ずっと東京という場所に憧れていた。
テレビでしか見たことない華やかな場所、人の群れ、高いビル。
そのどれもが魅力的で、いつか自分も『東京の女』になりたいとずっと願っていた。
だから、進学するにしろ就職するにしろ、高校を卒業したら東京に行こうと決めていた。

「七子は進路どうすると?」
「東京に行く」
「えっ、それマジだったの……」
「もち」
「そっかぁ…でも七子ならやってけそうやね」
「ありがと!」
「いいな〜七子は。夢があって…私なんて全然…」
「私も東京に行くんが夢やったけん…行ったあとどうするか考えとらんのよ」
「じゃあお互い様やね」
「ふふ」

友人とそんな会話をしたのはいつの頃だっただろう。



ジリリリリリリリリリリ!!!!

「…………夢かぁ」

目覚ましの音で目を覚ます。
気がつけば朝になっていた。
朝食を手短に済ませて顔を洗って歯を磨いて…いつも通りのルーティンをこなして玄関の扉を開ける。

「今日は怒られませんように…」

そう願いつつ施錠して駅に向かった。

通勤通学ラッシュの時間帯、常に電車は満員だ。
サラリーマンやOL、学生もぎゅうぎゅうに押し込められながら最寄り駅まで我慢大会。

(この時間が憂鬱だ…早く着いて……)

そんなことを思いながら辿り着いた目的地。
そこでも大量の人が電車に乗るための列を作っていた。
どことなく皆疲れたような顔をしている。
自分が疲れているからだろうか、そんなことを考えながら駅を出た。

会社では案の定、お局様やら上司やらからいびられた。
「こんなこともできないのか!」「バイト気分が抜けないやつはこれだから…」etc.....。
力なく頭を下げて謝罪の言葉を述べるまでがワンセット。
助けてくれる同僚もいやしない。
ちらりと見るとクスクス笑って顔を逸らす。

(…東京モンは冷たか)

ようやく昼休憩に入り、誰もいない屋上へ上がって食事をとり、食べ終わって狭い空を見上げる。
淀んだ灰色の空は今にも涙が零れそうだった。
鼻の奥がツンとする。
いかんいかん、がんばれ私。
こんなことでめげてたまるか。

「……っ、よし!」

小さく気合を入れて仕事場へ戻った。

「………なに、これ」

戻ってみると、自分のデスクが書類まみれになっていた。
よくよく見ると明らかに自分の仕事じゃないものまで混じっていた。
周りを見渡すと明らかにこちらを見て笑っているお局とその取り巻きたちがいた。

(私がなにしたと?)

あまりに悪質すぎるその仕打ちにとうとう我慢できず、前もって用意していた退職届を机の引き出しから取り出し、ふんぞり返った部長のもとまでまっすぐ歩み寄った。

「部長」
「なんだね。仕事は終わったのか」
「辞めます」
「なっ!?何を言って…そんな我儘が通るとでも」
「お世話になりました」
「ま、待ちなさい!名梨!名梨!!」

部長の呼び止めにも応じることなく、会社を後にした。
何となくスッキリした気分だった。

駅で電車を待っている時、自分のしたことがじわじわと実感できてものすごく凹んだ。

(なんしとるんや私は……)

はぁぁ…朝と同じ長いため息を吐き出して、とぼとぼと来た電車に乗りこんだ。

(………?)

尻を撫でられていると気づいたのは乗り込んでしばらく経ってからだった。
凹んだ気分と痴漢という恐怖と精神的な疲れで抵抗できず、隣にいたやたら背が高い面長の男の服を痴漢にバレないように弱く引っ張った。

「ん?」
「っ…、た、すけ、っ…」
「おー!なんだよこんなとこで会うなんて偶然だな!」
「ぅ、わっ!」

男は一瞬で状況を理解したようで、服を掴んでいた手を電車の揺れに合わせてグイッと引っ張ってきた。
自然と男の腕に抱かれる形になり、顔が熱くなる。
固まって動けずにいると、「大丈夫か?」と心配そうな声が降ってきた。

「あ、はい、大丈夫、です」
「そーかそーか」

幾分か頭が冷静になってきた頃、そういえば随分と長く乗っているが全然最寄り駅につかないなと思い、ドアの上にあった路線図を確認した。

「あーー!」
「うおっ!どーした?」
「……乗る電車間違えた……どこね、ここ」
「オレんちの近くだけど」
「そげんこつ聞いとるわけやなかよ!…うああ……なしてこげんこつに……」

項垂れて男の胸に凭れると、存外温かくてなんだか安心した。
「なんかグリコみてーな方言だな」なんて呑気なこと言ってる男の言葉にハッとして口元を抑えた(グリコって誰だろう)。
きっとこの男も内心笑ってるんだと思うと今すぐこの場から逃げ出したかった。
つい無意識に出してしまう方言を笑うやつが多かったからなるべく使わないようにしてたのに、どうやら出てしまっていたらしい。

