らす赤い光が灯った。それはテーブルの燭台にある三本の蝋燭に火をつける。更に明るくなると、声の主がハッキリとした。勿論、闇の襲撃者も。

「貴方は誰? 見ない顔ですけど……」

 燭台を手にして言うのは幸子、部屋の主だ。彼女が語りかける相手は、下着などを身に着けていないような恰好をした女性だった。豊満な胸を隠そうともせず、部屋着としても薄いだろうと思われるワンピースだけを身に着けているようだ。美人と言われる部類だろうが、髪は乱れ、表情は狂気の色をしており、とてもじゃあないが綺麗だとは到底思えなかった。

「どうしてこんな事、するんです?」

 女はなおも問いに答えない。ただ、持っているナイフを幸子の方へ向けて震えていた。
 一方、幸子は争いごとが嫌いな分、余計な事はしないつもりであった。理由さえ聞ければこのまま部屋を出て行ってもらい、後は何事もなかったかのように眠る、ただそれだけだ。

「あんたなんかに、DIO様は渡さないッ……あんたみたいな小娘なんかにッ!」
(……うわああ、この前の人とおんなじいいい!)

 幸子はうんざりすると共に、DIOは結構な豪遊者であるのかと理解した。とばっちりを食らう身にもなって欲しい。
 なんとかして、前回の女の時のように説得しようと試みた。しかし、ナイフを構える女は全く聞く耳を持たない。それどころか、ドレスや宝石、アクセサリーやこの部屋の多くの贈り物をどうやって説明するつもりだと吠える。

「あんたがお気に入りだなんて、絶対に認めないわ……私が一番なの、この私がッ!」
「分かりました、貴方が一番、私は下の下……私は捨てられた所をただ拾ってもらった身です、だから――」
「黙れ! 黙れ! 自分が一番だからって余裕ぶっこいてんじゃあねーぞ!」
(あーもー、面倒くさい)

 喧嘩は嫌いだ。争う事も闘う事も嫌いだ。必ず両者が傷つくし、一度始まれば誰かが割り切って身を引かない限り終わりがない。だから、幸子はどうにかこの終点の見えない口論に終止符を打つべく、考えた。

「ねえ、知ってます?……同じ事を二度言うのは無駄な事なんですよ、特に喧嘩の場合は。二度目があるという事は愚かだという事を自ら露呈させていると同じなんですよ」

 幸子は言うや否や走り出した。彼女の向かう先は、部屋の出入り口だ。

「無駄よ! ドアノブには私が何重にも縄を巻きつけて固定してあるのよ……このまま刺し殺してあげるわ!」

 しかし、女は知らなかった。幸子には、一般人には見えない《スタンド》という存在が居る事を。彼女が意のままに操ることのできる、守護霊の如く傍に佇むその存在を――

「な、に?」

 女は茫然となった。幸子が難なくドアを開いたからだ。実は《クリア・エンプティ》で縄を切断していたという事など彼女は思ってもみないだろう。更に、幸子はドアを閉めると《クリア・エンプティ》で縄を《治》し、逆に女を閉じ込めたのだった。

「これで少しは時間が稼げる……ッ」

 深夜にもなると廊下は冷える。薄い夜着しか身に着けていない幸子は、震えながら廊下を駆けた。

(あの女の人だったんだ! 手すりの一部に細工したのは、あの女の人だったんだ! 私を殺すために、DIOを自分の物にしたいがために……)

 幸子は、ただ静かに暮らしたかった。満天の星空を眺めながら、家族が見守ってくれているのではと思いつつ、楽しかった思い出を振り返りながら過ごす――それで満足だったのだ。だのに、この館では恩人DIOのお蔭で女の嫉妬に巻き込まれ、激しい憎悪を向けられるだけでなく命まで狙われる。もうさんざんだ。

「あっ……!」

 前方に、人影が見えた。彼女はその影に駆け寄る。男だった。男も、幸子の存在に気づいたようで、足を止め、目を丸くしながら見ていた。

「どうしたんだ、こんな夜更けに?」
「あ、あのっ……女の人が私の部屋に潜んでて、寝ている隙に私を殺そうとしてきて、それで逃げて来たんです」

 事情を説明すると、男はなるほど、と頷く。ノンビリとした彼の仕草と声音に緊張がほんの少しほぐれた気がした。

「そういえば、数時間前にここで階段事故があったような……」
「あ、はい……階段事故ではなくて、そこの手すりの一部が外れるというハプニングでした」
「危ねーなあ、おまけに廊下はこんな暗いんじゃあ更におっかねー」

 男は両手で自身の体を抱き震える真似をした。

「人は落っこちなかったのか?」
「落ちかけたけれど、助かりましたよ」
「ふうん、もしそのまま落っこちたらどうなってたんだろーなー……たとえば」
「え……」
「こんなふうにさぁ〜〜〜〜っ!」

 ゆらりと男が近寄ってきたと思えば、完全に油断していた幸子を両手で持ち上げると、なんと彼はそのまま手すりの向こう側へと彼女の体を投げてしまうではないか。彼女はギリギリのところで手すりの支えである棒を掴むも、体は宙ぶらりんの状態だった。

「いや〜、すまねーなあ御嬢さん、金で雇われたもんでよぉ〜〜。依頼されちまったらやるしかねーのよ……ま、恨むんなら俺じゃあなく依頼主を恨めや」
「くっ……ううっ……」

 男はケタケタと笑いながら闇の中へと消えて行った。
 つるりと滑るような加工が施されている為、手が滑る。幸子の手が、汗ばんでいるのも影響している。

「!」

 もう片方の手も同じように棒に掴まり、壁を蹴ってなんとか登ろうとしたその時、幸子の目の前に、あの女が現れた。闇の中でぼうっと突っ立っているその様はまさに幽霊そのものだ。ごくん、と幸子は生唾をのんだ。

「しね、シネ、死ねええええ!」
「いっ!」

 幸子の全体重を支える両手を、女は容赦なく蹴った。思わず手を放しそうになるものの、落ちる恐怖があるからか、彼女の手はがっしりと棒を掴んでいる。蹴られてジンジンと感じる痛みは《クリア・エンプティ》で治す。なかなか手を放さない現状に焦燥したのか、女はついに持っていたナイフで手を傷つけようとしてきた。まずは左手を狙われる。

「う、わ!?」

 流石にナイフは無理だったのか、幸子は狙われた左手を放してしまった。これで、体重を支えるのは右手のみとなってしまった。

「ふっ、ふふ……ふふふ……あんたが悪いのよ、あんたが、あんたが……!」

 もはや正気の沙汰ではない。目は血走り、口は猟奇的な言を発し、顔は狂気じみた笑みを浮かべている。

「死ねええ――――ッ!」

 女はナイフを振りかざした。


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