いつ見ても教室の隅で静かに本を読んでいる女がいる。
分厚くて丸いメガネ、黒くて長い髪、無口で物静か。
まあ要するに地味で目立たないやつだった。
その見た目どおり性格も大人しくて、いつも周りから雑用を押しつけられてた。
今日もそいつは放課後遅くまで残ってなにかをしていた。

「おい名梨」

名前を呼ぶと大きく肩が揺れた。
そしてゆっくりこっちを向くと、目が合って再びビクリと肩が揺れた。

「ぁ、…っ」

怯えたような顔をした彼女に少し胸がチクリとしたが、気にしないふりをした。

「もう夕方だぞ。帰らねーでいいのかよ」
「…、日直の仕事、終わってないから…」

それだけ呟いてすぐ日誌に顔を向けてしまった七子の様子を不思議な気持ちで見つめる。

「……光義くんは、どうしたの」

こちらを見ないままポツリと独り言のように尋ねた彼女に「忘れ物した」とだけ言って自分の席に向かう。
彼女はそんな自分に目もくれず、目の前のノートに夢中だった。
なんだか面白くないので彼女の座る席の前の席に、彼女に向かい合う形で座った。
また肩が跳ねた。…面白くない。

「なあ、まだ終わんねーの」
「え、……もうすぐ終わる、けど」
「そーか」

窓の外ではちらほら片付けをし始める運動部の姿が見える。
二人きりの教室は名梨の使うシャーペンが紙の上を滑る音だけで、会話なんてものは無い。

「…真島くんと」
「あ?」

ぼーっと外を見ていたら、唐突に幼なじみの名前が目の前の口から出てきて少し驚いた。
目を向けるが相手は未だノートに顔を向けたままだ。
改めて「なんだよ」と聞き直した。

「さっき真島くんと帰ったの、見えたから」

だから驚いたの、と感情の見えない声で呟く。
もしかしてさっき驚いたことの言い訳をしているのだろうか。
なんだ、怖がってたわけではなかったのか。

「てっきり怯えてんのかと思った」
「…怯えるわけ、ないよ」
「そーかぁ?俺ァ弟と比べて顔が厳ついって妹たちからも言われるからよ。てっきりそうなのかと」
「…………顔が厳ついのは、うん、そうかも」
「…マジか……」

妹以外の女子に言われるとけっこうきついものがある。
顔に出さないように凹んでると、小さく笑う声が聞こえた。

「……笑うんじゃねーよ」
「っ…ごめ、っ……ふふ」
「まったく…」

頬杖をついてぶすくれていると、ようやく笑いが収まったのか「笑ってごめんね」と謝られた。
名梨はいつの間にか日誌を閉じていて、分厚いレンズの入ったメガネのその奥にある瞳は、きれいな輝きを携えながら真っ直ぐこちらを射抜き、その表情はどこか楽しそうな、それでもってあまり見たことがないようなものだった。
思わずドキリと心臓が高鳴る。
外は夕焼けから夜に移り変わる途中で、まだ明るいがもう数分もしたら1番星が光り始めるだろう。

「っ、か、帰るか!」
「うん、そうだね」

勢いよく立ち上がったことでガタガタと椅子が鳴ったが気にせず教室のドアまで大股で歩く。
名梨は日誌を教壇に置いてから教室を出た。
玄関まで続く廊下がやけに長くて、お互いの足音と制服の擦れる音しか聞こえないくらい静かだ。
教室にいたときからとてもうるさい心臓の音が聞こえてしまいそうなほど、静かだ。

「光義くん」
「っ!な、なんだ」

急に名前を呼ばれて身体が跳ねた。
後ろを俯きがちに歩いている名梨には気づかれなかったようで、慌てて返事をした。

「なんで私の名前知ってるのかな、って思って……今さらだけど」

知ってると思わなかった、最後に小さく聞こえた言葉にムッとして振り返ると、急に止まったことでバランスを崩して躓いた名梨が胸に飛び込んできた。
いきなりのことに頭が追いつかず固まってしまう。

