喧嘩をしてしまった。その事実が、どうしようもなく私を落ち込ませた。
あの後、まるで叱られた子供のように部屋に籠り、日が陰るまでぐっすりと不貞寝を楽しんだ。眠っている間は塞ぎ込まずに済んだけれど、目が覚めると余計にむなしさが増してしまった。とんだ逆効果だ。
その上、いつの間にかテーブルに食事が用意されていて、それはつまり私が眠っている間に彼がここを訪れたということ。

いつ頃この部屋に来て、これを置いて行ったのかは分からない。恐らく随分前であることは分かる。それなのにどの料理も出来たての状態を保っているのは、そういった魔法がかけられている為だろう。
おまけにメニューは私の好物ばかりで、ご丁寧に食後のお菓子まで用意してある。
あんな喧嘩をした後で、一体どうして。
もしかしたらこれは、彼なりの謝罪のつもりなのかもしれない。そう考えると胸が苦しくて、無言でフォークをとった。

どれも美味しいそうなのに、いくら噛んでも味はしない。喧嘩などしなければ、美味しかったのだろうか。


「……ヴォルデモートさん」


ごめんなさい、と無性に彼に謝りたくなった。謝る事など何一つ、私には無い筈だというのに。



深呼吸をすると、自然の青臭い香りに肺を満たされる。伸び伸び育った雑草を踏むと、さくさく小気味のいい音がした。部屋に居ても落ち着かないので、戯れの散歩に出てみたのだけれど、我ながら名案だった。背の高い木々に囲まれて、少しだけ気分が楽になる。

けれど、こうしていても、嫌でも彼の事を思い浮かべてしまう。当たり前だ、この世界には殆ど彼との記憶ばかりなのだから。幸か不幸か、一番近くに居た人。
その証拠にこうして落ち込んでいても、誰かに相談すら出来ない。静かな森の中に居るせいか、まるで世界に自分だけが取り残されてしまったかのような感覚になった。
不意に足を止める。これ以上進んだら迷ってしまうかもしれない。ため息をついて空を仰いだ。薄いグレーで塗りつぶされた空に、余計気分が重くなった。こんな時ぐらい空気読んで欲しい。

このままこうしていても仕方ない。不本意ではあるけれど、お屋敷に戻ろう。帰りたくなくても、私の行く場所はあそこしかないのだから。

お屋敷への道を、俯いて歩く。確かこっちで合っているはずだ。ふと、何か強い香りが流れてきて顔を上げた。


「あ」


その光景に思わず目を見開く。
地面を覆うようにして咲き誇る薔薇。香りの正体はなるほどこれだったらしい。季節外れなのにこんなにも立派に咲いているという事は、魔法でもかけられているのかもしれない。
そういえば、ずっと前にここ来た事がありました。その時は先客のヴォルデモートさんが居て、そして。


「あれ……どうしたんだっけ」


たしか、薔薇を一輪……頂いた、ような。

静かな夜と月明かり。いつも通り下らない冗談を言い合った気がする、そして、彼は、


「っ痛……」


頭に鋭い痛みが走った。その拍子に身体がぐらりと傾いて、地に膝をつく。喉の奥から何かがこみ上げてくるような吐き気を感じて、片手で強く口を抑えた。気を失いそうになる痛みを、ただじっと歯を食いしばってやり過ごす。ぐにゃりと歪む視界で、真っ赤な薔薇が私を嘲っているように見えた。

何故だろう、既視感を覚えるのは。前にもこんな事があったはずだと、自分に問いかける。
……や、そんな事よりもまずは落ち着かなければ。そう思って必死で深呼吸を繰り返すと、暫くしてだんだんと痛みと吐き気が遠のいていった。
ふっと安堵の息を零す。念のため、まだ少しじっとしていよう。


「……」


ただ黙って薔薇を見つめる。赤いそれは、なんとなく彼を思い出させた。



両手に抱えた薔薇の花束を、潰してしまわないよう気を付けて運ぶ。
白いハンカチとリボンだけで簡単に包装しただけの素朴な小さな花束。けれど中々どうして可愛らしい仕上がりになったと思う。拙いけれど、これなら彼に渡しても恥ずかしくはない、はず。

