ページを捲り終えて溜め息をつくと、吐いた息が白くなっているのに気付いた。
そういえば、指先もすっかり冷えきってしまっていた。閑散としているので集中出来る、という理由でこのだだっ広い図書館の、よりにもよって隅っこで読書を始めたのはまずかったかもしれない。

本も読み終えたし、そろそろ寮に帰ろうか。
冷気に身を縮こませてちらと彼の様子を伺うと、すっかり上巻を読み終えていて、今度はどうやら下巻に手を出しているようだった。彼のペースにはついていけない、色々な意味で。
今すぐ談話室に引っ込んで暖炉の前に行きたい、というのが正直な気持ちではあるけども、
依然として知識を貪るつもりでいる彼を置いて一人で帰るというのも憚られる。

仕方がない、我慢しよう。
熱心に書物を読みふけっている彼の邪魔をしないように、そっと席を立つ。そのままなるべく音を立てないようにして、本を探す為に棚の前をうろうろする。
この辺りは小難しいものばかりだけれど、せっかくだし読んでみようか。いや、背伸びして首を傾げながら読むあほな姿を見せたくない。彼の事だからばかにするに決まっている。本へ伸ばしかけた指先を引っ込める。
とりあえず、軽く読めそうなものを簡単に見繕って、席に戻った。相も変わらず本に夢中でこちらを気にしない彼に、内心小さな溜め息をつきながら。
先程と同じようにして、一人分椅子を開けて座る。別に、誰かもう一人来る予定という訳でもない。来たとしてこの席に座る事を歓迎はしないし。あくまで私は、だが。

この距離も、温度も、空気も嫌いじゃない。むしろ時に愛しく思う。けれど、無性に腹立たしく思う時もある。今が、まさにそんな時だ。

無駄な言葉を発しないおかげで、時折、お互いがページを捲る音。かすかな息遣いや、彼が膝を組みかえたり、私が頬杖をつく腕をかえたりする時のちいさな衣擦れ。それらの音がよく聞こえた。

さてここで、今すぐ私が席を立って、彼に腕を伸ばす事が出来たとして。
いや、やめた。
本に集中しよう。どこまで文字を追っただろうかと視線を落とすと、まだ一ページも読み進めていない事に気付く。考え事ばかりしていたようだ。勝手に一人で少し恥ずかしくなる。
改めて文字を目で追い始めると、隣でがたり、と席を立つ音がした。


「僕はもう行くけど」


君はまだそこに居るつもり?とでも言うような素振りで彼が言った。
傲慢な態度には慣れているので、何も言わずに本を閉じて私も席を立つ。


「それ、面白いかい? 随分と熱心に読んでいたようだけど」


小ばかにした笑みで言われ、かちんとくる。私がろくに読書などしていなかった事を知っているのだろう。


「リドルって本当、嫌味が上手」


顔を顰めて本をローブに隠すように抱え込むと、何がおかしいのか彼はクスクスと笑った。腹が立つけれど、この表情は好きだ。

司書のマダムに本の貸し出しを共に認めてもらい、図書館を後にする。
冷えきった廊下を黙って歩くと、足音だけが綺麗に響く。このささやかな音楽を何度も聞いた。

時折、雲からちらちらと顔を出す冬の日差しに少し目を細める。もう、だいぶ冬になってしまった。


「じきに雪が降るでしょうね」


窓の外を見ながら呟くように言うと、彼は何も言わずに私の視線の先を追った。
ホグワーツが白く染まる季節は、ひどく美しい。ただでさえ崇高な景観のこの城を際立たせる。
けれども、私は冬があまり好きになれない。なぜかすべてが物悲しく見え、無駄に感傷的になってしまうから。
現実的に言うと、日照時間が短いせいだとかなのだろう。けど、それでもこの沈んだ気持ちはどうにもならない。特に今年の冬は。


「もうホグワーツの冬も見納めだと思うと、……少し悲しいわ」


リドルはそんなこと、これっぽっちも思ってないのでしょうけど。

意図せずして嫌味ったらしい言い方をしてしまって、自分でこっそり驚いた。
まったくペースを乱さずに横を歩いている彼がちらりと視線を寄越した。


「だったら、どうかしたかい?」


……そんな、どうでもよさそうな言い方をしなくても。


「別に。良いと思うけど」


むしろあなたはとっても嬉しいのでしょうね。
やりたい事があるとか言っていたし、もう面倒な優等生のふりもしなくていいし、そのせいで寄ってくる生徒や教師にも、もう愛想を振りまかなくともいいのだから。

私は、彼の性格を多少は分かっているつもりでいる。
ホグワーツを卒業したら彼は色んな事を終わらせ、そして始まらせるのだろう。それが一体何のことかは分からないけれど。
そして、ここ数か月の彼の態度や行動を見ていると、とてもはらはらして落ち着かなくなる。
私の事も、彼の中の『終わらせること』のうちの一つではないのかと。

所詮、卒業するまでの関係。親しい友人というわけでも、愛し合った仲というわけでもない。彼が人に囲まれていたりする時私は声をかけなかったし、彼もそうしなかった。このあやふやな関係を言葉にするなら、そう。