「あっ、ご、ごめ…っ」

彼女は慌てて離れたが、互いの間には変な空気が流れていた。
気まずい沈黙が支配する。
ようやく出せた言葉は「だいじょうぶ」というなんともありきたりで面白みもないものだった。

「……ずっと同じクラスだろ」
「え?………あ、さっきの話…」

ようやく玄関まで辿り着いて、靴に履き替えている最中にさっきの問いかけに答えた。
入学したときから同じクラスで、クラス替えのたびに自己紹介をする。
そりゃあ覚えるだろ、そう言うと納得したような、少し寂しげな声色で「そっか」と返ってきた。
その顔はどこか俯きがちで、暗くなった今はもうどんな表情なのかを見ることは叶わなかった。

外はすっかり暗くなっていて、ちらほら街灯も点きはじめていた。

「それじゃあ私はこっちだから」

またね、と手を振ったあと背中を向けて反対の道を歩いていく名梨。
なぜかこのまま一人で帰らせるわけにはいかないと思い、勢いのままその腕を掴んだ。
驚いたのか勢いよく振り返る名梨に「もう暗いしあぶねーから送ってく」と言うと、無言のまま小さく首を縦に振った。

「ぁ、の…ごめんね、なんか……」

隣を歩く彼女がおもむろに口を開いたと思ったら、出てきたのは謝罪だった。
意味が分からず首を傾げると、「ここまで付き合わせちゃって……」と心底申し訳なさそうに凹んでいた。

「別に…気にすんなよ」
「うん……」

再び訪れる気まずい雰囲気。
何分くらい歩いただろう。
気がつけば、角を曲がると彼女の家というところまで来てしまっていた。
なにか、なにかないかと思っている内にどんどんと別れの時間は迫る。

「ここでいいよ。…ありがとう」
「ぅ…、おう」

結局なにも切り出せないまま、彼女を無事に送り届けてしまった。

「じゃあ…また明日な」
「うん」

ありがとう、ともう一度彼女は礼を言って玄関へ続く門扉を開けた。
自分を情けなく思いながら背中を向けて家路を歩きだそうとすると、「光義くん」と声がかかった。
振り返ると教室で見たような笑顔を浮かべた名梨が立っていて。

「私、光義くんの顔好きだよ」
「………………へっ?」

「……顔だけじゃ、ないけど」

小さく呟いた名梨は、「じゃ、じゃあね」とどこか慌てた様子で、放心状態の俺を置いてそのまま家の中へ入ってしまった。


暗い夜道を家に向かって歩く。
考えるのは彼女と、彼女が最後に小さく呟いたあの言葉。
どういう意味なのか。
顔だけじゃない、って?
…………顔以外も、好きってことか?
顔に熱が集中する。
慌ててぶんぶんと頭を振る。
それでも頭の中からは消えず、残るのは夕暮れの教室と先程見たあの笑顔。

「〜〜〜〜〜〜っ!!!」

かわいい、なんて。
もっと色んな顔が見たい、なんて。

「どうなってんだ俺は……」

恥ずかしさのあまりその場にうずくまって、大きくため息をつく。
顔が真っ赤なのは鏡を見なくても分かる。
明日どんな顔をして会えばいいんだ。

「まともに顔見れる気がしねーよ……あー、くそ」

また明日、なんて言ってしまったからにはフケるわけにはいかない。
我ながら厄介な約束をしてしまったと思っている。


とりあえず今は、家に着くまでにどうやったらこの赤い顔とうるさすぎる心臓の音が落ち着くかを考えなければ。
学ランの裏ポケットに忍ばせていたタバコを取りだし、同じ場所にしまっていたライターで火をつける。

「……あー…………かわいい……」

ぽつりと漏れた本音にじわじわと恥ずかしさがこみ上げてきて、照れ隠しと言わんばかりにつけたばかりのタバコを足で揉み消した。

家に帰るのは、まだまだ先になりそうだ。


おしまい。




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