「主さまは、何処に行かれた…」
呟くように、または溜息を漏らすように声は聞こえた。
その声の男は青空に浮かぶ雲のような白銀の長髪をバサバサと揺らしながら、本丸内の長い廊下を歩く。
朝食をすませて片付けをし、一息ついた。今日は透き通る空気で、雲は見当たらないぐらいの快晴だ。
という事は、この時間だったら、彼女はきっと畑に出ているものだと思っていた。
なので出陣予定も当番も特にない男は彼女とのんびりと大根でも掘るつもりだったのに。
その後、のんびりしながら髪の毛でも手入れしてもらおうと思ってたのに。当てが外れた。
畑が見える場所に行くと男は肩を落とす。
本丸内でも比較的に若い短刀達がじゃれ合いながらも大根を何本か掘り出していた。
だが男にとって大事なのは、大根を掘る事では無く、その中に彼女が居ない事。
じゃあ何処に居る?他の誰かと?どこかへ?本丸にそもそも居るのか?
そう思うと居ても立っても居られなくなり、本丸内を歩き回っている今に至る訳だ。
縁側を通りかかる際には自分と同じぐらいの年だったはずの爺二人に「一緒に茶でも飲まないか」と誘われたのを「またの機会に」と断り、あても無いまま本丸を進む。
丁度通り過ぎた部屋の襖が開き人影が視界にはいる、ただ探している匂いでも無いので通り過ぎようとした。
「やあやあ、これは小狐丸様!お急ぎの用でもございますかな?」
聞き慣れた狐の声に耳がふるふると反応したが「その通り」と一言だけ返して、少し、また少しと歩を早める。
そうだ、彼女は真面目に毎日の勤めを確認して回るのだからもしかしたら馬小屋の方かもしれない。
くるりと踵を返して今来た道を戻る。
鳴狐とよく喋る狐の背中を追い越し、縁側までつくと爺二人に先ほどと全く同じ事を聞かれる。
いや、男も充分、年代的に爺なのだが…この二人は男とは別格の爺感を出しているように見える。
「小狐丸、私達と一緒に茶でも飲まないか?菓子もあるぞ、くえ。」
「君の分の茶もすぐ私がいれよう、今日は鶯色のお茶菓子を揃えてみたのだ、ほら綺麗だろう、つまんでいきなさい。」
ずいと差し出された鶯色の小さな菓子を見つめる。
どうして良いのか、とりあえず、ひとつだけ手でつまみ口の中に放り込む。
砂糖と餅が合わさった菓子を飲み込むように食べると、爺二人は「旨いだろ」と満足したように笑った。
縁側に備えてある草履に足を通し、紐を結びながら男は二人に重ねて断りをいれた。
「三日月、鶯丸、今は少し忙しいゆえ、またの機会に。」
草履を何度か踏みしめて、爺二人が男の背中に向かって「残念だ」「狐とも茶がしたい」と嘆く声を聞き流し、改めて馬小屋へと向かう。
馬小屋に近づくにつれ、和気あいあいとした声が聞こえて来る。
もしかして彼女がココに居るかもしれないと思うと小狐丸の耳がふるふると動いた。
「狐、どうしたの?」
近づいて来た男に気付いた蛍丸は、馬の首を櫛で丁寧にすいていた手を止め声をあげた。
近づいて来るにつれて、どんどん大きくなるその姿を見上げる。
いつも通りのひょうひょうとした態度だが、いつも浮かべている微笑は見られない。
だが何か聞きたい事はあるのだろう、蛍丸の顔をじーっと見つめては口を何度か空回せている。
どうやら切り出しにくい話のようだ。それならば向き合って待つよりも、馬の世話を続けていた方が切り出しやすいかなと思い、蛍丸はまた馬の毛に櫛を通しはじめる。
「ぬ…主さまは此処に居られるか?」
ポツリと小さく呟いた巨体を思わず見上げる、どんな話をするかとそう思ったのか蛍丸は苦笑した。
「あるじ?今日は来てないよ。」
主はどうやら大きな狐を手懐けているみたいだ。
だが、あの主の事だ。
特に手懐けようとしたつもりはないのだろう。
狐と主が二人で話している光景が目に浮かぶ。
すると目の前に居る大きな狐の耳が垂れ下がったのを見て彼は本日二度目の苦笑をもらした。
そうかならば仕方ないと、小狐丸は踵を返して去って行った。
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