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私は、街の片隅で蹲っていた。
人の往来は激しく、しかしそれでも誰一人として、私になど見向きもしなかった。
まだ真昼の日差しは、私には眩しくて顔を上げる気にもなれない。


「あら、なにかしらこの子」


上から降ってきた声に、体が震える。


「小汚いけど、洗えば少しはマシになるかしら」


それを連れていらっしゃい、と言う声と、それに返す声がする。
そして私は誰かに腕を掴まれ立たされた。
下げていた視線を上げると、絵本で見たようなドレスを纏った女性が歩く後姿が視界に入る。


これが、私の、この世界での始まりだった。










このよくわからない世界に来たのは、本当に突然のことだった。
コンビニに行こうと思って、小銭だけを掴んで家を出て、しばらく歩くと見知らぬ道に出ていたのだ。
短い道のりであったし、迷うわけがない。

しかし、気づくと見たことのない建物や人に囲まれていた。
どれくらいその街を彷徨っていたかはわからない。
誰に聞いても、私の家に帰る手段は見つからなかった。

そして疲れ果てて動けなくなったところに、奥様が現れたのだ。

奥様というのは、リリー・キューブリックという方で、大変裕福な方だ。
街の中でも一際大きな屋敷に住む奥様は、私を使用人として雇ってくださり、衣食住を保障してくれた。


「name、あなたもう少し真面目に仕事はできないのかしら」

「はい、申し訳ありません」

「こんなに不味い紅茶を淹れる使用人なんて、私は必要ないのよ」


髪から琥珀色の滴が滴ってきた。
奥様が、私に向かってティーカップの中身をかけてきたのだ。
私は、手元にあった布巾で床を拭き、奥様に頭を下げた。


「はい、すみません、淹れなおしてきます」

「もういいわ、下がって」


やはりというべきか、現実はシビアなものだ。
奥様は大変驕慢で有名な方で、使用人たちは皆手を焼いていた。
それでもこの仕事をやめないのは、奥様の権力に逆らえないか、もしくは特別な何かがあるから。
その特別な何か、が何なのかは詳しくは知らない。
けれど、奥様の逆鱗に触れると、消されてしまうということは噂では聞いていた。
どうやら、私は奥様によって消された使用人の代わりに雇われたらしいのだ。


「あら、name、また奥様に叱られたの?」

「・・・はい」

「紅茶も淹れられないんじゃ、しょうがないわね」


廊下で二人の使用人とすれ違う時に、こんな厭味を言われることはざらにあった。
家事などが得意ではなく、鈍い私は彼女たちの格好の餌食なのだ。
普段のストレスを私にぶつけて発散したいらしい。

最初は、発狂しそうになったこともあった。
しかし帰る方法も見つからなければ、他に行くあてもない。
そんな状況ならば、無理やりここに居るしかないのだ。
人の順応性とは怖いもので、ここで暮らすようになって一週間もすれば、段々と耐えられるようになってきていた。


「これはまた、派手にやられたね」


それに、嫌な人ばかりではない。
洗濯場に来て、汚れてしまった制服を洗おうとする私に声をかけてきたのは、ホセ・キャリオカさんという執事の一人だ。
ホセさんは、私が奥様に出会った日に同行していた方で、屋敷まで歩くのに手をかしてくれた。
容姿端麗で物腰も柔らかく、同僚はもちろん、奥様からもとても好かれている。


「ほら、これで髪を拭くといい」


洗い立てのタオルを手渡してくれた。


「…ありがとうございます」

「今度、美味しい紅茶の淹れかたを教えてあげるよ」

「そんな!……あ、いえ、助かります」


どうやら、私の失敗はお見通しらしい。
赤面する私を見る笑顔が、本当に綺麗で目をそらした。

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