まだ胸の中のもやもやは残ったままだけれど、もう一人で膝を抱えていじけるのにも飽きてしまった。というか元々、深く考える事自体が性分に合わないのだ。考えるより行動してみよう、それで結果がどうなっても。

やがて目的である部屋の前へと辿りついた。扉に耳を当ててみるが、中から物音はしない。
高鳴る鼓動を抑えながら、扉をそうっと、少しだけ開けた。隙間から顔を出して部屋の様子を伺ってみる。思った通り、彼は留守にしているようだった。好都合だ。ほっと一息ついた。

辺りを見回してみる。いつもはきちんと整頓された本棚が、珍しくぐちゃぐちゃになっていた。何か探し物でもしていたのだろうか。
奥にあるこげ茶色に塗られた木製のデスクの上には、本や羊皮紙の束が所狭しに置かれていて、その山に指一本でも触れたならたちまち崩れてしまいそうだった。

どうしようか頭を抱えた時、背後で扉の開く音がして、思わず飛び上がった。ゆっくりと、罰が悪そうに振り返る私を、彼は黙したまま見下ろしていた。そして、私の手中にある花束を見て、僅かに目を見開いた。
勝手に入ってしまった事を叱られるかもしれないと口をつぐんだけれど、彼は何も言わず、じっと花束を見ているだけだった。
ここで私も黙っていても埒が明かないので、勇気を出して声を絞り出す。


「……あの、」


ヴォルデモートさんの顔が見られなくって、つい俯きがちになる。そしてその時、視界の端に赤いものがちらついたのに気付いた。薔薇なんかよりずっと真紅の、純粋な赤だった。
同時に香る、鉄が錆びたような鼻につく匂い。


「……え?」


部屋がうす暗いのと、黒い服のせいで気づけなかった。彼の腕から流れるその血に。


「なんで、これ、怪我してるじゃないですか……!」


思わず叫んだ時、袖の下から彼の白い肌を赤く染めるその液体が一滴、長い指を伝って床に落ちた。
たまらず花束を投げ出して駆け寄り、恐る恐るその腕をとった。無意識に滲み出る涙が視界をあやふやにさせた。どうしよう、はやく、早く手当てをしないと。
そうだ、魔法。小刻みに震える指でポケットを探る。乱暴に杖を出して呪文を唱えようと記憶を手繰り寄せる。治癒魔法。確か本で読んだ覚えがあった。


「……離せ」
「な、なにおっしゃってるんですか、こんなに酷い怪我してるのに……!」


彼の制止を無視し構わず呪文を唱えた。けれど、集中が乱れているのと、経験不足もあるのだろう、望むような効果は得られなかった。しかしどうやら出血だけは止まったらしく、安堵してほっと息をつく。


「気は済んだか」


取り乱した私と裏腹に、落ち着きはらった声が頭上から降ってくる。彼の言葉に眉を顰めた。どうしてそんな、何でもない事のように言うのだろう。自分の事だというのに。


「……はい」


俯いて答えた。本当は済んでなんていないけれど、と心の中で付け足して。

掴んでいた腕を、振り払われる。視線を落とすと、床に落ちて絨毯に染みた血が、既に赤黒く乾き始めていた。そのすぐ横に赤いものが散っていて、それが花びらなのだと少ししてようやく気が付く。私が持ってきた物なのにすっかり忘れていた。
先程放り投げてしまったせいで、花びらが幾つか散っている。


「……自分の身を、少しは大事にして下さい」


その無残にしなびた花弁を見つめながら苦言を呈したが、彼はちらりと私を一瞥しただけで何も答えなかった。
泣きたくなる気持ちを、服の裾を握る事で誤魔化した。
鮮やかな赤が、目を閉じても瞼の裏に焼き付いている。

彼は淡々とした様子で、怪我をしていない方の腕で杖を握り呪文を唱える。私が先程かけたものと同じ系統の治癒魔法だけれど、今度は目に見えて傷が回復していくのが分かる。よかった、と思うと同時に、また涙が滲んでくる。

