「ヴォルデモートさん、チョコレート下さい!」
「……fist name、」
ばーん、と扉に優しくない開け方をしながら言うと、奥のデスクからじろりと鋭い眼光が飛んできた。
彼は溜め息を吐きながら、その手にある古びた書物から顔を上げる。呆れの滲んだその表情に、うふふと笑顔で対応。
「ノックをしろと、何度言えば理解する。それとも身体に教えこまれたいか?」
「やだー、物騒な事言わな、……っ!」
止める間も無い。
彼はローブの裾から自身の杖を取り出し、私に向けてついと横一文字に振った。
一体何の魔法が放たれるのかと身構える。しかし、いくら待っても、危惧していた緑の光線とかは飛んでこなかった。魔法をかけられた筈だというのに、これといった変化は無い。
ほっと胸を撫で下ろしつつ、恐る恐る彼の様子を伺ってみる。私を見下ろすにやりとした意地の悪い笑顔に、ちょっと嫌な予感。
「、……? ……っ!」
「どうした、fist name。声が出ないか?」
「!」
黙らせ呪文をかけられた。
ようやく理解して、楽しそうに杖をくるりと回しているヴォルデモートさんを睨む。ふん、と満足げに笑われて、彼はもう一度私に向けて杖を振った。
どうやらやっと魔法を解いて下さったらしい。
「……っもう、いきなり酷くないですか!」
「頭で覚えられない馬鹿は身体で覚えさせてやる」
「わ、分かりましたよ! もう絶対うるさくしないですから杖仕舞って下さい!」
ていうか、いつもノックしていない訳じゃないのに。別に一度や二度位、見逃してくれたって良いのになー、ヴォルデモートさんにはそういうの通じないからほんと困る。
や、今はそんな事よりも、
「私にチョコレートを下さい、なのです!」
今日の目標はこれなのである。
本日はバレンタイン。
しかし、愛と共にチョコレートを贈るイベント、などと定着しているのは日本だけである。単なるお菓子会社の策略と陰謀で、今や外国に居る私には何ら関係がない。
……ないのだけれど、やっぱり、乙女としてはどうしてもそわそわしてしまうもので。
「まったく。その程度の事で騒ぐな」
「……あはっ。ごめんなさーい」
誤魔化すように笑って、一人用のソファーに座る。
まあやっぱり、ヴォルデモートさんはご存じないですよね。
私がわざわざチョコレートを強請る意味、なんて。知らなくて当然だ。ていうか下手すると、今日がバレンタインっていう事すら知らないかもしれない。
そう、当たり前の事。なのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。
ヴォルデモートさんがいつものように杖を振ると、テーブルの上に白いクロスと、チョコレートの乗ったお皿が現れる。その隣には、なんと嬉しい事に紅茶つき。
「……わ。ありがとう御座います、紅茶まで……!」
「ふん。こうすれば甘ったるい香りが少しはましになる」
なるほどその為か、とティーカップに口をつける。渇いていた喉が潤されていく、けれどちょっと味に違和感。
「んん。これちょっと、かなーり、お砂糖足りないのですけれど」
「いい加減にしたらどうだ。太るぞ」
「ちょっ、禁句ですってそれ!」
甘い物に恋する乙女に、そのセリフはダメ絶対、なのです。
ヴォルデモートさんが淹れた紅茶なのだから、砂糖を入れなくても美味しいけれど、やっぱりどこか物足りない。
その不足感を満たす為に、チョコレートに手を伸ばした。
何の飾りもないシンプルな四角形のそれは、口に含めば染み込むように甘く甘く蕩けて行く。
ごくんと飲み込んでも、口内には未だしつこくそれが残っている。
「……おいしい、です。とっても」
「そうか」
短く答えたヴォルデモートさんを見やる。予想通り、彼の目線は書物に向けられたままだ。そんなに面白い内容なのだろうか。
「……、」
面白いですか、そう聞こうとした口を閉じる。
どうせ、お前の無駄話に付き合うよりは千倍面白い、とか意地の悪い事おっしゃるに決まっているのだ、この人は。
「ヴォルデモートさん、チョコレートお好きだったりします?」
「……もう一度黙らせられたいのか」
「ごめんなさい無駄口叩かないでチョコ食べて静かにしてます」
苛立ちを含んだその声に、慌ててチョコレートを口の中に放り込んだ。もぐもぐ。
まあ、ヴォルデモートさんがチョコレートなんて好きな訳が無いですよねー。ティータイムのお菓子だって、全部私の為に用意してくれている訳ですし。たまに、私だけ食べる事が忍びなくってすすめてみたりしても、殆ど断られちゃうし。
