姿現しでお屋敷に着いた後も、顔を上げるのが恐くてずっと靴の先ばかり見てた。
ヴォルデモートさんに買ってもらった靴。
出かける前はぴかぴかに光ってたけど、今はもう砂や土で汚れてしまってる。森の中を走ったんだから、無理もない。
ワンピースも裾が汚れて、ローブなんて消えてなくしてしまった。

あ……そっか。
呪文を真正面から受けたのに私は無事で、対してローブはぼろぼろになってた。恐らく、私を守った為に。
あのローブをくださったのは、ヴォルデモートさん。

隣を歩く彼をそっと見上げる。
その横顔に、胸の奥をぎゅっと掴まれたみたいになる。

彼に守って貰わなきゃ、私は何も出来ないんだ。
そう、いつだって私を守ってくれるのに、彼の期待を裏切ってしまった。

何も言われないけれど、肩を強く掴む腕が彼の苛立ちをはっきりと表している。でも、痛いなんて言えないし、逃げたいわけでもないし。
そんな事を考えながら、彼の早足について行くだけでやっとだった。

気がつけば、ヴォルデモートさんの部屋に居る。
静かな室内で、ドアに鍵がかかる音がやけに大きく響いた。気を取られている内に突然ベッドへ放られる。軋んだ音と共に、私の体重を受け止めた。


「い、っ……」


痛い、と言葉に出してしまうのを、唇を噛みしめて堪える。髪のあいだから見えた彼の表情のほうが、ずっと痛そうに見えたから。

乱れた髪を整えて彼を再び見上げた時、同じようにベッドが軋んで、私の上に彼が覆いかぶさった。

突然近くなった距離に、思わず目を閉じる。
衣擦れをさせながら彼の腕が伸ばされると、待ち受けていたよりもずっと優しく、その手は私の頬に触れた。
驚いて目を開くと視線がぶつかって、そしたらもうそらせなくなってしまった。

暗い部屋の中で、彼の赤い瞳が月灯りに反射する。燃えるような色をしているのに、私を見つめるそれはとても冷たい。

このまま、吸い込まれちゃう。
逃れるように俯くと、許さないとばかりに頬を滑る手に上を向かされ、


「ん……!」


唇が、重なる。
包み込むような柔らかな感触は、まるで息の根を止めるかのように、永い永いあいだ私を捕えていた。
高鳴る心臓を抑えながら、頬が熱くなっていくのを感じる。
上手く呼吸が出来ない。苦しさから閉じていた唇を開くと、願った通りのものが口内に入り込む。


「ふ、……っ」
「……苦しいか? firstname」


永い熱からようやく解放されて、懸命に息をしながら目を開けると、彼の顔がぼんやりと見える。暗闇に浮かぶ彼は眉を寄せて、とても苦しそうに私を見つめていた。


「ヴォルデモートさん……?」


どうしてそんな、辛そうな顔をしているの?
まるで、今にも泣き出しそうな。

彼のこんな表情は、今まで見た事がない。
最早泣いているようにすら思えるその顔に、私は思わず手を伸ばしていた。恐る恐る指先で目じりを撫でてみるけれど、不思議な事に涙は流れていない。
こんなにも泣きそうな顔をしているのに?

口を開こうとすると、ヴォルデモートさんは頬に触れていた手を掴み、私の身体をベッドに縫い止めた。
私を見下ろすその瞳を見つめ返すけれど、暗いせいで何も分からない。ヴォルデモートさんは今、どんな顔をしているのだろう。

そうしている間に、彼は私の首筋に顔を埋めながら、片手で器用に服の襟を寛げてしまう。
抵抗する隙を与えてはくれない。

先程まで合わせていた唇が、彼のさらりとした黒髪と共に優しく肌の上を滑る。その何とも言えない感触に、身を固くせずにはいられない。

この体勢じゃ見えないけれど。
ヴォルデモートさんはまだ、泣きそうな顔をしているの?
ねえ……。


「いっ、た……」


彼が唇を這わせていた箇所に、あまい痛みが生まれる。理解が追いつかないまま、次は肩の上を先程より強く、噛まれた。
衣擦れと、肌を撫でる彼の吐息と、時折零れる私の声。
二人きりの部屋に響くそれらはどれをとっても慣れないもので、あまりの羞恥に指先が震えた。

