15-3
誘拐されてから72時間とちょっとが経過していた。約三日ほどである。久々にすったしゃばの空気はとても上手いなんてもんじゃあなかった。頬を撫でる柔らかな風に澄み切った青空は、72時間ぶりに太陽の下に出てきた私を祝福しているようにしか感じられなかった。
承太郎さんと仗助君を伴って家に帰れば、出迎えてくれたのは涙でグシャグシャになった顔を下げて飛び出してきた兄弟達。縹以外の三人が、近所迷惑この上ない大音声を上げて「びーびー」と泣く姿はもう目も当てられなかった。おまけに、力もない私に三人一斉に飛び掛かって来るものだから、そのまま押し倒されてしまう始末。
カエルがつぶれるときに出すような声を上げてから、私は地面を何度もバシバシとタップし、暫くして自分の《レディアント・ヴァルキリー》で脱出したのだ。みんな、微笑ましいと言いたげな表情で見ているだけで助けてくれなかったんだッ。いや、真面目に苦しくて助けて欲しかったんですけどもッ?
「それじゃあ話せるようになったら連絡くれ」
「あ、はっはいッ」
承太郎さんは言って背を向けた。けれど、そんな大きな背中にありがとうは言わない。というよりも、ここに送られている間、お礼を言ったら「当たり前の事なんだからソレは野暮って奴だぜ」ととてもハンサムな笑顔で言われてしまい、もう自分、閉口する他なかったっス。仲間だから、とか当たり前、とか――うう、素敵な響き。
じ〜〜んと来ている私の胸の内が読めているのか、承太郎さんはニヤリと笑いながら帽子の鍔を引いて「じゃあな」と言って颯爽と去って行った。仗助君も一言、縹に向かって「じゃあな」と言って隣の家に帰って行った。
「お姉ちゃっお姉ちゃっ!」
「……なあに?」
「ん」はどこへやったという突っ込みはこの際なしで、目の前に居る蒲公英に視線を落とした。彼女は、爛々と目を輝かせて私を見上げている。
「ごはん、みんなで作りました!」
「みんな? 兄弟全員で?」
「はい〜」
得意げに言う蒲公英。その彼女の隣で、木賊も得意げに頷いていた。
じゃあ、食べようかな。私がそう言うと、小さい子二人はグイグイと私の腕を引いて、その「ごはん」がある食卓へ連れて行こうとする。後ろからは、次女の茜が茶々入れしたり、縹が呆れながらついてくる。
(ああ、帰ってきたんだなあ)
そう思うと、瞬間、じんわりと胸が熱くなった。
その日の夜――
私は食事と入浴、その他もろもろを済ませて私は久々に自分の部屋へと入った。約三日ぶり、だ。何も変わっていなくて、ちょっとほっとした。
徐にベッドへと倒れ込むと、ふんわりと自分がいつも寝ている時に嗅いでいる香りが鼻孔をくすぐった。胸いっぱいにそれを吸い込むと、安心感が胸を満たしていく。肌になじんだシーツの感触を確かめるように頬擦りすると、その安心感が倍増していくように感じる。
「……」
ぱちり、と閉じていた目を開き、私はただボーっと虚空を見つめた。
頭の中では未だに今日までの出来事、つまり、吉良さんとの生活(?)から抜け出せていないように感じていた。仲間と再会できたし、兄弟とも(ほぼ一方的だけど)抱き合ったし、両親とも話せたし――途中、警察が来て怯えたけれどさ――、一体何が原因で私は、未だにあの《家》に囚われているのだろうか。
ぐるぐると思考の半数以上を占めているのは、吉良さんの顔。もしかしたら、彼がひょっこりこの家に『帰って来るかもしれない』なんて馬鹿な事を考えている。また、『閉じ込められる』なんて思っている。
そんなはずない、そんなはずない。何度自分にそう暗示をかけてもぬぐえない不安。それはじわじわと私の精神を内側から蝕んで行っている。
「っ!」
私はたまらず布団の中に潜った。この時期、絶対に寝汗とか半端じゃあないと思うけれど、そんなのお構いなしだ。ブルブルと極寒の地で立っているみたいに震え、噛みあわない歯をガチガチと鳴らす。
怖い、怖い、怖い――布団の中で無様に丸くなり、怯えながら私は朝が来るのをひたすらに待ったのだった。
* * *
本当は、一緒に行くつもりなどなかった。今日はいつもよりキメの悪いリーゼントを気にしながら歩く東方仗助は思った。彼の横には、ボーっと心ここに非ずといった顔に覚束ない足取りで歩く桔梗がいる。
本当に、一緒に登校するつもりはなかった。気まずいし、どう接すればようか分からないし、彼としても罪悪感が強くいっそ自分と歩かない方がいいのではないのかとさえ思う。更に、煮え切らないというか、はっきりとしない彼女の態度にどうしても苛立ちを覚えられずにはいられない。これは、この状況を打破できる能力のない己への苛立ちと、(理不尽だろうが)そんな自分になにも言ってこない彼女への苛立ちだ。しかし、彼の母、東方朋子が。
