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寝坊をした。無遅刻無欠席を密かに誇っていた私は、かなりの動揺を見せたことだろう。今まで出したことのないスピードで歩道を全力疾走した。すれ違うサラリーマンや学生たちに訝しげな目で見られたが、そんなことに構っている余裕はなかった。朝食も食べずに家を出たのは生まれて初めてかもしれない。しかも、学校へ向かう途中、雨に降られた。それでも私は小雨に濡れながらも走りつづける他なかった。
そんな努力の甲斐あって、無事遅刻は免れた。しかし、私の機嫌はすこぶる良くないのである。空腹に寒さ。濡れた靴下を脱ぎ、来賓用のスリッパに素足を突っ込んだ。冷えた爪先は感覚などとうになくなっている。しかし、それでも寒いものは寒いのだ。体育もないのに体操服のジャージに着替えるはめになった私は盛大なため息を吐いた。
そんな陰鬱とした気分の中、あの入れ墨は再び我が眼前に自ら姿を現したのである。
「よう、なまえ」
昨日と変わらぬ不適な笑みを浮かべて、壁に手をつき、まるで私の進行方向を遮るようにして、彼は私の前に立ちはだかっていた。見下ろされるのは気分が良いものではない。それから、昨日よりも顔が近いような気がするのは気のせいなのだろうか。迫ってくる感じに、私は僅かに背中を反らすことになった。
「ククク……そんなに嫌そうな顔するなよ」
「……退いて下さい」
「断る」
新手のいやがらせなのだろうか。だとしたら、昨日のことを根に持っているのか。それは分からないけれど、なぜか彼は楽しげにしていて、こちらとしては対応に苦しむばかりだ。何より面倒くさい。あと、この顔を見ていると何だかムカムカしてくる、気がする。
「なにか?」
私は努めて冷静に問いかけた。が、彼は「フフフ……」と気味悪く笑うだけだった。
なぜ笑う。一体何がおかしい。そのだらしなく緩んだ口元を見つめていて、私はあることに気づいた。彼はさっき何と言ったか。
『よう、なまえ』
はっとして、私は彼を見た。彼がクラスメートの名前を覚えているようにはとても思えなかったのである。ましてや私のような地味な人物の名前が、彼の記憶に留まっていようとは思えない。私の顔に浮かんだ驚きを見て、彼の口元はニヤリと歪んだ。悪者じみた笑みが、更にそれらしくなる。
「みょうじなまえ」
突然、彼は私をフルネームで呼んだかと思うと、今度は生年月日から身長、成績の順位まで、教えた覚えのない個人情報をペラペラと淀みなく話し始めるではないか。
流石の私も冷静ではいられなかった。
「ちょっと待って!ストップ!」
「何だ?」
「何だじゃない!そんな情報、一体誰からきいたの?」
「お前と仲の良いナミって女に」
「な、なんの必要があってそんなことを…………」
「そんなもん、お前が気になるからだよ」
「だからって、気色悪い……っ」
「フフフ、そういうところが気に入ったんだ」
何なんだ。この男は。
私は引かざるを得なかった。罵倒されているのに、どうして彼はこんなに楽しそうなんだ。
「そんなに私のことが知りたいなら、直接本人に聞けばいいのに……」
言ってから、しまったと思った。私は素早く彼を仰ぎ見た。彼にとっては予想外の言葉だったらしい。その顔はポカンとしている。
「聞いたら、答えるのか?」
「え………」
私は僅かに後退したが、彼が一歩前に踏み出す結果に終わった。
「お前………」
彼の言葉には不吉な響きでもあるのか、とてつもなく嫌な予感がした。彼の言葉を待つ度にそれは起こる。妙な間の後、彼は言った。
「好きなやつはいるのか」
再び私は引かざるを得なかった。