少しずつ毒を流し込まれ、ゆっくりと麻痺させられていくような感覚。
あんなに感じていた恐怖が、今では遠くに行ってしまったかのように思える。


「……firstname、」


溜め息混じりに呼ばれると、まるで背筋を擽られているみたい。
堪らず閉じていた目蓋を開けると、滲んだ視界のなか目が合った。彼の視線は、どんな時でも真っ直ぐだ。こんな時でさえ。


「……ヴォルデモートさん、あの……村、は」


本当は聞きたくないのに、まるで操られるように唇が動く。


「どうなったんですか……」


口に出してしまってから後悔する。私はいつもそう。何一つ成長していないと、自嘲するほど。


「……何を聞きたいのだ」
「その……闇祓いさんとか、来てましたし。もしかして……」


そのことで予定が狂って、もしかしたら、あの少年にはまだ帰る場所があるんじゃないか、なんて。
聞ける筈がない。だいいち望み薄もいいところ。それでも、ひとかけらの希望を求めずにはいられない。

でも、それと同じくらい知ってしまうことも怖かった。
そんな私のことを察してか、彼が先に口を開く。


「お前の望む答えを言ってやれば、満足するのか」
「っそんな、」
「あの村も小僧も、まだ救われる余地があるとでも?」
「……やめて下さい」
「違うか? ならば、なぜお前はそんな事を私に聞いたのだ」
「やめて下さい!」


唇を噛む。
耳を塞いで、逃げてしまいたい。


「……やめて、下さい……」


ぎゅっと握った手の中で、彼に贈られたワンピースがくしゃくしゃになってしまっている。
悲しい。
こんなことを言いたかったんじゃないのに。言わせたかったんじゃ、ないのに。


「もうよい。行け」
「……え」


どうして。


「わ、私……まだ」


まだあなたに言いたい事が、あるのに。
けれどその冷たい瞳に見下ろされた途端、考えていた言葉を全部失くしてしまう。
何を言ったって、自分が間違っているような気がした。

それとも、本当に私が間違っていて、彼が正しいのでしょうか。
ううん、本当にそうかもしれない。
だってヴォルデモートさんは誰が見たって完璧で、私よりずっと賢いのですから。

あなたのように強くはなれないし、弱虫だけれど。
けれど、そんな私でも、きちんと言わなきゃいけない事はある。


「……ちがうんです、ヴォルデモートさん」


あんな言い合いを、したかったわけじゃなくて。
私はただ、……。


「……ごめんなさい。勝手な、事して」


居心地の悪さを感じながらも、彼を見上げる。
自惚れ過ぎているのかもしれないけれど、きっと、


「……心配、してくれてたんですよね……?」


月が陰って、彼の表情が見えなくなる。
何も言われないのが怖すぎるけれど、言わなくちゃ。


「……迎えに来てくれたことも、ありがとう御座いました。でも、」


名前も知らない少年が見せてくれた儚い笑顔は、まだ記憶に新しい。
鮮明に思い出せる。彼の涙も。焼けた村も。悲鳴も。


「私は、……私の、した事は、間違ってないです」


死の呪文を放つヴォルデモートさんの姿も。
でも……あの惨状に立ち会わせた今でも、まだ気持ちは変わってない。

ヴォルデモートさんが好き。

そんな私が、あなたは間違っているなんて、どうして否定出来るのでしょう。
いったい、何の権利を持って?


「firstname」


そっと彼の両手に頬を包まれる。
僅かに射す月明かりが、その唇に浮かぶ笑みを照らしていた。


「ヴォルデモートさん……?」


どうして、笑っているの。
何も言えずにいると、笑んだままの唇が開かれる。


「私が……お前を咎めるとでも? たかだかマグルの小僧を一匹逃がした程度で、この私が?」


小さく息を呑む。
低い声は甘ったるく、私に囁いてくる。


「ああ……確かに、お前は罪を犯した。その事については別だろう。健気にも自ら罰を所望すると言うなら躾てやらねばなるまい」


罪には罰が必要だ、最も互いの為になる。

さながら甘言をささやくように、言葉は鼓膜を支配する。頬を撫でる手には、先程の荒々しさなど微塵も残されていない。その優しさが怖い程に。


「ではfirstname。私の言いつけを破り勝手な真似をしたお前に、罰を与えてやろう」


再び口づけられて、息を乱される。
苦しさから自然と、彼の肩に腕を回していた。その事に気分を良くしたのか、頬に置かれていた手が私の乱れた髪を柔らかく撫でる。思わず心地いいと感じてしまう自分が悔しくて、頬が熱を増していった。
まるで魔法をかけられたみたいに、手足の感覚が遠い。もしも彼に殺されるなら、こんな感じなのかな。