余計な事、しない方がよかった。私が、あんなちっぽけな魔法かけなくても治ったのに。自己満足のエゴを優先させてしまった事が申し訳なくて恥ずかしい。
でも、本当によかった。

彼が椅子に腰かけるのと同時に、私は躊躇いがちに口を開いた。


「……聞いても、いいですか」
「……」


いいとも、だめとも言われない。彼はただじっとこちらを見つめるだけだった。


「……その怪我、どうして、」


いったい誰に、と言葉を続けようとして止める。わざわざ聞かなくても、大体の想像はつくのだ。血なまぐさい話なんて出来る事なら聞きたくはない。でも、私は彼の口から聞かなければ、知らなければいけないような気がするのは何故だろう。得体の知れない焦り。

黙って彼の言葉を待った。交わる赤い瞳からは、何を思っているのかなんてまったく想像がつかない。やがて重々しく言葉を発した。


「お前には関係の無い事だ」


突き放された、と感じた。そして、この言葉は彼の優しさだとも気づいた。
どくん、と鼓動が早くなる音が聞こえる。確かに彼の言う通りなのだ、私には悲しいくらい関係がない。でも、だからって黙って引き下がるのも嫌だ。
知らないふりをするのは簡単で、自分だけ甘い蜜を啜るのも簡単で、本当は知っていて今までそうして来た。
その裏でこの人がどんな風に傷ついていくか、私は知っていた筈なのに。


「……でも、知りたいです」
「知って、それでどうすると言うのだ、お前は」


なかば縋るような私の言葉を、彼は糸も容易く一蹴した。彼の言葉はいつも嫌になるくらい率直で正しい。未熟で私とはそれこそ対極だ、迷いがなくて冷静で。時折、それがとても悲しく映るほどに。
ただ一つ確かに分かる事は。


「知らないままで、ヴォルデモートさんの近くに居るのは……嫌なのです」


シンプルに考えてみれば、私達の繋がりなんて一吹きで消し飛んでしまう程度のものだ。そんな私に心を開いて欲しいだなんて、ばかばかしいと自分でも思う。

でも、ヴォルデモートさん。今更こんなふうに一線を引こうとなさるには、貴方は私に優しくしすぎたのですよ。

私も、言葉にしてしまったからにはもう耳を塞ぐ事は出来ないし、今、はっきり自覚してしまった。
胸のなかで混ざり合っては濁り、苦しいはずなのになぜか心地がよくて、まるで熱に浮かされたような。
もしかしたら、これが恋という物なのかもしれない。そう思った時、すとんと何かが腑に落ちた。
同時に、今になってようやく理解する。あの喧嘩で、私が何に対して怒りを感じたのかが。
彼が、人の情など価値の無いものだと断言なさった時、お前もそうだと言われた気がして、だからあんなにも悲しくて辛かったのだと。

彼に拒絶される事が、辛い。四肢が震えているのが自分でも分かる。知るのは怖い。怖いけれど、少しでも彼に触れたい、近づきたい。


「知る必要は無い」


その時、彼が初めて私から目を逸らした。ひどく苦々しそうに眉根を寄せて。

どうして。
どうして、そんな辛そうな顔をなさるのですか。私は貴方にとって、取るに足らない人間なのですか。
……聞きたい事、沢山あるのに。

喉の奥が苦しくなって、熱いものが目に溜まっていく。ぼやけた視界の中で、彼が静かにこちらへ歩み寄るのが見える。思わず逃げ出したくなる気持ちを、足に力を入れて堪えた。
ゆっくりと、頬に手が伸ばされる。その腕を私はじっとして受け入れた。


「お前は私の傍で、ただ笑えばいい」


その瞬間頬に流れた涙を、彼は少し乱暴に拭いとる。服の袖に、私のそれが染みこんで色を濃くした。
ヴォルデモートさんは、何を思っているのだろう。見上げると、赤い瞳と目が合う。濁りの無いルビーみたいな双眸に、かつて畏怖を覚えた事もあった。けれど、今は。


「……はい」


これも拒絶なのでしょうか。
だとしたら、こんな優しいかたちで遠ざけられるのは余りにも残酷だ。

けれど、そうして望まれるのなら、私は笑おう。
ヴォルデモートさん、貴方の為に。

 


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