もうすぐ、一週間が経つ。
ヴォルデモートさんの書斎で本を読み、眠くまでの時間を過ごす。数日前となんら変わりなく過ごしているけれど、一つ違うとしたら彼がここに居ない事でしょうか。それだけの事なのに、なんだかつまらなくって仕方ない。


「ヴォルデモートさん、まだ……ふあ」


続く筈だった、帰って来ないのかな、という言葉を、あくびと一緒にのみ込む。

あまりに暇だと、色々な事を考えてしまう。
先日ルシウスさんとお茶をした時に心の中で思った事は、そっくりそのままヴォルデモートさんとの関係にも言えるのだと気づいてしまったからだ。

この世界の人々に対し、物語の登場人物以上として接するという事が何を意味するか、分からない程馬鹿じゃない。だから今、こんなにも辛いのであって。
こうならないようにと、気をつけていた筈なのに。
いつの間にか私はこの世界に……特にヴォルデモートさんに、執着と依存を覚え始めている。それも、大分前から。

頑張って、精一杯目を逸らして来たつもりだった。
元居た世界を思い出す事で、自分はこの世界にとって異質な存在であり、目に映り肌に触れ耳に届くそのすべてがいずれは消える幻想で、だから深入りしてはいけないのだと、そう何度も言い聞かせて。……そのたび胸が痛くなるのも、ただの気のせいだと、誤魔化して。

ヴォルデモートさんへの恋情だって、本当は気づきたくなかった。
胸の内に押しとどめる事しか出来ないものなんて、何の意味があるというのでしょう。
それでも、ヴォルデモートさんを好きにならなければよかった、なんて思えない。なってよかったとも、思わないけれど。

視界が、ゆらりと揺らめく。目に溜まる熱いもののせいだと気づき、慌てて袖でごしごしと拭った。
ああもう、


「ヴォルデモートさんなんかハゲちゃえ……」


口を尖らせて、どうにもならない苛立ちを居ない人にぶつけた。
ハゲになったヴォルデモートさんを想像してみると、ちょっと楽しくなる。
口元に手を当てて必死に笑いを堪えた。そのせいで、私は背後に迫る彼にまったく気付かなかった。


「ほう? 随分と楽しそうではないか、firstname」
「っ!」


声にならない悲鳴と同時に、がっしりと頭を掴まれる。その腕にギギギ、とゆっくりだけれど確かに強い力で、強制的に後ろを向かされた。見なくたって、誰だかなんて分かる。


「お、おかえりなさい、です……ヴォルデモートさん」


少々サディステイックに口元を緩めながら、私を見降ろす赤い瞳。発った時と変わらない様子で居る彼に、少し安心する。
運悪く、今の独り言を聞かれてしまっていたようだ。慌てて、さっきのは冗談ですよ、と顔を引き攣らせながら笑うと、痛いくらいに私の頭を掴んでいた腕がようやく放された。


「お前のその口は災いの元にしかならんと、いい加減に覚えたらどうだ」
「あははー……だってまさかいらっしゃるとは」


……あれ、どうして。
私の記憶が正しければ、まだ一週間も経って居ないはずだったような。
疑問を目で問うと、彼はふん、と得意げな顔をした。


「私を誰だと思っている?」
「……ヴォルデモートさん?」


もしくは、闇の帝王様。


「理由など、それだけで事足りる」


つまり、早めに終わらせてお帰りになったと。
なるほど納得しました、と頷くと、彼は満足そうに目を細めた。

最悪、一週間以上お帰りにならないかも、とつい昨日思っていたのに。嬉しい誤算に、頬がにやけてしまうのを止められない。

幸か不幸か、ヴォルデモートさんはそんな私をまったく気にせず、その長身を包んでいたローブを脱ぎ捨て、もう一つのソファーに背を預け深く身を沈めた。
ふっとため息を吐き出し、ゆるやかにその赤を目蓋の奥に隠す。

……もしかして、


「お疲れですか……?」
「……」


答える気力すら、残ってないのだろうか。
今までにない程濃い疲労の色を見せるその様子に、不安になる。少し悩んだ末、ランプの灯りを弱くしてから、なるべく音を立てずに彼の隣に腰を下ろしてみた。
ヴォルデモートさんの顔を覗き込んでみると、数日前見た時よりも、目の下にある陰が濃さを増している。