そうしているあいだに、襟元だけが乱されていたシャツのボタンの殆どが外されてしまう。
外気の冷たさに身体を震わせる私を見て、ヴォルデモートさんは目を細めた。


「苦しいか」
「っ!」
「firstname」


爪先で、喉元をえぐる様に擦られて息がつまる。
長い指が、私を捕える瞳が、獲物を狙う蛇のそれによく似ていた。


「言え。苦しいと」


指先に喉を押さえつけられる。苦しさに薄らと涙さえ滲んできた。
口がきけない為、私は押さえつけられたまま、微かに首を横にふる。彼は不快そうに顔を顰めた。
ややあって、その手が放される。


「っけほ、……っは……」
「……お前は私を選んだのだろう?」


肌の上から、心臓をゆっくりと撫でられる。
命を握られているような高揚感に、私の命は彼の手の下で脈うつ速さを増していく。


「……この場で。杖すら持たぬまま殺してやろうか」


呟くようにして言われたその言葉に、不思議と危機感は感じなかった。

この人は私を殺さない。
少なくとも、今、この場では。

彼は私をいつでも切り捨てることが出来るんだから。

彼の頬に手を伸ばした。
あたたかい。
私と、同じように。

彼は少し身じろいだものの、頬に置かれた手を払おうとはしなかった。
そんな些細なことが、こんなにも愛しい。


「firstname、お前は……何を悔いているのだ」
「……」


ゆるく、首を横に降った。

元居た場所は、確かにとっても楽しかった。
怖いことも悲しいことも滅多になくて、知らない誰かの悲鳴なんて聞かなくて済むし、まして村が襲われるシーンに居合わせた事なんて一回もない。

でも私は、ヴォルデモートさんと共に送る日々の楽しさや寂しさを知ってしまったから。
どんなに恐ろしいことが起きたって、一緒なら大丈夫だと思ったから。

いいえ、今だってそう思ってる。

『ありがとう、お姉さん』

ただ、罪悪感から逃れることは出来なかっただけ。
けれどあの時、ああして彼について行っていなければ、もう。
もう一生、あなたの傍に居る事は出来ない気がしたのです。

だからきっと、


「悔いてなんかないです……」


彼には嘘なんて全部分かってしまう。私には、細められた赤い瞳が何を思っているのかなんてちっとも読めないのに。

けれど、たった今彼がしていたあの寂しそうな表情は、きっと嘘じゃない。
勘違い? そんなはずない。
だって、こうしている今も、彼はどこか悲しそうに見えるもの。


「嘘をつくな」
「ちがいます、……嘘なんて、」
「今頃になって私の元から去り、もう一度以前の生活に戻れるとでも思うのか。……私の傍に居ながら、あれほど他人の死から目を背けてきたお前が」
「……っそれは、」


確かに彼の言う通り。私は、意図的に目を背けて来た。
恐ろしげな会合とか、騎士団の方に詰問を行っている最中とか。

中の様子を察した途端、ノックする筈だった右手を下ろして。
そしたら、スカート翻して回れ右。自分の部屋に戻ってチョコレートを味わって目を閉じて、何も見なかったふりだけはすごく上手な子になっちゃった。

だからって、何も思わなかった訳じゃないの。

それでも、ヴォルデモートさんの傍に居たいって気持ちを、私は選んで来たから……。
もう戻れないことなんか、ほんとは自分が一番よく分かってたのに。

俯く私に、彼は尚も口を開く。


「答えるがいいfirstname。いったい私以外の誰が、お前を受け入れてやれるのだ?」


鋭利な言葉は、私を傷つける為の呪文みたい。
酷いことばかり言われてる、のに、どうしてだろう。
ヴォルデモートさんが私の事を、まるで必死に繋ぎ止めようとしている様に思えてしまうのは。

