■ 誘い
『王翦様、万事滞りなく』
「うむ」
私は背筋をピンと伸ばし、我が主である王翦様の元へ報告をしに走った。
王翦はこちらをちらと見ることも無く、盤上に目を向ける。
もちろん寂しいと思うほど子供でもない。
いつものその応対を終え、私は天幕の外に出た。
夜の帷もおり外は薄暗い。
少し離れた開けた場所。
そこに居たのは王翦様の息子である王賁様。
『精が出ますね、賁様』
軽く拱手をし、私は槍を振るう王賁様に話しかけた。
晒しを巻いて、上半身の鎧は脱いでいる。
「姜麗、か」
槍の鍛錬で息を上げている王賁様に汗を拭うための布を差し出す。
王賁様はそれを受け取り、額を拭った。
『王翦様は普段何を考えていらっしゃるのですかね』
何気なく出た言葉。
私は王賁様と王翦様が普段会話をしないことを知っている。
それなのに、賁様になんてことを尋ねたのだろう。
『申し訳ありません、今のは聞かなかったことに』
「いや、いい」
なんとなくいたたまれなくなり、私は左腰に指していた得物を抜く。
『賁様、お相手がいないのなら、お付き合いいたしましょうか』
そして持っている剣を賁様の方に向けた。
王賁様は少し鼻を鳴らすと無言で槍を構える。
キンという金属音が幾重にも夜の空に響く。
そして鋭い一撃。
私の右手から剣が弾き飛ばされる。
『はあ、お見事ですね』
そして少し痺れた手を抑えながら私は剣を取りに向かった。
「手は怪我をしておらんか」
『大丈夫です。少し痺れただけですから』
そういうと少し気まずそうな顔を見せる王賁様。
「姜麗が怪我をしていないか、気にかかるのは当然だ」
『えっ』
その言葉に耳を疑う。
王賁様は慌てたようにこちらに続けた。
「姜麗は父の、王翦将軍の大切な部下だという意味だ」
私は少し笑ってしまった。
そんなに慌てるなんて、らしくない。
『分かっています。ありがとうございます、賁様』
そのとき、天幕の方から一人の兵が走ってくる。
「姜麗様!王翦様がお呼びでございます!」
私は拾った剣を腰に差すと、王賁様に向き直った。
『短い時間でしたが、お手合わせありがとうございます。行ってまいります』
踵を返そうとすると、手を掴まれる。
振り向くと手を掴んだ張本人、王賁様はすぐに手を離した。
掴んだ自分に驚いているようだった。
「今は、父の部下かもしれぬ。しかし、俺が武功を上げたらで良い、玉鳳隊に来てはくれぬか」
絞り出すような言葉。
私は目を細めた。
子供だと思っていましたが、いつの間にこんなに大人になってしまわれたのですね。
『ええ。お約束いたします』
そして私は自然と笑みを向けた。
さあ、盤上での考えを終えた王翦様の模擬戦に付き合わねばならない。
『……今夜は寝れませんね』
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