9-2
広瀬康一は絶望していた。崖っぷちに追い詰められた野兎のように、彼は絶望の淵に立っていた。岸辺露伴の《スタンド能力》である《天国への扉》の所為で、彼は『安全装置』をかけられてしまっているのだ。『岸辺露伴を攻撃できない』と。だから、『助けを呼ぶこと』も出来ない。
広瀬康一は絶望感にさいなまれながら、よろよろと再び岸辺露伴の仕事部屋へと戻る。彼の心境などつゆ知らず、岸辺露伴は一心不乱に漫画原稿を描いていた。しかし――その手がピタリと止まる。
「誰かがこの屋敷内に……入っている……今!! 玄関で何をやってきたッ! 康一君ッ!」
「え?」
広瀬康一には覚えがない。それもそのはず、彼らに助けを求める事が出来なかったのだから、当然、岸辺露伴の言っている意味が理解できない。
しかし、彼は見る。岸辺露伴のちょうど背にある窓辺に、足をかけて入ってくる――虹村億泰の姿を。
「あああ〜〜っ! 億泰君!」
フンッ! と鼻息荒く乗り込んできた億泰。彼の姿を見た瞬間、康一の絶望感が一瞬にして吹っ飛んだ。
「おお〜〜〜〜っと! 振り向くんじゃあねーぞ――ッ、テメエ〜〜ッ。妙な動きしてみろよ〜〜〜〜。《スタンド》たたっこむからよォ〜〜! ダボがァ!」
億泰は、背を向けたままの露伴を睨みつけたままついに部屋へと侵入した。康一は、なぜ己が危険な目に遭っているのか知ってもらえたのかさっぱりだったが、そんな事は今はどうでもよかった。
歓喜ッ、歓喜が彼の胸でファンファーレを吹いている!
「偶然悟られたというわけらしいな。康一君……今気づいた事だが、君の手の傷が異常事態の合図になってしまったんだ」
這いずっているときにどこかで擦ったか引っ掻けたかで、手を怪我していると指摘する露伴に言われて康一は自身の手を見た。すると、彼の指摘通り、本当に怪我をして血を流していたのだ。これに、目敏く気づいてもらったがために、康一の目の前に、今、億泰が立っているのだろう。
しかし、未だ岸辺露伴の不敵な笑みは変わらない。このような不測の事態に陥っていたとしても、漫画家の彼はパニックになったりなどしないのだ。
「それで分かったんだろ? 虹村億泰君。スタンド名は《ザ・ハンド》、君は死んだ兄『形兆』にコンプレックスを抱いており、何かを『決断』する時いつも……「こんなとき『兄貴』がいてくれればなあ〜」と思っている」
億泰は、この岸辺露伴の言葉には動揺した。彼はこう考えているだろう。「名乗っても、ましてやスタンド名も教えていないのに、なぜ知っている」と。そして同時に、「これは奴のスタンド能力の所為だ」と考えている。
彼の表情は、先程のように勢いのある笑みではなく、不気味な物をみながらも怒りで誤魔化しているようなものになっていた。彼は、怒気を上げて康一に、彼のスタンド能力はなんなのかを問いただす。しかし、康一にはそれを答える事が出来なかった。『安全装置』がかけられているからである。
くるぅう……と露伴は椅子を回転させて億泰の方を向いた。そんな彼に億泰は「動くな!」と再び忠告する。しかし、今の彼には動揺の所為でかまるで覇気がない。
「『兄弟』を餌に敵の動揺を誘う作戦ですか……確かに効果的といえばそうですが、私にとってみれば酷く落第点だらけな作戦ですよ」
「桔梗さんッ!」
露伴が億泰を「資料にする」と宣言してから仕事部屋の入り口から入って来たのは、山吹桔梗。彼女は、いつもの温厚な表情をどこへ置いて行ってしまったのか、鋭利な双眸で椅子に悠々と腰掛けている露伴を見ていた。彼女の傍にはすでに《レディアント・ヴァルキリー》が控えている。
彼女は、怒っていた。彼女は、家族……いや、兄弟をとても大切にしている優しくて良い長女である。だからこそ、なのだろう。「兄」を餌に億泰を動揺させている岸辺露伴が許せなかったのだ。
康一は、初めて見る、剣呑な桔梗の表情に息をのむ。彼女にも、このような一面があるとは知らなかった。
「山吹桔梗か、スタンド名は《R・ヴァルキリー》……真面目で優しく喧嘩が嫌いな性格で、運動神経は並の上程、最近までストーカー被害に悩まされていたみたいだね」
「ええ、そうですね。でも頼もしい友達のお蔭で何とかなりました」
「……ふうん」
意外にも動揺せず堂々たる態度を見せた彼女に、岸辺露伴は……気分を害した様子もなく、面白いものを見ている風にニヤリと口角を上げた。
「本」にされている康一は、思わず桔梗を見上げていた。彼の目に映るのは、「ストーカー野郎」に怯える少女でもなく、かといって虚勢をはるような弱虫でもなく、そこには、確固たる闘志を宿す瞳を携えた一人の「戦士」が立っていた。
「康一君をもとに戻して下さい。そうすれば億泰君も貴方に危害を加える事はありません……ね、億泰君」
「何言ってんだよ! 一発くらいは――」
「ね、億泰君」
「……おう」
