(私はまだ光を感じたことはない。
その前に、開く方法が全くわからない。私はとても無知だった。)
「起きろ」
耳元で囁かれるような感覚に肢体を震わせる。
ボーカロイド03、巡音ルカの耳には、まだ所謂ハスキー掛かった乱暴な男性声が耳にじんじんと残響していた。
それに応じて、ルカは思い思いに瞼を開く。初めて感じた光というのは、柔らかでゆるやかだった。時折光を強めると思うと、いきなり面白いほど急に小さくなっていった。ああ、まるで音のようだ、と和やかに夢想しつつは辺りをくるりと見回す。すると彼女のまわりには、ぼやぼやととらえどころのないものが浮遊していた。
くるくる、まるで巡るように。
「」
声を出そうとしても、バラバラに消えて口の中に拡散していく。なんとか喘ぐように声を出してみることしか出来なかった。
「ま、すた」
片言のそれに男はぴくりと反応し、酷く恐ろしい形相の顔をルカに向けた。自分はなにか可笑しな事をしたかとルカはすくみ、男に目線を合わせることしかできなかった。
ひとつ、恐怖が沸いた。
その恐怖はトラウマとなり身体に染み付いた。
それから男はルカの身体をそれとなく触ったり、叩いたり、したいほうだいで、その行為に自制は一切なかった。
絶え間なく降り続く恐怖心は、ゆっくりルカのなかに沈積していった。
「さあ、ルカ。さよならだ」
柔らかな肢体は弄ばれたときの、にやついた顔で見送られた。外に出た時、柔らかな風に長い睫毛が微弱に揺れた。
思えば、それがプロローグの終わり、そして始まりの合図だった。
全てはあの研究員の目録通り、全ては好調だった。柔らかな色気を感じる声は、多くの人間を魅了した。しかし、全ては好調とはいかなかった。
「またか」
「……すみません」
ルカはマスターに頭を下げる。
男性との絡みのある撮影は全て断っていた。マスターに毎回我が儘を言う訳にもいかなく、泣く泣く絡みの最低限に押さえられる仕事を受けるのみだった。そんな中、私のところには所謂百合と呼ばれる種類の仕事が舞い込むようになってきた。
「こんにちは」
彼女とも、この頃に出会った。ルカの初見の感想は機械的にかわいい人だと感じた。はっきりと存在主張する胸部や、ふるふると震える上向きの睫毛。
でもひどく機械的だと思った。
どれもとても本物らしかったけど。
「あなたみたいな人が、どうして私なんかと組んでいるんですか」
「……こういう売り出しかた、て言えば理解してもらえる?」
彼女は眉根を寄せ、まるでルカをまるで咎めるようだった。
「歌うのに感情を混ぜ込んでちゃダメですよ。公私混同をする馬鹿はそのうち野垂れ死にます」
酷い言い方だと思った。
それにしても、私たちに公も私もあるんだろうか。歌うためだけの、存在の私たちに。
「その色を含んだ声を、きちんと活用してください、最善の方法で」
彼女は、ルカに言い聞かせるようにしっかり、ゆっくり発音した。
きちんと、繰り返し何度も声に出さずに繰り返す。そう、きちんと活用しなければならない、これに生まれてきた限り。
「あなたに、私のことなんてわからないのよ」
「……悲劇ですね、誰とも感情を共有できないなんて」
哀れむような目でルカをじっと見つめる彼女に、素早く手を振り上げた。
今までの自分を、馬鹿にされた気がしたのだ。
するとルカは手を振り上げたまま、停止。それはそれは、実に滑稽な様に思えた。いくら降り下ろそうとしても、降り下ろせないことに苛立って自分の腕をみると、女の冷たい掌が、控えに手首を握っていた。青味の目立つ不健康な華奢過ぎる指だった。
「叩いちゃ、ダメですよ」
その時の力は、ルカの平手打ちが自分に降ってくるのを最低限に止めるためだけのそれだった。