バレンタインのチョコレートは、特別な意味を持っている。
もちろん、この場では私の独りよがりでしかないのですし、ヴォルデモートさんはいつものように、うるさい私を黙らせる為にお菓子を与えただけ。
このチョコレートには何の意味も込められていない、けれど。
やっぱりちょっと嬉しいなって思う位、は良いよね。
……だから、尚更。
上着のポケットに入れっぱなしにしてある、ヴォルデモートさんの為に作ったこのチョコレートは渡せない。
渡せる気がしないし、渡さない方が良い。なんとなくでしか無いのだけれど、なぜかとてもそう思う。
これじゃあ、わざわざ作った意味が無いけれど。でもどうしても、その方が良い気がするのだ。
熱心に書物を読み耽っているヴォルデモートさんに視線を送る。
文字を追う伏せられた目や、薄い唇、絶妙なバランスで整った目鼻立ち。
何度見ても、綺麗な顔。
学生時代とか、相当女の子に人気だったんだろうなー。
特にバレンタインとか、きっと沢山……それこそ山ほどのカードを貰ったり、告白されたり、とか。
ヴォルデモートさんはそういうのに興味を示さなさそうなイメージだけれど、学生らしくそれに応える事もあったのでしょうか、果たして。
……なんだかちょっと、面白くない。
「ねー、ヴォルデモートさん、バレンタインって知ってますか?」
彼がちらりと顔を上げ、私を見る。
「下らん行事だ。滅べばいい。いや、いつか私の手で滅ぼしてやる」
「ちょ、えー、そこまで言わなくても」
恐ろしい事を口走りながらも、その赤い瞳の視線はまた興味無さそうに書物に落とされる。
下らないと一蹴されるのは想定内だから別に良い、のだけれど。
「……日本のバレンタインは、相手にチョコレートを贈るのが主流なのです」
ひたすらチョコレートを口に放り込むだけの、簡単な作業をしていた手を止め、
「ヴォルデモートさんも食べます? 甘くておいしいのですよ」
笑って、指先に摘まんだその一つを見せてみる。彼はちらりとチョコレートを一瞥したけれど、すぐにまた手元の書物に視線を移した。
「要らん」
「そうおっしゃると思いました。いいですよもう一人で全部食べちゃいますから」
仕方なく、摘まんでいたチョコレートをそのまま口に運んだ。再び口内に広がる甘味は、乙女なら喜ぶべきものだ。普段なら、果てしなく甘いこの味を堪能しているのだけれど、
「……はあ、」
ヴォルデモートさんからチョコレートを頂く、という目標は達成したのに。
どこか憂鬱な気分が纏わりついて離れず、私は肩の力を抜いてソファーに背を預けた。
その時、ポケットに入れておいた手作りのチョコレートの存在を思い出して、更に気分が沈んでいく。
それらから逃げるようにして目蓋を閉じる。
紅茶とチョコレートで身体が温まったせいか、眠気すら覚えて来そうになった時、こつ、と靴の音が耳に届いた。
「fist name、」
「っ?」
やけに近くで聞こえた声に振り返って見ると、ソファーの隣にヴォルデモートさんが片膝をつき、かしずいていた。
「あ、の」
彼の突然の行動に首を傾げる暇も無く、ぐいっと利き手を引っ張られる。
赤い瞳が楽しそうに見つめる先には、体温に温められ溶けだした為チョコレートが付着してしまっている私の指。
あっ嫌な予感。
明らかに何かを企んでいるその瞳から逃げ出そうとするものの、手を掴む力が強くって、せいぜいソファーの上で身を引く事ぐらいしか出来ない。
「ヴォルデモートさ……ひゃっ!?」
彼の唇に笑みが浮かんだと思うと、開いたその隙間からちらりと出た赤い舌先が、指に這わせられた。
舐められた、と脳が理解するまでに、少しかかった。
ぺろ、と指に着いていたチョコレートを舐めとられる。柔らかく熱を持つその生々しい感触に、ぞくりと背筋を震わせた。
「っ……!」
伏せられていた赤い瞳に、反応を伺うようにして見上げられる。目を逸らしたいのに、まるで魔法にかけられたみたいに逸らす事が出来なくて、迷った末にぎゅっと目蓋を閉じた。
「バレンタインデー、か」
ふっと、ヴォルデモートさんが意地悪く笑ったのが気配だけで分かった、と同時に、零れた吐息が指にかかる。その微妙なくすぐったさを耐える為に、私はゆるく唇を噛みしめた。
「この日に何かを与えてやる事は無かったが……そう悪くは無いものだ」
「……え、」
つまり、バレンタインに贈り物をするのは、私が初めて?