桔梗は決して億泰へ視線を向ける事はなかった。椅子に座る露伴から目をそらす事なく、会話を展開させている。そんな彼女に、流し目で見る彼。
一瞬、静寂が部屋を包む。
ごくり、と康一が息をのむ。そんな彼の額には脂汗が滲んでいた。それはゆっくりと彼の頬を伝い、そして、ぴしゃん、と床に落ちた。
「だァアアアア!! もう考えるのメンドクセェ――――ッ!!!!」
静寂を破って攻撃を仕掛けたのは億泰だった。彼はこの一瞬間の中で何かと葛藤し考えていたようだが、彼の脳みそはそこまで詰まっていなかったようだ。混濁する思考回路をリセットすると単純明快至ってシンプル・イズ・ザ・ベストな、「《スタンド》で攻撃する」というただ一つの答えを出して動く。
対して露伴は、待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべると、デスクに置いてあった原稿を素早く手にする。そして、なんと億泰の《ザ・ハンド》の拳が当たる前に自身の描いた原稿を「見せた」のだ。
「おあああああああああああああ!!!?」
億泰の《ザ・ハンド》の拳は露伴の顔面に叩き込まれる事無く、突き出した拳からみるみる「本」にされていく。もちろん、スタンドのダメージはそのまま本体の億泰にフィードバックしてくるので、億泰も「本」にされてしまった。
「えッ、な、おっ億泰君!?」
桔梗は状況が読み込めずにいたが――彼女は辛うじて目が悪いために露伴の絵を「見る」事はなかった。
彼の《ヘブンズ・ドアー》は、自分の絵を見せなくてはならない。そこにミソがあった。おそらく、相手が「見て」も「認識」――つまり「見えていな」ければ――しなければ発動しないのだろう。現に、目の悪い彼女は、絵を何だか「認識」出来なかったために無傷である。彼女は億泰の状態を見てとっさに《R・ヴァルキリー》の盾で身を隠してしまった。
思いの他、影響を受けていない彼女に対し、露伴は「ちっ」と舌打ちをする。
半身が「本」にされてしまった億泰は、その場に倒れこむ。片足が「本」になっている為、立っていられないのである。
「東方仗助……そこにいるな」
露伴は、すでに倒したも同然な億泰など眼中にないのか、部屋の入口に視線を向けて言う。桔梗は、ぎくり、とした表情を浮かべた。彼女はどうやら嘘が苦手らしい。
ちらり、と露伴は手元にある康一の「記憶の断片」である一枚を見た。あまり桔梗についての事には書かれておらず、表面的な性格やスタンド能力、スタンド名、それと最近のものでは「『ピンクダークの少年』が面白かったと喜んでいた」というくらいだ。
――さて、どうやって彼女を完全に技に嵌める事が出来るだろう。
岸辺露伴はニヤリと口角を上げた。
* * *
私は一度落ち着こうと、一呼吸を置いてから、床に伏せる億泰君と康一君を見た。二人とも、奇妙な事に「本」にされてしまっていた。これも、今私の目の前で悠々と椅子に腰かける「岸辺露伴」の《スタンド能力》なのだろう。
「うわあああ――ッ、なんだこりゃあああああ!!!!」
(億泰君、声、大きいよ。混乱しているのは分かるがもう少し声のトーンを……いや、これは彼が騒げば後ろの、入口のところに隠れている仗助君に状況が伝わりやすいかも?)
本当は、億泰君が敵の注意をひきつけて云々――だったのに、意外とあの「露伴」という人がやり手で作戦が狂ってしまった。漫画家は常にいろいろな状況を想定してしまうらしい。
この時、私は思った。漫画家とは実は恐ろしい職業だというと同時に、「この人に能力を知られてしまってはいけない」と。この人の能力は億泰君のおかげで分かったようなもんだ。
この人は、私の「盾」が内側から透けて見える事を知らない。康一君と億泰君に教えていないからだ。別に意図したわけではなく、ただ単に言い忘れていただけ。知っているのは兄弟と仗助君、そして承太郎さんのみだ。だから、露伴さんは私の能力を知る為には承太郎さんや兄弟、そしてこの場にいる私か仗助君を「本」にしなければ知る事は出来ない。
もし、透けて見える事が知られれば、おそらく露伴さんは盾の真正面に自分の描いた原稿を見せてくるだろう。そうなれば、私はもう億泰君や康一君のようにならざるを得ない。
(自分の能力を知られるという事が……こんなにも恐ろしいだなんて、思わなかった)
ゴクリと私は唾を飲み込んだ。
気持ち悪かった。
(助けなきゃ、私が、何とか二人を助けなきゃッ……)
正直に言おう。私はいま半ばパニックになっている。態度には出していないから悟られてはいないものの、この状況で戦いなれていない私には十分に最悪なそれで、完全に冷静さを欠いてしまっていた。
「さてと、康一君、君に質問があるんだ」
パニックの元凶である露伴さんは、椅子に悠々と腰掛けながら言った。
「何故『東方仗助』はあのドアの陰に隠れていると思うね?」
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