古びた紙面いっぱいにずらりと綴られた小さい文字の羅列にちらりと目を落として、うんざりする。ついため息をつきたくなったけれど、同じ部屋に居るヴォルデモートさんの存在を思い出してとどまった。
本のタイトルは、『上級治癒魔法の実践』。
この間ヴォルデモートさんが怪我をした時、まるで役に立てなかったのが悔しくて、彼の数ある書斎から拝借させて頂いた。
もし彼がまた怪我をして帰ってくるような事があったら、その時は私が治したい。や、もちろん、無いのが一番だけれど。
しかしタイトルに上級と書かれているだけあって、一人で勉強するには限界があった。
そういう訳で、ヴォルデモートさんに教えて頂こうと部屋を訪ねたのだけれど、忙しそうに羽根ペンを走らせ貪るように書物を読み漁る彼の様子を見ていたら、とても頼めなかった。
その癖、黙って帰るのも寂しくて、「自室が寒いから」なんて理由でこの部屋にお邪魔させて貰っていたりする。
でもこんなの、一人で勉強するのと変わらない。何度説明を頭の中でリピートさせても出来ないし、ちょっと心が折れそうだ。やっぱり、だめ元でもヴォルデモートさんに頼んでみたらよかったかも。
……一緒に居られるだけで、嬉しいけれど。
あれからお互い、まるで何もなかったかのようにいつも通りで居る。喧嘩をした事でぎくしゃくしてしまわないかと少し心配だったけれど、そんな不安、ヴォルデモートさんはあっさりと砕いて下さった。
いつも通り寝坊をした私を起こして下さった上、ありがたい事に眠気覚ましにと私の頭をはたいて下さいましたし。
そんな風に仲良く食事をとったし、「ヴォルデモートさん目の下にクマできてますよ」、「放っておけ」、とか、ちょっとした軽口だって交わす事が出来た。
それはとても嬉しいのだけれど、やっぱり不満は残っている。
彼がいつもの様に接する度、私はどうしようもない程に自分の無力さを実感する。
それとも、今はまだそれでもいいのでしょうか、果たして。
テーブルに頬杖をついて、デスクに噛り付いているヴォルデモートさんを眺める。
彼の背にある窓から射す逆光が、黒髪を透かしている。伏せられた瞳の赤い色。整った顔。どれも精巧で、切り取られた絵のように私の目に映る。
「……」
人知れず息を呑んだ。ぱっと視線をヴォルデモートさんから逸らす。
彼の事を、こんな風に意識する日が来るなんて。
緩やかに上昇し始める体温が慣れなくて、もどかしい。
「fist name」
不意に、静寂をやぶった低い声。
「……っは、はい、な、何ですか!」
いきなり名前を呼ばれて、思わず声が上ずってしまった。些細な事なのに恥ずかしくって、顔が先程より熱くなる。テーブルについていた頬杖を崩し、居たたまれなさに私はぴしっと背筋を大げさなまでに正した。
どうしよう、挙動不審。恥ずかしい。
「腹が空いただろう。昼食は何が良い」
「えっ? ……あ、じゃあ、軽めの物でお願いします」
もうそんな時間になったんだ、気づかなかった。
しまった、勉強が全然進んでない。我ながら、無謀な試みだったかも。
一人でやるのはやっぱり難しいし、午後の時間を少し頂けないか、ヴォルデモートさんに聞いてみようかな。……結局、彼に頼ってばっかりだ。
連れだって、食堂へ繋がる廊下へ出る。
そのまま彼の隣へ並ぼうと動かした足が、自然とスピードを落とした。
「……」
黙って、その広い背中を見ながら後をついて行った。
昼食をとりながら勉強を見て欲しいと頼んだ私に、ヴォルデモートさんは食後の紅茶を楽しみながら教えて下さっている。や、正確には紅茶なんてそっちのけでスパルタ授業まっただ中なのだけれど。
「……なんだか、お腹いっぱいで眠くなって来ました」
「永遠に眠りたいのならそうと言え」
「嘘ですよやる気満々です!」
椅子の背にだらしなくもたれていた身体を、一瞬で起こした。顔を顰めながら教科書の文書にもう一度目を通す。そんな私の様子を見て、ヴォルデモートさんは低い笑い声を上げた。
彼の冗談は冗談に聞こえない所が面白くない、と心の中で悪態をつきながら、それでも彼の笑顔が少し嬉しくて、悔しい。
「まあ、基礎がここまで理解出来れば後は実力の問題だろう」
「本当ですか? やったー!」
「言っておくが、実力を伴わなければ知識など何の役に立たん」
「えー……」
魔法は、覚えれば良いだけじゃなくて、感覚に頼る面が多々ある。呪文の発音だとか、杖の振り方とか。だからこそ教科書を読むだけでは難しいのだけれど、そういうのをさらりと出来ちゃうのが才能ある人なんだろうな、例えばヴォルデモートさんとか。
「魔法の勉強って、マグルの勉強よりずっと難しいかもです……」
溜め息混じりに呟いたその言葉に、彼がぴくりと眉を顰めた。
途端に、しんと訪れる静寂。
しまった。彼の前であまりこういう話はしないように、気を付けていたのに。