気づけば、自然とその青白い頬に手が伸びていた。
その瞬間に閉じられていた目蓋が薄く開けられ、赤い目が私を見る。普段と変わらない、こちらを射るような眼差し。


「っわ!?」


触れたいと伸ばした手の首を掴まれて、思わず叫んだ。


「気安く触れるな」
「……え」


どくん、と心臓がうるさく鳴る。


「そう言ったのはお前だろう」


呆然としている私の反応が面白かったのか、ヴォルデモートさんはにやりと笑った。
言ったのは、お前だろう。そう呆れるように言われて、私は頭の中のクローゼットから数々の記憶を引っ張り出す。

……そういえば以前、同じセリフを私は冗談交じりに口にした気がする。
という事は、彼の今の言葉も本気じゃない。ほっとして、肩の力が抜けていく。
ああそうだ、私ったら。ヴォルデモートさんが、私にそんな事をおっしゃる筈、無いのに。


「あんなの、ただの冗談です……」


何に言い訳をしているのか、自分でも分からない。けれど冗談とは言え、先に言ったのは私。ばつが悪くて、目を逸らした。


「ほう。ならば私がこうして触れても、不満は無いと?」
「え、あっ……!」


楽しそうな声音で、ヴォルデモートさんは握り締めていた私の手首を、自らのほうへぐいっと引っ張った。咄嗟の事に反応が出来ず、私の上半身は彼の大きな胸板に寄り添うことになる。


「な、に……」


抗議をしようと顔を上げると、ヴォルデモートさんの瞳がすぐ近くでこちらを見下ろしていて、結局何も言えずに、たちまち私の鼓動は早くなる。
本来なら鮮やかなルビーを宿している瞳は、ランプのぼんやりとした灯りに照らされてほんの少しオレンジがかっていた。その美しさに目が釘付けになっている自分が、まるで鏡のように映される。
彼の瞳の中に居るのは私だけという、ひどく甘いよろこび。


「逃げないのか」
「っ……」
「大人しいお前は気味が悪い」


ただ小さく息を呑むばかりの私を、うっとりするような低い声で笑った彼は、もう一方の手を私の頬へと滑らせた。紅潮し熱くなったその部分に、冷たい指先が触れられる事はとても心地が良い。


「firstname」


何の変哲もない自分の名前が、ヴォルデモートさんに呼ばれるだけでこんなにも尊い響きで耳に残る。
もっと名前を呼んで欲しい、なんて願ってしまう。

頬が、先程よりもずっと熱い。
くすぐられるような指先の動きに目を伏せ、じっと身を強張らせて居れば、掴まれた腕や重なり合わせた上半身から、それぞれの体温が伝わっていく。
次第に、頬をもてあそんでいた長い指が、唇に添えられた。硬い爪先や骨ばった指が、薄く閉じているそれをそっとなぞる。

恐る恐る、彼の赤い瞳を見上げれば、ふわり、と優しい微笑みが私を見下ろした。その表情に、心臓がゆるやかに早鐘を打ち、得体の知れない懐かしさが胸を満たしていく。

まるで、宝物を扱うかのような優しい触れ方。
このままいつまでもとらわれていたくなる、けれど、私はここでこの手を振り払わなければいけない。
ぎゅっとスカートを握り締め、息を吸って口を開く。


「い…………、」


嫌だと、言えない。
たった二文字、されど二文字。
どうしても紡げなくて、開いた唇をきゅっと結んだ。

この手を享受するのは、きっと、拒絶される辛さ、痛みを私は知っているから。
例え一時の気まぐれだとしても、優しくして下さる彼を拒んで、傷つける事をしたくなくて。
……ううん、そんなのは都合の良い自己満足。
本当は、こうしてヴォルデモートさんに触れられる事が、私は嬉しくて、嬉しくて堪らないんだから。

自覚した途端、急に恥ずかしさが募る。
赤くなった顔を見せたくなくて、俯いた。きっと私は今、とても情けない表情をしているんだろうな。
酔いから醒めるように、少しずつ思考が冷静になっていく。