そろそろと目を開けると、ヴォルデモートさんの綺麗な顔がすぐ眼前まで迫っていた。そのまま近づいてくる気配に、息を呑んで反射的に目を閉じる。
暖かい吐息を肌に感じるのと同時に、唇の端に不思議な感触の湿った物が触れられる。それは、つい先程まで指先に添えられていた、もの。
「なっ、……!」
言葉にならない抗議。
顔を真っ赤にして震える私を横目に、ヴォルデモートさんは目を細めくつくつと低く笑った。
「確かに、甘い」
そのまま舌で自身の唇を舐め、口元の笑みを深くする。
「……っ」
ますます恥ずかしくなって俯いた。
なんて事するんですかこの変態、とか文句の一つや二つ言ってやりたいのに……!
指にも唇にも、未だに、舌を這う感触が残っている。
それを振り払うように、小さく溜め息を吐き出し、ぎゅっと服の裾を握る。どくどくとうるさく鳴る心臓がいっそ疎ましい。
チョコレートなんてねだらなきゃよかったかなあ、なんて思ってももう後の祭り。
「……どうして、そんなにバレンタインが嫌いなんですか」
「バレンタインの概念は、“愛”だろう」
すっと目を細めながら、ヴォルデモートさんは私の隣に腰を下ろす。
それからその形の良い唇をひどく歪めて、
「下らん事をわざわざ聞くな」
嘲笑し、吐き捨てた。
「あはは、ですよねー……」
ヴォルデモートさんにこんな質問するなんて、私が馬鹿でした。
彼が何て答えるか、なんて薄々分かっていたけれど。
何だか少し、さみしい。
「……でも、」
上着のポケットの中の、出番を奪われたままのチョコレートに想いを馳せる。
「下らない事でも、それに一生懸命になれば、下らない事じゃ無くなると思いませんか」
彼の一言で否定されてしまった私の気持ちを、庇うように。
「……」
互いの視線が、交わる。
少しも逸らされずに注がれる赤い眼差しが、少しだけ怖く感じた。
彼が怖いと言うよりは、きっと彼の言葉が怖いのだ。
次はどんな言葉で否定されるのだろうか、と。
「上辺だけを取り繕った言い分だな」
「……むう」
ああ、やっぱり。
言い負かせる事なんて出来る筈無いのに、反論なんてするんじゃなかった。
唇を噛んで、そっぽを向く。けれど横からそっと手が伸びてきて、ぐいと強引に顔の向きを戻される。
再び交じり合う瞳。
「だが……お前は、それでいい」
優しく撫でるように、その手は私の髪に触れる。
「……はい、」
素っ気ないようで優しさを含む、その言葉がうれしくて。
私を見下ろすヴォルデモートさんの瞳が、少しだけ笑って居るように見えて。
そのせいで、こんなにもあっさり笑顔になっちゃうなんて。
私って、相当単純なのかもしれない。
でも、それでいいや。
それでいいって、彼がそうおっしゃったのだから。
まだ幾つか残っているチョコレートの一つを口に運ぶ。
「おいしいです、ヴォルデモートさん」
「……ああ」
顔を綻ばせる私を見て、彼は微かに目を細めた。
このチョコレートの味も、それと同じくらい甘いヴォルデモートさんの言葉も、忘れないようにしよう。
少なくとも、ホワイトデーまでは、ね。
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