私はどこにも行かないし、行けないのに。
だからもう、あんな悲しそうな顔はしないで。
お願い、


「ヴォルデモートさん、」


腕を伸ばして、彼を抱きしめた。
温かさが、鼓動が、重なる。
少し驚いている様子の彼に愛おしさが込みあげて、その広い背へ回した腕に力を込めた。


「私は、ここに居たいです……居させて下さい。ヴォルデモートさんの、傍に」


そう。
全部、ヴォルデモートさんの言う通り。
私はもう戻れない。戻れないほどに変わってしまった。魔法を使えるようになったし、ヴォルデモートさんを好きになった。
だから望んだ、彼の傍で笑って居たいと。

彼を選んだのは他でもない私。
だからもう……帰りたいだなんて思う筈は、なくて。


「……ヴォルデモートさんの傍に、居られるなら……いいんです。だって、……そう願ったのは自分なんですから」


彼は私に、ただ笑って傍にいればいいのだと、そう言ってくれた。
苦しいくらい嬉しかった。
あの言葉を、彼の思いを、私は無駄にしたくないの。

緩慢な動きで伸ばされた腕に、さら、と髪を撫でられた。

顔を上げると、ヴォルデモートさんがやさしげな笑みを向けている。
私の出した答えに対して、当然だとでもおっしゃるような、細められた赤い瞳。

それはとても満ち足りた表情だった。
まるで私の答えが初めから分かっていたみたいに。
……ううん、きっと本当に分かってたんだ。ヴォルデモートさんは、私の考えてることなんて。

ふと、遠い記憶が蘇る。
元居た世界のこと。友達。周りの人。好きだったこと。なりたかったもの。
今、目の前に居る彼が出てくる本とか。

懐かしいそれらを一つ一つ思い出していくたび、なぜかひどく物悲しくなる。


「怖いか? ……お前が泣く必要などない、firstname」


私が瞳に涙を溜めていることに気づいた彼が手を伸ばし、頬に触れられる。指先に目元を優しく撫でられた衝動で、ぽろ、と涙が一粒零れ落ちた。


「お前を守り傍に居てやれるのは、唯一この私だけなのだ。恐れる事は何もない。そうだろう?」
「……はい」


そうですよね。本当に、いったい何を悲しむ必要があるのでしょう。
ヴォルデモートさんがこんなに嬉しそうに笑っていらっしゃるのですから、私も笑わなきゃ。

気分は不思議なほど落ち着いているというのに、まだ涙が出てる。それでも笑みを形作ってみると、唇の隙間からしょっぱさが入り込んできた。

ぼやけた視界の中で、赤い瞳ばかりがはっきりと輝く。その宝石の中には、私が映っている。
誘われるように、彼の首へ腕を伸ばした。
身体を抑えつける強い腕や、呼吸を奪うような口づけが怖くて、同時になぜか安堵を覚えた。

本当だったら、私はここに帰って来られるような立場じゃない。
それなのに、ヴォルデモートさんは……迎えに、来てくださったから。

ねえ、わざわざマグルの町まで迎えに来て、閉じ込めるようなことを言って縛りつけるのは、あなたがまだ私を必要としているからなんでしょ?

もしかしてヴォルデモートさんも、少しは、私のこと……。

なんて、本人には絶対に言えないけど。

顔にかかった髪をすくわれ耳にかけられると、爪先が掠れてくすぐったい。
目が合って閉じれば、また唇が重なった。今度は幼い子供のようなキス。それから幾度か吐息を交わしたあと、私は彼を見つめる。


「ね、もし……私が、帰りたいって言ってたら……」


艶やかに濡れた唇が、意地悪そうに吊り上った。

……その不敵な笑み、私はすごくドキドキしちゃうのに、ヴォルデモートさん知ってるのかな。

肌を吐息にくすぐられながら、彼の瞳をじっと見つめた。いつか開心術を覚えたら、彼の心を覗けるでしょうか。


「帰りたいと願えば、私が怒り狂うとでも?」
「……いいえ?」
「この期に及んで無意味な事を。私の腕の中に居たいとせがんだのは、お前ではなかったか?」
「…………なんか、その言い方やです」
「お前が言ったのだろう。たった今だ。それすら覚えていないとは」
「そうじゃなくて……あなたのお選びになる言葉のニュアンスがですね……って、わかってるんでしょ、もう……」


なんだか少し、笑ってしまった。
こうしたくだらない会話をすると、いつもと変わらないみたい。

でも私は、本当に、いつものように笑えているのでしょうか。
いつかの時、彼が望んだように。


「firstname」


思考を遮るように、涙が流れた肌を、彼の舌が舐めあげた。

 



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