「なっんでも、ない…です」
「なー、もっかい喋ってくれよ。グリコと同じ感じなのになんかかわいいな」
「かっ、かわっ!?」

男からの思いがけない言葉に声が上擦ると同時に顔を上げた。
大きい声が出てしまっていたようで、乗客が一斉にこちらを向いた。

(…なんか、不良の数が…すごい)
「この辺の人じゃねーだろあんた。普通のやつらはこの時間帯のこの電車にはみんな乗らねーんだ。それに、女が乗ってんのも珍しいからよー」

みんなあんたに興味津々なんだよ、と豪快に笑う男に乾いた笑いしか出てこなかった。

とりあえず一緒に男の最寄り駅で降りた。
ドアが閉まる直前まで不良たちがこの男に挨拶していたのは見ていて異様な光景だったが、男曰く「ふつーだろ」とのことだったので、気にせず前を行く大きい背中を追いかけた。

「…不良が多いんですね」
「まーな」
「……あの、さっきあの人たちが言ってた、『ゼットン』って、なんですか」
「ん?オレのあだ名」
「へぇ……」

そんな他愛もない会話をしながら、男の行きつけらしいラーメン屋へ入った。
「奢ってやるよ」と言ってくれたが、「いやいや、助けてくれたので」と逆に私が奢った。

「そーいやまだ名前聞いてねーな」

お互い食べ終わって休憩していたとき、不意に男がそう言った。
そういえばまだ言ってなかったなと思いつつ、もう会うことはおそらくないのに名乗る必要はあるのか?と疑問に思った。

「オレは花澤三郎だ!よろしくな!」

すると男が名乗ったので、こちらも名乗らないわけにはいかなくなってしまった。

「…名梨、七子…です」
「七子?いい名前だな!」
「っ、ど、どうも…」

男…花澤くんはどうやら褒め上手らしい。
名乗る前にも、豚骨ラーメンを豪快にすすった私に「すげー美味そうに食うな」と笑っていた(褒められていたのかは分からないが前向きに捉えておく)。
方言だって褒められたのは初めてだった。
会社では怒られてばかり、家に帰ってもひとりぼっちで、自分で思っていたより心身ともに限界だったようだ。
花澤くんのコロコロ変わる表情と大げさな話を聞いているうちに、自然と涙が出てきてしまった。
慌てふためいた花澤くんはなにを思ったのか、いないいないばぁの要領でおかしな顔を見せてきた。
どうやら笑わせて涙を止めようとしているらしい。
その健気なやり方に私は笑いながら、それでも涙は止まらなかった。

(……癒されるなぁ)
「あーもう!どーやったら止まんだよ!?」
「っ、ふふ…あはは、ごめ、ごめんね、私も色々あって、……あー、スッキリした」

深呼吸したらようやく落ち着いて花澤くんを見ると、彼はムスッとした表情を浮かべていた。

「私ね、会社でいじめられとって。何も知らない田舎者やーって毎日馬鹿にされとったと。そんで今日我慢できんくなって、辞表ば突きつけてきたんよ」
「へー、すげーじゃねーか」
「ばってん、今になって後悔しとるばい……なんであそこで辞表ば出してしもうたかち思うて」
「後悔する必要ねーだろー。七子ならもっといいとこ見つかるぜ!オレが保証する!」
「ふふ、ありがとーね」

自信満々に言う花澤くんにまた笑ってしまった。
いつの間にか方言を隠すこともせず、普通に話していることに気づいたのはしばらく経ってからだった。

「そろそろ帰らんと…」
「あ、もうこんな時間か。駅まで送ってやるよ」
「えっ、よ、よかよそんな…申し訳なか…」
「いーっていーって、気にすんな」
「……よか男やね、花澤くんは。彼女とかおらんの?」
「いねーなー。いたことねーよ」
「えー、ほんとに?私が花澤くんと同い年やったらなぁ…すぐ彼女に立候補しとったのに」
「えっ」

何気ない会話をしていると突然花澤くんが歩みを止めた。
その顔は夕日に照らされていたとしても真っ赤だ。
「どしたと?」と下から覗き込むと、思いっきり顔を逸らされた。

「照れとると?ふふ、いじらしかねー」
「て、照れてねーし!グリコみてーなこと言ってんじゃねーよ!」
「ね、さっきから気になっとったんやけど、グリコって誰?」
「アフロ頭で、この街で1番強い男だ。彼女が何人もいるムカつくヤローだ」
「ふーん…そん人も九州の方言話すと?」
「おー。でも七子の話し方のほうがなんか…」
「なんか、なに?」
「な、なんでもねー!」

花澤くんをからかうのが楽しくて、電車が来るころには涙なんて引っ込んでしまっていた。

「なんだか久々に笑った気がする」
「そーかよ」
「嘘やなかよ?…ほんと、ありがとうね。花澤くん」
「…おー」
「…また会いたい、ち言うたら…会ってくれる?」
「い、いーぜ。オレも楽しかったからよ」
「よかった…じゃあ、またね」
「おう」

お互いの連絡先を交換して、私は自宅へ帰るための電車に乗りこんだ。
アドレス帳に新しく登録された『花澤三郎』の文字を見るたび、知らず顔が綻んでしまう。

(人生まだまだ捨てたもんじゃないな)

転職活動がんばろう、電車に揺られながらそう決意し、帰路についた。


続く…かも?



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