試してみたところ、指輪が見える範囲で、私は移動可能でした。ですから、彼が宝石箱にでも指輪を入れない限りは、私は彼の近くにいることになりました。しかし、指輪の中にいる間、私には意識はありません。それは眠っているに近い状態でした。
「おい」
「はい。何でしょうか」
私は呼ばれなければ、指輪から決して出ないと決めていました。それが私に出来る最大限の彼への配慮であり、唯一の彼との距離の取り方でした。けれど、意外にも彼は私によく話しかけてくるのでした。
「お前はものを食わないな」
「はい」
私の体は空腹や眠気を感じません。もちろん性の衝動もありません。実体がない体は、生物としてあるべき機能もなく、何も必要としないのでした。
「ふん、面倒のかからないペットだな」
彼はよく私をペットと称しました。指輪の中で飼われたヒトでないもの。確かに私は指輪に繋がれ、主人である彼に従順でした。しかし、私は忠義から彼に従っているわけではなく、抗う気が起こらないから、そうしているだけでした。
「お前は欠けているな」
「人にあるものがですか」
「欲だけじゃねェ。感情も、何もかもだ」
彼の言う通り、私は感情が欠如していました。鮮やかな感情の起伏が生まれたのは、最初に彼が指輪をはめたあの一瞬だけでした。それ以後、記憶は戻りましたが、心はちっとも機能していません。
「いじめがいのないやつだ」と彼は紫煙を吹かしました。何を言われても私が傷つく様子を見せないので、彼はそれが退屈なようなのでした。
「昔からそういうわけじゃないんだろう?」
「はい。人並みに笑ったり、悲しんだりしていた記憶がありますから」
「人間らしくか」
「人間らしくです」
「そりゃ何年前だ」
「さあ……。時間の感覚がないものですから」
私には確かに感情を持った人間だったときの記憶がありました。しかし、指輪に囚われ、彼の前に現れるまでの記憶はすっぽりと抜け落ちているのです。そもそもその間の記憶など初めからなかったのかもしれません。
私は頼りない記憶を辿り、人間だった時の大きな出来事を思い出しました。
「ああ、確かゴールド・ロジャーが処刑されて……」
「そりゃあ、もう二十年も前の話だな」
「そうなんですか?」
このように聞き返しましたが、特に驚きはありませんでした。しかし、ある考えが頭に浮かびました。
「それでは、クロコダイル。私とあなたは年が近かったのかもしれませんね」
彼の見た目からおおよその年齢を推し量ると、彼と私の年はそんなに離れていないようでした。
「もしかしたら、私の方が年が上かもしれませんね」
「そうなのか?」
「さあ、どうでしょう。私の今の姿は指輪に囚われてから少しも変わっていませんし、何とも言えませんが……」
私の体は当時十九歳だった時のままなのでした。しかし、堂々たる貫禄ある彼にも、青き時があったと思うと、なんだか少し可笑しな感じがしました。
「ますます奇っ怪な女だ。お前は幽霊か何かか」
「いいえ。死んだ覚えはありません」
彼は解せない様子でした。しかし、私にこの現象を説明する術はありません。
「その指輪から解放されることがあれば、私は人間に戻れるかもしれません」
「戻りたいか?」
「それが、ちっとも」
そう答えて微笑んでみせると、彼は不思議な顔で私を凝視しました。私の返答に驚いたのか、それとも私の貧しい表情の中に浮かんだ微笑に驚いたのか。私には分かりません。
ただ一つ分かることは、彼との会話はなかなか心地が良いということのみでした。