私ひとり、こんなにみっともなく意識して、馬鹿みたい。
こんなの、彼にとってはただの戯れに過ぎないというのに。

そっと片手を添え、私の唇をなぞっているその指を引き離す。ついでに掴まれていたほうの手を引き抜こうとすると、拍子抜けするほど簡単に解放された。
ヴォルデモートさんが、瞳を細める。


「あ、の……」


話を切り出したけれど、肝心の言葉が浮かばない。ヴォルデモートさんが留守にしてからの数日間、色んな事を言いたくて話したくて堪らなかったのに、不思議だ。


「ご、誤魔化さないで、下さい。……お疲れなのでしょう?」


先程自分がされたように、彼の青白い頬に手を伸ばした。触れた肌は、思ったよりあたたかい。
私の突然の行動に、ヴォルデモートさんは少し身じろいで、そしてにやりと不敵に笑う。


「なぜ、そう思う?」
「……目の下のくま、とか。あと……勘?」
「そうか。……お前に気付かれる程とは、私も堕ちたものだ」


そう言っておかしそうに低く笑い声を零した。どこか自嘲を含んでいるような、笑い方。

彼は、誰かに気を許す事や、弱みを見せる事など出来ない立場の人だという事は分かっている。
そしてその事に、ヴォルデモートさんは何の情も抱いていない、という事も。
けれどそんな姿が、どうしても私の目には悲しく映ってしまうのだ。
堪らず、口を開く。


「私は、敵でも、死喰い人さんでも無いです。だから……」


私の前では、私にだけは、どうか隠さないで。


「今だけは、平気そうな振り、しなくてもいいのですよ」


懇願した声は静かに溶けた。すっと細められた赤い瞳は、何を思っているのだろうか。
彼の頬へ添えていた手を捕られ、自然と俯きがちになっていた顔を上げる。


「余計な世話だ、firstname」
「……でも」


じゃあ、どうしてそんなに辛そうに顔を顰めるのですか。


「お前も理解しているだろう」


そう言って、ヴォルデモートさんは目を伏せた。何の事を言っているのか、分かってしまう事が疎ましい。

手を伸ばせば触れられるのに、こんなにも近くに居るのに。どうしてだろう、届かない気しかしないのは。


「……分かってます。でも、だから……時折でもいいのです、本当に、ものすごく疲れちゃった時は、」
「firstname」


その綺麗な顔を顰めた彼の低い声に遮られて、言葉を飲み込んだ。


「もう良い。部屋に戻れ」


ゆるやかな拒絶は、私の胸を締め付けた。
彼にとって触れられたくない、触れてはいけない部分に触れてしまった気がする。
このまま部屋に戻りたくないけれど、ここに居たって、きっとどうにもならない。

なんて愚かな事を言ってしまったのか。
敵でも味方でもないあやふやな立場に居る私なら、ヴォルデモートさんを癒してあげられるかもしれないだなんて、そんな馬鹿げた事。


「ごめんなさい……」


何を言えば正しいのかが分からなくて、そっと呟くように口にした。彼は目線すら合わせてくれず、その瞳はどこか遠くを見ている気がした。
私は同じように、ヴォルデモートさんから目を逸らした。



「おやすみなさい」を告げて、静かにドアを閉める。
このまま廊下に立ち尽くしていても仕方がない、そう思って自室へと急ごうとした足を、ぴたりと止めた。
両手を胸元でぎゅっと握り、しばらく俯いて目を閉じたまま、脳裏に先程の光景を思い浮かべる。

少しどきどきする、二人きりの部屋。互いの吐息や衣擦れすらも響いてしまう、静かな真夜中。肌を撫でるいたずらな指先、そして。
暗がりの中一瞬だけ浮かべられた、まるで愛しいものに向けるような、彼の微笑み。

そのどれもが、思い出すだけでたまらなくなる。
幸福だけでつくられたこの夜を、出来る限り自分の中に焼き付けておきたかった。
例えそれが明ければたちまち消えてしまうような、束の間の夢だとしても。

 



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