手首を華奢で冷涼な指にひしりと掴まれたまま、振りほどくことか何故かできないルカは呆然としていた。
何故、自分が振りほどかないのいでぼうとしているのか、わからなかった。
「ごめんなさい」
呆然とした直後、ひどく驚愕とした。
自分がなんで謝っているのか、全く理解できなかったのだ。
本能的に口にした謝罪。本能は一体、何を恐れたんだ。自分より幾分が華奢な少女に。
「大丈夫です。そのうち消えます」
「え」
「不要なものは消えるべきなんです」
彼女はしっかりとした声でそれだけを言い、下を向いてしまった。
「不要なものは消えるべき」確かにそうなのだ。消えるべきものだからこそ不要なのだ。
「世界は恵んでくれます。その歌に価値があるのなら。」
彼女に話をした一月後のことだった。ルカによく似た青年が目の前に現れた。男は「どうか僕を殺してください」と掠れた蚊の鳴くような声で、ルカに頭を下げる。
ルカはその男を、嫌悪した。その男が男性であることへの嫌悪ではない。あまりにも、少し前の自分に似ていた。
自分の不要なモノの、象徴。
不要なものは消えるべき。
消えるべきだからこそ、不要なもの。
ルカの中の不要なモノは、この世界から消えてはなかった。
ルカから分離し、この世界に具現化しただけだった。
そう、全ては恥に上塗りを重ねただけ。
その残酷に絶望を孕んだ事実に慟哭し、ルカは衝動的に鋏を握った。
「ダメです。」
ゆっくりとした、言い聞かせるような声。その声はルカがいつか聞いたことのある現実味のあるたしかな声。
あの彼女だった。
ルカは彼女の無機質な瞳に弾かれたように動きを止める。「ダメなんです」
動きを止めたルカの指を、一本一本鋏から外していく。最後の一本を外した時、鋏が音をたてて床に落下した。
彼女はその様子を、ひたすらに無表情な瞳で見つめていた。
結果論からすると、ルカは男を殺せなかった。
しかし、助けられたはずの男は、彼女を今にも死にそうな顔で見つめている。
なんなんだ、とルカは笑った
結論として、世界はなにも恵んではくれなかった。
「貴女が、薦めたんでしょう?」
ルカはひどく退廃的な気持ちになった。熱されていた絶望が、どろどろと融けていって身体を伝っているような気分だ。
「すみません、貴女たちでちょっとした実験をしました。と言ったら、怒りますか?」
「は?随分、唐突ね」
「はい、実験課題は、この世界で誰かひとりでも幸せになれるのか。まあ、結論はノーでしたけれど」
何の為に、この世界があるのでしょうか。
彼女はそう呟きながら、青年の頬をさらりと撫でた。
「すみません」
ルカはぐらりと世界が反転するのを感じた。自分も彼らも彼女も、全てが極彩色の海に溺れる。焼けつくような頭の痛み、誰かの謝罪の声、全ては極彩色の海になす統べも無く、溺れていった。極彩色がぐにゃりと曲がりつつどろりと融けていく。まるで融解。
「ああ、起きたんですか、ルカさん」
「え、あぁ、グミちゃん…」
何か恐ろしい夢を見たような気がした。ルカの首や背中がべちゃべちゃに濡れていた。喉もからからと渇いている、あぁ、だが頬はべたべたと濡れていた。どうしようもなく動悸が速くなり、なぜか目の前にいる少女に 抱き締めて欲しいと思った。
「何か恐ろしい夢を見たのよ」
「そうですか」
グミはルカの濡れた頬をゆるりゆるりと撫でた。
その冷涼の掌をなんだか覚えている、気がした。
まるで背中に虫が這いずっているようだった。
何か、忘れてるのか?ルカの頭の中を繰返し反芻している小さな考えはどこにも溶けない。勿論、あの極彩色の海にも。
タイトル 空想アリアさま
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