死にたいとぼんやり思って生きていた。そのくせ、生きるために働いて、生きるために食べた。
仕事帰り。運悪く、雨に降られてしまった。歩くことも、息をするのも、生きることさえも億劫だった。かといって濡れて帰るのも嫌なので、ちょうど通りかかった知り合いの住むビルにふらふらと足を踏み入れ、階段で雨宿りをすることにした。薄汚れた壁に寄りかかったまま、何をするわけでもなく、ぼんやり雨が上がるのを待っていた。どんよりと濁った空を見る気にはなれず、時間が過ぎていくのに抗うこともせず、私は俯いたままでいた。


「なまえちゃん?」


長い脚が視界に入った。おもむろに見上げたその人は、黒い傘をちょうど閉じるところだった。
彼は、サンジは、私が濡れないよう、背を向けてゆっくり傘を閉じた。


「濡れた髪でますますセクシーだなあ!ちょうどなまえちゃんのこと考えてたんだよ!うーん、想像よりも遥かに美しい!」

「うざ……」

「本当だって。あ!もしかしてなまえちゃん俺のこと待ってたの?」

「別に、待ってない。雨宿りしてただけ」

「それなら店に来てくれれば良かったのに。もっと早く会いたかったなー」

「そんなこと、誰にでも言うんでしょ」

「なまえちゃんは特別だよ」

「うそつき」

「うそじゃないって……」


会いたくなかったわけではないが、会わなきゃ良かったと思った。サンジのテンションが嫌なのではない。彼に嫌な言葉しか返すことのできない刺々しい自分が嫌いで嫌いで仕方がないのだ。自己嫌悪感がつのりにつのり、とうとう黙った私にサンジは微笑んで見せた。が、それは突如崩れた。その目は、私の右手に注がれていた。手には、汚れた紙幣。迂闊だ。仕舞うのを忘れていた。


「……また客とったの?」


抑揚のない声だった。キラキラしていた瞳が翳りを見せる。


「……何でサンジがそんな顔するの」


私のことなど本当は好きでもないくせに、どうしてそのような顔をするのか。女なら誰でもいいくせに。
汚くて、ドロドロとした何かが心の中で煮立ち始めた。私は立ち上がった。


「なまえちゃん……?」

「ケーベツ、した?」


彼は黙った。図星なのだろう。しかし、仕方のないことだ。軽蔑されて当たり前なのだ。もしも私がまとも人間だったなら、はした金のために容易く脚開くようなアバズレは、当然軽蔑する。だから、今更私が傷つき、憤りを覚える理由などない。誰だって、キレイな女の方が良いに決まってる。私を軽蔑する彼は正しい。彼は正しくて、私の存在は間違っているのだ。


「帰るね」


雨は止んでいないけれど、行かなくては。私のような惨めな女は、濡れて帰るのがお似合いかもしれない。それとも、帰りにもうひと稼ぎでもしようか。知らない男にいいように抱かれながら雨宿りというのも、悪くない。その方が、きっと余計なことを考えずに済む。それに、これ以上、彼に気を遣わせたくない。そう思いつつも、けれど、足が動かなかった。まだここにいたい気がした。これでは、ほとんど彼の優しさを待っているのと変わりない。同情を乞う女。私は、なんて浅はかで汚らしい女だろう。まるで乞食だ。


「待って」


期待で胸が震えた。私の眼は飢えた人のそれように、きっと恐ろしい色をしているに違いない。そして、彼は全て見抜いているに違いない。賢い彼のことだもの。わかっていて、手を差しのべてくれるのだ。


「なまえちゃん、おなかすいてない?何でも作るよ」


面倒くさいだろうに。それでも、彼が私を放り出さないのは、その心が慈悲深く、優しいからだろう。優しい人。優しくて、優しいから、すがりついてしまいたくなる。優しい人はかわいそう。私のような悪人に利用されてばかりいるのだから。


「なんでも。いいよ。なんでも。サンジのごはん、おいしいから。なんでも、食べるよ」


あたたかい手が肩を撫でる。温かい雨が頬を濡らして、いつまでも止まなかった。