7-3
嬬恋晃は、木から落ちる。余りの衝撃に体は軋み、なかなかいう事を聞かない。足の骨もどうやら折ってしまったようだ。
「僕との因縁に終止符だって?……因縁なんかじゃない、赤い糸さ! 僕と君は運命の赤い糸で結ばれた恋人なんだ!」
しかし、痛い。とても、体中が痛くて動かせない。このような怪我をしたのは初めてだ。いつも、そう、いつも怪我をするのは桔梗か、彼女に近づいた人間達だけだ。
『何が好きだよ、なにが愛してるだよ……貴方は私なんかの事、本当に好きでも愛してるわけでもない』
不意に、脳裏をかすめた彼女の言葉。それを振り払うかのように彼は頭を振った。
「違う、僕は君を愛している。ずっと誰よりも君を見てきた。君の事を考えながら毎日眠り、君の事だけを考えながら人を殺した」
そうさ、自分が正しい。自分の気持ちは自分がよく理解しているのだ。相手が何と言おうと、たとえ愛しい彼女の言葉であろうと、関係ない。
『どんなに怖くてもどんなに憶病でも、他人を利用せずに真正面からぶつかっていくでしょ! 男なら、それくらいの度胸があって当然! なのに貴方ときたら、スタンドも見えない一般人の命を弄んだ挙句、私に姿も現す事もなくただひたすらに恐怖を与え、追い掛け回して!』
「違う、僕は……僕は……」
ガリガリガリガリ、彼は自身の頭皮を掻き毟り始める。しまいには、バリバリバリバリという激しい音が聞こえるくらいにまでその勢いは高まっていった。
『大っ嫌い!』
嬬恋の中で、何かが切れた。
バリバリと引っ掻いていた手を止め、彼は不敵に笑う。血走った瞳には、夕焼けはおろか、下校中の学生たちの姿も映ってすらいなかった。ただ、彼の眼にはそこには存在していない筈の彼女の姿だけがあった。
「大っ嫌いだって? こんなにも僕は君を愛しているのに、大っ嫌い?……ふっふふ、ふふふふふ……」
ぶっ殺してやる。ぎょろり、と彼の大きくて不気味な瞳が上を向いた。
彼は骨が折れているのも構わずに起き上がると歩き始める。ずんずんと、無理矢理に足をただの執念という感情の塊だけで動かしている。
「殺してやる、そんでもって僕の《ピンク・フロイド》で操るんだ。君は、一生僕の可愛い木偶人形さ……ハハッ、アハハハハッ!!」
高笑いをしながら、重傷の足を引きずりながら、彼は彼女の元へと歩を進める。
不思議そうな目で見つめてくる学生たちの横を通り過ぎ、ぐんぐんと目的の校舎へと向かっていった。そして、見つけた――見つけてしまった。
「ああ、その目……実際に見るともっとゾクゾクして興奮するよ」
恐怖に負けんとする健気だが強かな光を宿す双眸。シンプルに一つに結い上げた髪が風に弄ばれていながらも、スカートから伸びる華奢な足のつがいはしっかりと地面に踏ん張っている様はなんとも言い難い程の熱い思いを抱かせる。
彼女の後ろには東方仗助もいたが、今の嬬恋には、桔梗その人しか見えていなかった。
「ふ、ふふ……いつまで僕のスタンドに触れいているつもりだい?」
彼のスタンドである《ピンク・フロイド》の皺枯れた腕を彼女の腕に食い込ませる。
「僕のスタンドは肉体から入り精神を乗っ取る! 安易に触れて術中に嵌ったんだよォ―――ッ!!」
ぐじゅぐじゅと食い込んでいく己のスタンド。
ああ、ついに自分は彼女と一つになるのか。長年の思いがこれで成就する。そう確信してニヤリと微笑んだ彼だが、次の瞬間、その表情は驚愕に染まっていく。
「どう、して……どうして乗っ取れない! なぜ!」
桔梗はただ静観するだけ。背後の仗助も、《クレイジー・ダイアモンド》すら出さずにただ見守っている。
「まさか……僕より上だというのか……《意思の強さ》が、《僕よりも上だから乗っ取れない》のだというのか!?」
いつまでも掴んでいる理由もないのか、桔梗は数歩歩み寄ると、動けない嬬恋に彼の《スタンド》を投げ返した。彼女は、そのまま再び静観する。
嬬恋は愕然とした。
(ぼ、僕は……精神に作用する分、その人間の考えている事や想っている事が分かる……)
彼は、がっくりと膝をつく。そして、下がる視線を、ゆっくりと彼女の視線に合わせた。
「まさか、そんな……君は、もう既に《考えて》いたのか、そんな事を!」
彼女は答えない。ただ、静かに、そして悲しげな視線を送るだけだった。
「僕が君を殺そうと考えている時に、君は……僕がどうやってこの世で平和に暮らせるのかを、考えていたというのかい?」
彼女の精神を乗っ取ろうとした時、読み取れ得た彼女の感情は、実にシンプルで実に優しいものだった。
ストーカー野郎にも、きっと家族がいるだろう。学生なら、なおさら両親や兄弟だって、他にも友人もいるかもしれない。そんな彼がもし、「ストーカー犯罪」として刑務所かまたは少年院に入ったとして、果たして世間に戻った時、冷たい目で見られはしないだろうか。もしそうなってしまったら、いくら悪人とは言えど可哀想だ。
それは彼女の慈悲だった。それは、彼女の最大の慈愛だった。どんなに自身が追い込まれた経験があろうとも、彼女は、その相手に、慈悲を抱いたのであった。温かく、そして優しく包み込むように。
「負けた……完敗だ……いや、最初から、僕は負けていたんだ」
「……そうでも、ないと思うよ」
「え?」
不意に、落ちてきた声。漸く自分の耳で聞いた彼女の声は、他の人間や己の《スタンド》で聞いた物よりも、綺麗だった。
桔梗はフッと笑うと打ちひしがれる嬬恋にゆっくりと歩み寄る。そして、目線を合わせるようにして膝を折ってかがむと、再び笑った。今度は、苦笑だった。
「私はずっと逃げてきた。怖くて逃げてきた」
「う、あ……」
「けれど、仗助君達と関わって変わった。逃げちゃあダメなんだって。真正面からぶつかって正直にならなくちゃって、思えるようになった」
「あ……あ……」
「これから、貴方には今までしてきた事を全て償ってもらう……けれど、きっと、それは難しいだろうから、私も一緒に、どうやって償っていこうか考えてあげる……私も、たくさんの人に迷惑をかけたから」
「ね?」そう言って首をかしげながら微笑む彼女の姿は嬬恋にとって、ナポレオンが自身の象徴に英雄として掲げた聖女ジャンヌ・ダルクや、キリスト教者が聖女と崇めるマリアよりも神々しく見えた。
彼は、眩しそうに目を細めると、ゆっくりと頷いた。
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