「誘拐されたばっかりだし、一緒についていてやんなよ!……気まずいィ? 男なんだからそんな小さい事気にしてんじゃねーわよ!」
母は強しとはこの事か。どうしても自分の母親には何だかんだで頭の上がらない不良である仗助は、渋々頷いた昨日――そして本日は、昨日からだが笑顔が殆どうかがえない桔梗と共に登校中である。時々笑みを見せるが、無理に笑っているのが明らかで、それが更に苛立ちを蓄積する原因となっていた。しかし、吉良の家で漸く見つけた時に見せた笑顔、それは本物だった。心から、安堵して喜んだ、そんな泣き笑い顔だった。
ああ、そうだ――吉良の家で彼女が致死量になりかねない程に出血していた姿を見た時は背筋がゾッとした。彼の能力である《クレイジー・ダイアモンド》は、どんなものでも元通りに『治す』事が出来る。しかし、『死んだ人間』は治せない。傷ついた体は戻せても、『魂』までは元には戻らないのだ。だから、である。だから焦ったのだ。もし、『死んでしまった』ら、と。承太郎に「まだ生きている」と言われた時は、どれほど安堵しただろうか。横の彼女はどうせ気づきもしないのだろう。
桔梗は、終始無言であった。仗助も、彼女同様に無言を貫いていた。
(そういえば、今までどうやって話してたんだっけな)
今まで、ほとんど何も考えずに会話をしていたように思う。話しているだけで彼女の笑顔が自然と零れていたように、横に彼女が居れば自然と言葉がポンポンと思い浮かんでいたのかもしれない。
もう、二度と見せる事がなくなってしまうのだろうか。そんな懸念さえ抱いてしまう程、彼女の表情には笑顔がない。時間が解決してくれるだろうか? いや、そんな甘いモノではなさそうな予感がする。『あの』吉良吉影と衣食住を共にしていたのだ、『あの』凶悪殺人鬼と。救出した時、家でどのように過ごしていたのか何があったのかを問いただしても、上手く言葉が紡げないのかそれとも話せないような出来事だったのか、言葉を濁すばかりであった。その時、揺らぐ彼女の瞳を見て、まさかと仗助はひとつの嫌な考えを脳裏によぎらせた。
そもそも殺人鬼は、一体何のために『例外的に』桔梗を誘拐して傍に置いていたのだろうか。『女を殺さずにはいられない』性格をしている彼が、何故彼女を殺さずにいたのだろうか。好みの手だったから? それとも――体目当てか?
絶対にそうだと思いたくない。けれど、兄弟の縹に対しても頑として口を割らなかった所を見ると、『兄弟だから』という理由の可能性がある。
信じたくない。それが一番の本音。何故ならば、彼はまだ彼女に――
(ん?)
仗助はふと、桔梗の顔を見て気づく。今にもくっ付いてしまいそうになる瞼に皺が刻まれてゆく眉間、かくかくと前後する頭部――これは明らかに。
「眠いのか?」
「……へっ? え、え、あ、う?」
声をかけると、流しそうになるも、持ち前の律義さで彼女はハッと意識を現実に戻したようだ。何を言われたのかは理解していないものの、声をかけられたという事は感知しているようだ。パチリと目を開き、彼女はあたりをキョロキョロと見渡す。そんな姿があまりにもおかしくて、先程からマイナス思考だったにもかかわらず、思わず失笑してしまった。
急に笑い出した仗助に、桔梗は驚いて彼を見上げた。何をそんなに笑っているのか、という疑問をバシバシと送ってくる丸くて大きな目に、彼は焦点を合わせる。
「いやあよ、オメーがあまりにも眠たそうな顔してんで、つい、な……ブクク」
「え、そっそんな変な顔してたのっ!?」
「おお〜、おもしれえ顔してたぜェ〜〜」
「うわああああ……」
にんまり、と笑いながら焦る彼女の顔を覗き込むと、彼女は羞恥心で赤くなった顔を両手で覆い隠しながら言葉にならない声を上げた。ちなみに耳まで真っ赤である。――と思えば、彼女は自分の顔を両手で揉みくちゃにして、最終的にバチン、と頬を叩くと。
「これでもう眠くならないよっ」
と自信ありげに言う。そういう自信がどこからやってくるのか常々疑問になる。《ドデカ・マンジュウ》とか《ドデカ・マンジュウ》とか。
「どうだかな〜。どーせまた眠たくなるに決まってるぜ」
「う、う……うう〜〜」
その通り過ぎて、ぐうの声も出ないのか、彼女はふて腐れたように足元に視線を落とした。
無表情、似非笑以外の顔を、今日、久々に見られた。
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