ただ、少しだけ。
ほんの少しだけ、気が合ったというだけ。
それが、いつの間にかこんなにも。

内側からぽろぽろと感情が流れていくのを止められず、足を止める。
手が震えているのは寒さのせいか、それとも。


「……おなまえ」


私の足音が消えた事に気付いた彼が立ち止まり、俯いている私を振り返った。


「……さむい」


自分の唇から零れ落ちた言葉はひどく幼かった。
告げたい事があった。知りたい事があった。けれども、そのどれか一つでも口にしたら、そのままがらがらと崩れるだろうことを想像したら、私は言えなかった。
ねえ、と口を開くことすら。

彼は静かにため息をついて軽やかな足取りで私に近づき、いとも簡単に片手をとり握られる。驚いて顔を上げると、私の手にある冷たさかそれとも鬱陶しい態度に怒っているのか、きつく眉をひそめていた。そんな彼と対照的に、指先からじんわりと伝わっていく仄かな熱に言いようのない嬉しさを感じる。自分でもめんどうな奴だ、と胸のうちで苦笑する。

そうして、互いに口を開かずじっとしていた。このまま時が止まればいい。静寂が私達を支配し続けてくれればいい。
無駄な言葉は口に出さない。きっと初めて言葉を交わしたときから暗黙のルール。ずっと破らないで来た。そのおかげで保たれてきた安息の時間。
けれど、握られた手の心地いい体温を振り払いたくなる。ねえリドル。本当に寒いのは、凍えているのは、どこなのか。どちらなのか。
ふと、乾いた口をひらく。


「リドルは……就職、決まったの」
「……一応、ね」
「あなたの事だから、きっと良い所なんでしょうね。うらやましい」
「君はどうなんだい。決まったんだろう」


聞き返してくるとは思わなかった。意外だと思いながら小さく頷く。


「ダイアゴン横丁のちいさな書店で。コネって便利ね」
「それはいい。暇があったら僕も買いに寄るよ」
「……どうも、ありがとう」


卒業後に思いを巡らせてみる。
私は本の整理をしながら埃っぽい店内を掃除したりして、雑多な本に囲まれて、お客の来ない時は読書をして過ごす。
彼は……就職先は知らないけど、きっとどこでだって上手くやっていける。誰より働いて偉くなって、それで。
それできっと、リドルは私に会いに来たりなどしないのだろう。そして私は、来ないあなたをずっと一人で、未練がましく待っていることだろう。

会話が途切れてしまうのが寂しくて、言葉を探す。


「ねえ、それにしても、今日は変だと思わない。私達手なんて握って」
「君こそ、今日はやけに饒舌だ」
「……そんなこと」


言い当てられ、閉口する。
ふっと、すっかり暖かくなった片手が自由になる。今まで温められていた筈なのに、急に冷えた気がした。彼は要は済んだと言わんばかりに踵を返し、歩き出そうとする。
ぱっ、と自然に腕が伸びて、目の前になびく黒い布を掴んだ。


「ま、って……」


咄嗟にしてしまった行動に自分でも驚きつつ、声を絞り出す。
ローブの端を私に掴まれて動けない彼は、目を開いて私を見つめる。


「……どこ、行くつもりなの」


かつて彼の前で、これほど無様に取り乱したことがあったろうか。けどもう、なりふり構っていられない。限界だ。


「どこか、とても遠い所へ行くのでしょう。い、言わなくたって分かるんだから」


震える手で握っている彼のローブが皺になっている事に気づくけど、力を緩めることは出来なかった。離してしまったらもう最後な気がした。今の私の姿は、つまらないことで駄々をこねる子供と酷似している事だろう。


「買いに寄る、だなんて。わ、私の所になんて、絶対来ないくせに。よく言う……っ」


喉の奥から嗚咽がこみ上げる。呼吸が辛い。
一体、彼が今私をどれほど冷たい目で見下ろしているのか。知りたくもなかった。
視界がぼやけていく。


「このまま、全部、捨ててしまうつもりでしょう。でも、私はずっと覚えているから。絶対忘れたりしてあげ、な、……っ」


強く腕を引かれ前のめりになった時、離れたはずの体温が私を包んだ。その拍子に、片手で抱いていた本が足元に落ちて音を立てた。


「じゃあ君は」


顔を上げると目が合う。なにもかも吸い込むような赤い双眸は、いつだって簡単に人を虜にした。涙で滲んだ視界の中でそれだけが、はっきりと映っている。


「僕と一緒に来る気があるのか」


一瞬、呼吸すら忘れた。
ねえ分かってるの、リドル。その言葉は、私が何よりも望んでいたものなの。


「答えて、おなまえ」


イエスか、ノーか。

そんな容易いこと。


「……きかないで」


震える腕を伸ばし彼に抱きつき、胸に顔を埋めた。
今、すべてがあたたかい。
私の背にも強く腕が回され、余計に涙が溢れそうになる。零れ落ちて彼のローブをよごしてしまわないよう、乱暴に手の甲で拭おうとする腕を彼が止めた。ぽろ、と一滴、頬に流れた熱い涙を指で優しく拭い取られ目を伏せる。

この温度を、もう離したくない。やっと、触れる事が出来た。結局互いに、手を伸ばす事にはどこまでも臆病で、そのくせ捕まえてしまえば、ほら。


「リドル」


躊躇いがちに顔を上げると、目が合う。開きかけた彼の愛おしい唇を、私は静かに人差し指で撫でた。
どんな言葉も、私達には相応しくない。ずっと前から、言葉なんて無くたって上手にやってきたと思うもの。その結果がこれだ。

頬にかかった髪の一房を、触れられた指先でそっと退けられる。そのまま彼はゆっくりと屈み、私は爪先立ちをして、その口づけに応えた。

 

 



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