微妙に気まずい空気から逃げるように、教科書に視線を落とす。同時に、ヴォルデモートさんが紅茶を飲む音が頭上から聞こえた。
私は、浮かれていたかもしれない。
どんなにふざけ合ったりしても、私達の間には壁が隔てられていて、それは高く厚いということ。
その壁の向こう側に居る彼の目指す場所は暗く高く、私の手など恐らく届かないこと。
そんな事、とっくに知っていた筈なのに。
ヴォルデモートさんは、遠い人。
「……あの、後は一人で出来ますから、もう大丈夫です!」
お仕事忙しいのでしょう?と、自然に明るく笑いかけたつもりだったが、それは思いのほか引き攣ったものになった。
「そうか」
頷いた彼が、席を立つ。がたり、という椅子の音が、どこか寂しく部屋に響く。
その足で本棚に歩み寄り、何やら分厚い本をぱらぱらと捲ってはいくつも片手に抱える姿が見えた。
どうせ、また悪い事を企んでいるんだ。ついこの間あんな怪我をしたのに、本当に元気なんだから。
そこまで考えた時、不意に思考の隅に赤い物が浮かんだ。それはまだ記憶に新しく、頭の中で、床に滴り落ち絨毯を染める。
そのイメージを振り切るように、両手で顔を覆う。そうして暗くなった視界でも、鮮やかな色が目蓋の裏にこびりついたように離れない。
「はあ……」
自然と出た溜め息に、はっと口をおさえる。気づけば、眉間に皺が寄ってしまっていた。
ちらりと横目でヴォルデモートさんのほうを伺うと、目が合った。
「……」
その瞳が、呆れつつもこちらを馬鹿にした色をしている。ほらみろ、お前一人で出来るものか、とかそんな言葉が今にも聞こえてきそうだ。
こほんと咳払いをし、私から視線を逸らした。
とりあえず、続きをやらないと。
一人で出来ると強がった手前、もう彼に泣きつく事は出来ないのですから。
けれども無機質な説明の文章を読んでいるうちに、しょっぱい気持ちになってくる。
きっと、この気持ちは叶わないんだろうな。私とヴォルデモートさんが……なんて、無理があると自分でも思いますし。
それにもし伝えたところで、彼にとっては迷惑以外の何でもない。私の勝手な気持ちなんかで、困らせるつもりもない。
この気持ちは、誰にも悟られないようにして、心の奥にしまっておくのがきっと一番良い。
だから、私の願いは。
「fist name」
ふっと頭上に影が降りて、顔を上げる。
先程まで本棚の前に居た筈の彼が、いつの間にかすぐ傍に立っていた。何だろう、と目を丸くしていると、教科書をひょいと取り上げられる。
「気が変わった。今日は最後まで見てやる」
「え、」
驚く私を気にせず、彼は静かに、再び席につく。
何を考えているのかさっぱり読み取れない瞳を伏せて、その長い指でページを捲るさまをぽかんと見つめる。
胸の奥で、心臓の音が大きくなったのが分かった。
「あ、ありがとう、御座います……」
彼にとってはきっと何気ない行動なのだろう。
けれど、そんな些細な事が、嬉しくてたまらない。
消さないといけない想いなのに。こんなの、ほんの気の迷いみたいなもの、なのに。
出来る事ならずっとこうして居たいと、そんなありえない事を勝手に願ってしまう。こんな思いをするくらいなら、いっそ自覚しないままで居たかった。
嬉しくて、辛い。
ばれないように唇を噛みしめて、俯いた。
その時、ぐいと軽く髪を引っ張られた。反動で顔が上を向く。
「呆ける暇があったら集中しろ」
至近距離に、ヴォルデモートさんの顔があった。
「ご、ごめんなさいっ」
身体を後ろに引くと、彼の指先に捕まっていた髪は簡単に逃げ出した。
そっと片手を頬に当てると、熱くなっているのが嫌でも分かって、余計に恥ずかしくなる。
「あ、あんまり、気安く触らないで頂けますか」
照れ隠しの言葉が、口から勝手に出た。そのまま勢いで椅子ごと距離を取ると、彼はむっと顔を顰める。
「お前は私が拾ったのだ。文句を言える立場だと思うな」
「う。それは……」
確かにそうですけれども。
ぐうの音も出ない私に、彼はふっと口元を緩ませる。その顔が思いのほか魅力的で、悔し紛れに軽く睨む事しか出来ない。
「……ヴォルデモートさんのばか、悪党」
「馬鹿はお前だろう」
「悪党は否定しないのですか」
「要らん世話だな」
「そうおっしゃると思いました」
いつものやり取りに、自然と笑い声が溢れる。
やっぱり、こうして居るのがいちばん、心地がいい。
言葉を交わすだけで、目を合わせるだけで心が満たされる。
どうかこんな時間がほんの少しでも長く続きますようになんて、あり得ない事を願ってしまう程に、幸せで、同時にとても怖くて。
だからこそ、いつか終わってしまう時が来るまで、ヴォルデモートさんの傍で笑って居たい。
もしそれが叶うなら私は、自分の気持ちを押し殺す事なんて厭わない。
それ以上の事も、望まない。
……きっと。
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